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ヴァラクという悪魔

二つ名とクレイオス

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「ここの蓮は、澄んだ水の中に咲くのね」

 奥の院の泉の前に膝をついたレンは、泉に咲く白蓮の花に指を滑らせながら呟いた。

「異界では違うのか?」

「あちらの蓮は、泥水の中に咲くのです。池底に積もった泥に根を張って、汚れた水に触れないように花を咲かせるの」

 天窓から差し込む陽の光と、クリスタルが創り出した小さな虹がチラチラと揺らいで、レンの姿を幻想的な絵画の様に浮かび上がらせている。

 息を呑むほどの美しい光景だが、主役である筈のレンはどこか悲し気に見える。

「あちらの世界には、数え切れないくらい沢山の宗教があるのですが、その幾つかは蓮の花を特別な象徴としています。 “汚れた人道から天道へ至る“ “汚れた現世に染まる事なく、神の与えた義務を遂行するもの“ そんな感じです。 祖父はそういう清廉な人になって欲しいと名前を付けてくれたのですけど、私はあちらにいる時は、自分の名前があまり好きじゃなくて」

「なぜだ?」

 綺麗な良い名だと思うが。

「だって、私はそんな清廉で清浄な存在とは程遠い、いたって平凡な人間なんですよ? 天道に至るような聖人になるには、人間らしいあれこれを、削ぎ落として行かないと駄目なわけで、でも私は聖人君子ではない俗物なので、普通に友達と遊んだり、美味しい物を食べたりしたいじゃないですか?名前に恥ずかしくない人間になれ、人生は修行だ!とか言われて、理想を押し付けられても、なんて面倒な名前を、勝手に付けてくれたのかと」

 異界では名にそれほど深い意味を持たせるものなのか・・・。

 まぁ、俺も大昔の王の名を付けられて、子供の頃には,貴族連中からあれこれ言われたからな、気持ちは分からんでもない。

「祖父が一生懸命考えてつけてくれた名前ななのだけれど、こんな綺麗な場所で、この白蓮の花を見ていたら、祖父が望んでいたのは、こういう清廉な姿なのかな?って思うと、泥水出身の私には祖父の理想を叶えるのは無理だな、と再確認して居たところです」

 君はそう言うが、俺からすればレンは、充分清い存在なのだぞ?・・・。

「今は名前を好きになれたのか?」

 レンは異界に居る時と言たっな?

「今は好きになったのか?」

「ん~。大好きとは言えませんが、アレクに名前を呼ばれるのは好きです」


「君は招来の時、あのアウラ像の胸の辺りに光の繭となって現れ、二度目の生を受けた。あの美しい光景を、俺は生涯忘れないだろう」

 番の横に跪いて、掬い取った髪に口付けを落とすと、恥ずかしそうに、ふいっと横を向かれてしまった。

 こんな純情なところが残っているレンが清くないはずがない。

「・・・・神殿の奥の院洗礼の間は、俺達が二つ目の名を神から授かる場所だと知っているか?」

「ええ。一応」

「二つ目の名を掛けた誓いは、命に関わる程強力な契約になる。だから、基本的にはその名は、誰にも明かすことのない自分だけの名だ」

「・・・アレクも持ってる?」

「あぁ。持っている」

 君になら名を明かし、二つ名の誓いを立てても良い。
  
「泉に入り神に祈れば、名を貰えるはずだ。やってみるか?」

 暫し逡巡した後、頷いたレンは泉の中に入って行った。
 アウラの像の前に進み、両手を組んで祈りを捧げる姿は、俗物とは程遠く清廉そのものだ。

 やがてレンの体が淡い光に包まれ、黒く艶やかな髪がふわりと靡いた。
 無事名を授かった様だ。

「アレク?これって?」

 振り向いたレンの掌の上に、青紫の花が乗って居た。

「それか? 洗礼を受けた者が神から祝福を受けた証だ。・・・見たことがない花だな」

「これは、あちらの藤の花です」

 なるほど、レンの家名の花か。

 異界の花を贈るとは・・・。
 これはレンに対する贖罪のつもりか?

 アウラ神から、“全てが終わるまで呼びかけには応えない”と言われて居たレンは、名を貰えないと思って居たようだ。

 無事に名を貰えてホッとしたと言い、二つ目の名の話を続けようとする紅唇に、俺は指を当て、それを止めた。

「二つ名は、君の胸に仕舞っておけ」

「・・・うん。分かった」

 濡れた服を魔法で乾かし、二つ名を授かる時に、神への挨拶も済ませたと言うレンを抱き上げ、クレイオスの元へ戻ることにした。

「クレイオスの魂を戻す方法は、知らないのだよな?」

「アウラ様は、私が居ればなんとかなるとしか言わなかったんです」

 神という存在は、全てを知り過ぎているからか、細かな配慮とは無縁なようだ。

「本番になったら、アウラ様も力を送ってくれますから、きっと大丈夫ですよ」

 言われたことを鵜呑みにするのは如何なものかと思うが・・・。

 そこがレンの良い所でもあるのだが、簡単に騙されそうで、一人にしておくのは心配でもあるな。
 
そこに付け込んでばかりの俺が言うのはあれか?

