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第四十一話 ありがとう、おおきに

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 宴もたけなわ、ご近所の方々はそのまま同じ方向の者と興奮気味に話しながら自分の長屋に戻っていったが、寿三郎たちのいる長屋の者達はお祭り気分で部屋を開け放ち、庭に縁台を出して酒を飲んだり語らったりとやりはじめた。

 散々いじられた寿三郎は井戸端に来ると、立ち上がろうとしていた正太郎と長次を目に留める。

「肩を貸すぞ正太郎」

 痩せ細って軽くなった身体を持ち上げてやると、正太郎は嬉しそうに微笑んだ。

「もう、もう、寿三郎の旦那よぉ……、笑いすぎてほっぺたが張り裂けそうだったよ……!」
「くっ……もう言うな。おのれ……天道の奴め」
「裏方をやってるって聞いたから……まさか出てくると思わなくてよぉ、不意打ちだろありゃあ……」
「俺だって聞いてない」
「ある意味天賦の才なのだそうですよ、寿三郎様は」

 長次がてんとうから聞いた評価を口にすると、寿三郎が嫌な顔をして空を見上げた。

「明日から指をさされて表を歩かなきゃならん……」
「ははっ、みんなに喜ばれたんだ……人気があるのはいいことでさ旦那」
「何が人気者だ、いい笑いものにされただけだ」

 正太郎は笑いながら胃の辺りを手でさすり、顔を歪めた。

「大丈夫か?」
「……寿三郎の旦那、ありがとうな……」

 それは最期の別れのような響きで、寿三郎の返事を止めた。部屋の前まで来ると長次が木戸を開け、そこで別れる。

 ぼんやり立ったままの寿三郎を長屋の連中が見つけ、輝き天道を歌いながらとっくりを押しつけてきた。それを受け取ると肩を抱かれ、井戸端の方に迎え入れられる。お福とてんとうが惣菜を持ってやってくると、化粧を落とした天道と吉祥もそれに加わった。
 今日は特別な日だ。生涯忘れることはないだろうと、ここにいた全ての者が思っていた。


 翌日、正太郎の看病でお福がやって来た時、横になっていた正太郎はひっきりなしに言っていた。

「ああ、昨日は本当に愉しかった……。かんとだき、あれはうまかったなあ……。こっちの風味とは全然違う。柔らかい味で……」
「そないに気に入ってくれたのなら、また作ってあげるわよ」

 また翌日、天道が見舞いにやって来た時も、正太郎は大喜びで芝居を見た喜びを伝えていた。

「それが、困ったことに……あの日の曲が、寝てても一日中離れないんでさあ……」
「癖になるやろー」

 そのまた数日後、てんとうと会話をしていた長次の様子がよそよそしいのに気がついた正太郎は、横で世話を焼いていた吉祥に聞いた。

「あれは……」
「尻に敷かれるわな」
「ああ……やっぱり、そういうことか……!」

 女の趣味は良いと安心したのか、父はにやけた様子で息子を見つめていた。

 その数週間後、寿三郎が見舞いに訪れた時、正太郎の様態が変わった。再び黒い血を吐き、町医者を呼ぶことに。
 正太郎自身、自分の最期がいつ来るのを大体分かっているのだろう。お福に大家を呼ぶように伝え、皆を外に出して何やら話し込んでいた。

 その翌々日、正太郎は皆に見守られながら、静かに息を引き取った。


 先日の賑わいが嘘のように静まりかえった長屋。正太郎の葬儀が終わると、空が泣き始めた。
 雨がしとしとと土を濡らす音を耳にしながら、揃いも揃ってやる気の出ない様子で寿三郎の部屋に集まってごろ寝をしている。口達者な連中が四人も一つ所へ集まっているのに、誰一人として口を利かず、ただ天井の模様を凝視しているだけという光景。その中で同じく寿三郎も横になってぼんやりしていたが、徐に立ち上がると戸を開けたので吉祥が声を掛ける。

「どこ行くん」
「厠」

 傘を出してから泥濘を避けてどぶ板を辿りつつ井戸端の方向に向かうと、菅笠を被った身なりの良い侍が長屋の木戸の辺りでこちらを見ているのに気がついた。はっと息を呑み、うかつにも部屋に刀を置いてきた自分に舌打ちをする。傘があるのがまだ救い、警戒して睨み付けて様子を見ていると、その侍はこちらに声を掛けてきた。

「お主が馬場寿三郎か」
「……何者だ」
「主から言づてを預かって参った」

 節々に上方の訛りがつく侍言葉を聞き、寿三郎が眉を動かすのをその侍は見過ごさなかった。

「心当たりがあるのやったら、お主で相違ないな?」
「ああ」

 侍は菅笠を少し下げると、口元だけを見せて続ける。

「文の返事だそうや。品物は確かに受け取ったと。お互い触りたくない事情があるだろうから、この先関わり合いになるのはやめて、お主の言う通り幕を引くとのことや」
「……その保証は?」
「恩情を掛けてもうてんや、無条件で呑むのが筋であろう」

 それだけ告げると、侍は踵を返す。

「では、お伝え願いたい」

 寿三郎がそう続くと、侍は足を止めて少し顔をこちらに向ける。

「もうご承知のように、文にも認めた通り、この先袖振り合うことがございますれば、某、天に口添えいたします故。そのようにお伝え下さいますよう」

 会釈をして目を伏せ、相手の動きを注視するが、侍はそのまま雨の中を歩いて去って行った。

 丸腰で侍に啖呵を切るとは、命知らずと言われても仕方がない。寿三郎がふうと安堵の息をついて厠の方を振り向くと、長屋の軒下で吉祥がこちらを見つめて立っているのに気がついた。

「……立ち聞きか」
「お互い様やろ」

 それから大股で寿三郎の傘の中に入り込む。

「寄るな」
「しゃあないやろ、おっきな声で話せへんねんから」

 何を聞きたいか予想はついている。寿三郎はため息をついた後、吉祥の形良い耳元で呟いた。

「……扇は飛脚に持たせて持ち主に返した。手を引けと文をつけてな。それが嫌ならば、御上に事の成り行きを話すと言っておいた」
「返したんか」
「お主はあれが身の安全を守る切り札だと思っていたのだろうが、当人は紋があるが故にどうしても取り戻さなければならなかったのだ。ならば手放してしまった方が良い」
「また襲われたらどうすねん」
「証人がいる。もう手を出してはこないだろう」
「誰」
「俺だ」

 目を合わせ、驚いた様子の吉祥が何か言いたげに口を開く。だがその言葉を呑み込み、苦笑いを見せる。

「……阿呆やな、ジブン」
「む? 何故だ」
「ええからはよ厠に行ってこい。名前のとおり、ばば漏らすで」

 吉祥は寿三郎の持っていた傘を奪い取り、ふらふらと部屋に戻っていく。

「あっ、こらっ……!」

 文句を言おうとしたが、濡れるのを嫌がった寿三郎はそのまま厠へ逃げ込んだ。それを見た吉祥は悪戯に微笑む。

「ほんっまにこいつも……座長と同じ、お人好しやな」

 口には出さなかったが、そしてこれからも出すことはないが、心の内では、寿三郎に『おおきに』と幾度も幾度も繰り返していた。
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