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第三十九話 堪忍してな

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 裏長屋の連中に訳を話して頼み込むと、皆大層喜んでくれた。さほど使っていない場所を貸すだけで只で芝居が見られるのだ、よほどの偏屈でもない限り断る理由もなく、長屋に住む者はお互いよろしくやっていかねば容赦なく追い出されるので、おかしな奴はいないということもあり話はすんなり通ってくれた。
 病床に伏す正太郎の提案というのも強かったのだろう、大家の清八も快く頷いてくれ、妻と娘を連れて見に行くとまで約束してくれた。只でご奉仕ということもあり、周囲に人が押し寄せて大事になってはよろしくないので、大した出し物はできないがと付け加えておいたが、そんなことはどうでもいいのだろう。江戸に住む連中は、お祭り事が好きだ。いつもの場所に道楽が入り込むというだけで心を躍らせ、その日をまだかまだかと楽しみにし始める。

 寿三郎と天道が庭を借りて殺陣の稽古をしていると、子供達がそれを真似て棒きれで遊び出す。それを見かけた他の長屋の子供が集まり始め、次は芝居じみた遊びを見た大人達が興味を示す。ただの稽古であるのに長屋の連中はそれを見ながら酒を飲み、仕事に向かえば先々で天道一座が勧進するのにうちの長屋を稽古場としてつかっているのだと得意げになる。それはいい引札となり、当人達が知らぬうち、じわりじわりと一座の名前が江戸に広がっていった。


 その日は雨で稽古は休みとなり、長屋の外は静かなものであった。ここ最近の賑わいから打って変わり、しとしと降って落ちる雨粒が景色を落ち着かせている。
 踊りで周囲を使わせてもらっているということもあり、この数日吉祥は長屋の敷地内にある稲荷の手入れをしていた。誰に言われたわけでもなかったが自然とそれが日課となっており、今日も昨日と同じく様子を見に来ていた。
 吉祥が外に出るのを見計らい、寿三郎はその後をついて出て行くと、自分が声を掛ける前に先客がいたのに気づいて長屋の影に身を寄せる。誰かと思えば、歳に比べて小柄な体格の長次だ。

「吉祥さん……」

 呼ばれて吉祥は振り返り、傘の合間から女狐のような美しい微笑みを向ける。

「おお、どないした長次」
「今日も稲荷の掃除ですか? 雨なのに……」
「葉っぱが挟まって中に水が入ったらやっかいやからな。社が腐ったら神さんも困るやろ」

 長次はしばらく吉祥が掃除をする様子を眺めていたが、二、三歩前に出るとぐいと手を前に出した。吉祥の目の前に差し出されたそれは黄金の舞扇で、親骨の要付近に紋が見える。

「……見つけてくれたんか」

 吉祥はそう言ったが、長次は首を横に振る。

「おいらが盗ったんです。あの日、父上が黒い血を吐いた次の日……朝早く出かけて、掛け小屋に忍び込んで……」

 近くで覗き込んでその話を聞いていた寿三郎は顔を戻す。

「天女の扇は俗世の薬だって……」

 そこまで言って、長次は雨粒のような涙を頬に伝わせた。俯いてしゃくり上げる長次の手からその扇を静かに受け取り、吉祥は少し広げた扇の地紙でその涙をすくい上げた。

「おおきにな。ジブンのおかげで、悪徳侍に盗まぺちられんとすんだ」
「……ごめんなさい、大事なものを……おいら……」
「……堪忍してな。長次のおとん、治してやれへんで……」

 長次の謝罪を遮るように吉祥は言うと、その目を見ながら何度か頷いてから、扇で小さな尻を軽く叩いた。

「もうええから、おとんのとこ戻り。風邪ひくで」

 長次は鼻をすすり、乱雑に着物の袖で涙を拭うと、大きく頭を下げてから部屋に走っていった。その傘から散った雨の雫が数滴吉祥にかかり、まるで涙のように頬を伝う。
 一通り見ていた寿三郎は静かに身を引いて部屋に戻ろうとしたが、すぐ後ろに吊り下げてあった軒先の看板に頭をぶつけて軽い音を立てる。当然勘のいい吉祥に見つかるわけで、舌打ちを一つ投げられた。

「なんや……立ち聞きかいな、趣味悪すぎるわ」
「うぐ……」

 寿三郎は言い訳もできずその場で口をつぐむ。こうなったら隠れる必要もなく、稲荷の前まで歩を進めた。

「お主……知っていたな?」
「なんのことや」
「長屋で盗みがあれば大事になる。その扇がどんな価値かは知らんが、長次は当然、正太郎も、下手をすれば俺も、追い出されて投獄されたかもしれん」
「ほー、そうなんか。知らんかったわ」

 嘘だ。こんな常識を知らぬなどと、白すら切れていない。おそらく吉祥は、先日稽古場を探しに行って襲われた時、侍に扇を渡せと言われて気づいたのだろう。天道が襲われたあの日、侍達は扇を奪うために掛け小屋で騒動を起こしたのだ。しかしその時すでに、朝に掛け小屋に忍び込んだ長次の手によって、扇は外に持ち出されていた。幸か不幸かその長次の行動で侍達の手に扇は渡らなかったが、盗みが知れればどんなお咎めを受けていたか分からない。吉祥は何故長次が断りもなく扇を持ち出したのかを察していたので、それをひた隠しにしたのだろう。

 寿三郎は小さくため息をつき、吉祥に手を差し出す。

「見せてみろ。紋があるのなら、どこの者か分かる」

 吉祥は寿三郎の顔色を一度窺ったが、隠し事はしないといった手前、それを破った自分を相手が責めないので肩身が狭いとでも思ったのだろう。大人しく扇を差し出すと紋の部分を前へやる。それを確かめて寿三郎が言った。

「念のため聞くが、未練はあるか」

 その言葉に吉祥は鼻で笑う。

「あるわけないやろ」

 まあそうだろうと思ってはいたが、寿三郎は筋を通す。

「幕を引くぞ」
「……できるんか」
「分からん。五分五分だ。どの道、五分が駄目でも、今と同じになるだけだ」

 吉祥は肩をすくめる。

「ほな、五分に賭けた方がええわ」

 それだけ確かめると、寿三郎は扇を手に取った。
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