「そうか。だが無理はするなよ?」

「はい」 

 神殿前の広場に戻ると、クーは俺たちが離れた時と同じ姿勢で、クレイオスの足元に蹲っている。
 
 これは魂を移す準備に入っているのか、単に強者への畏敬の念の表れなのか・・・。

 レンはクレイオスの足元へ歩み寄り、蹲るクーの背中を優しく撫でた。

 クーは鼻面をレンに押し当て、甘える仕草を見せたが、直ぐに地面へ顔を伏せ目を瞑ってしまった。

 それに気遣わし気な視線を送ったレンだが、キュッと唇を引き結び、瞳を強くしてクレイオスの右の後脚に掌を当て、治癒魔法を掛け始めた。

「閣下、上手く行くでしょうか?」

「アウラ神を信じる他あるまい?」

 レンを心配しているのか、マークの表情は硬く、顔色も冴えない。

「なんだかんだで、ちびっ子は強え~から、心配すんなよ」
 
 物言いは雑だが、ロロシュの言葉は自分自身に言い聞かせている様でもある。

 レンが治癒を始めると、クレイオスの後脚が淡く光り始めた。

 その様子を、広場で昼餐と野営の準備をして居た騎士達が、手を止め固唾を飲んで見守っている。

 治癒の光は徐々に大きくなり、やがて巨大なクレイオスの体の全てを包み込んだ。

 レンの額に玉の様な汗が浮かんでいるのが見える、きつく結んだ唇も色が無くなってきている。

 “アウラは何をしているのだ! またレン一人に負担を掛ける気か? アウラよ。クレイオスは、貴方の大切な存在なのだろう? さっさとレンに力を貸して、自分の半身を取り戻せっ!!”

 心の怒号が神に届いたのか、雲間をぬって一条の光が空からクレイオスへと降り注いだ。

 その光は、クレイオスの足元に蹲るクーとレンをも包み込み、クーの体からクレイオスの魂の宝玉が浮かび出てきた。

 宝玉はクーの卵に入った時の十倍以上の大きさまで育っている。

 あの大きさを取り戻すために、どれだけれレンから魔力と神聖力を吸い取ったのだろうか。

 神達はレンをいいように使いすぎる。
 
 俺の抱く不満など知りもしないのだろう。

 クレイオスの魂の宝玉はクーからはなれ、ゆっくりと浮かびあがり、クレイオスの胸へと吸い込まれていった。

 天からの光に包まれたクレイオスの巨躯がふるりと震えた様に見えた。

 治癒をかけ続け、顎先から汗を滴らせるレンの肩にパラパラと、何かが降り落ちてきた。

「あれは・・・・レン!そこから離れろ!」

 ハッと振り向いたレンの肩に、クレイオスの身体から溢れ落ちた、砂が降りかかっている。

 魔力を使い過ぎたのだろう、立ちあがろうとしたレンの足元がふらついた。

 それを見て、一息で駆け寄った俺は、レンの腰に腕を回し、小さな身体を肩に担ぎ上げ後ろに飛び退いた。

「クーッ!!離れろ!!」

 しかしクレイオスの魂が抜けたドラゴンは、蹲ったまま動こうとしなかった。

 地響きのような低い唸り声が響き、ガラガラと音をたて、精巧な彫像が崩れ落ちていった。

 グラララ・・・・。
 
 喉を鳴らし ブルルッ と胴震いしたクレイオスは、伸びをする様に長大な翼をバサバサとひろげ、巻き起こった風で吹き飛ばされた砂と小石が体を打った。

 レンをマントの中に隠し足を踏ん張ったが、クレイオスの起こす風は体が押し戻されるほどの風圧だ。

 そこかしこから、騎士達の悲鳴が聞こえてくる。

 顔の前にあげた腕の陰から、辺りを探ると、クレイオスの起こした風で、鍋が飛び、張りかけの天幕ごと、騎士が何人か吹き飛ばされていた。

 クレイオスの喉から、楽し気な咆哮が放たれ、空気がビリビリを震えて、鼓膜が破れそうだ。
 
 千年越しの目覚めにしては、随分派手なことをしてくれる。
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