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第三十一話 旅一座、長屋へ移る

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 色々なことが一気に重なりすぎたせいで、気落ちしている暇もなくなった。忙しくしていると悲しいことも忘れると言うが、全くその通り。少なくともその時だけは目の前の問題しか見えなくはなった。
 肝心な部分は伏せながら大家に事情を説明し、同居の承諾を得てから裏長屋に入る。大世帯となって戻ってきた寿三郎を見て、長屋の連中は首を傾げていた。

「寿三郎さん、一体どういうことなの。吉祥さんを連れて来たかと思ったら、今度は家族づれ?」
「いや、家族というわけでは……」

 てんとうが長屋の木戸を開けると、荷車から降ろされた天道がお福と吉祥の肩を借りてやって来る。一座は客商売、こういう状況も軽くあしらってくれよう。

「こんにちはー。なんやどうもすんまへん、お騒がせしてもて」

 『こてこて』と言われる堺の訛りに江戸の庶民が驚いていると、そこを重ねて説明してやる。

「わしら道頓堀からやってきました、天道一座と申します。旅周りの途中、両国に根を張ってたんやけど、今朝やっかみが入りましてな。ほれ、げんこつでぽかり」

 人なつこい笑顔を作る天道の顔に青あざを見た市井の人々は、嗚呼と漏らして同情してやる。

「またやっかみが入ると難儀だと考えとった時、こちらの『お侍さん』であらせられる寿三郎さんが助け船を出して下さったんですわ。やーそれは心強いっちゅうわけで、少しの間こちらでお世話になります」

 裏長屋の連中の視線が寿三郎に流れるが、誰も彼もがそれで大体察しがついたといった様子。

「また寿三郎さんは、人がいいんだから」
「仕事してた所の人連れてきちゃったのかい?」
「ははは! 全く、寿三郎の旦那らしい」

 天道がふらつく足取りで部屋に進もうとすると、皆が手を貸してくれる。それを見たてんとうが感心した。

「中々ええ長屋やな」
「あら、こんな小さな子もいるのね? お名前は?」
「うちはてんとうや。こう見えて裏方はうちの手にかかっとんねんで」
「どうも、うちはお福と言います。一座の細かいことやらしてもらっとります」

 大きな口で笑顔をつくるお福に、裏長屋の女衆は挨拶を返す。

「まあー、大変ねえ。旅回りで女子供が堺から……」
「ねえねえ、堺って商人の町なんでしょう? どんな所なの?」

 外の世界に興味を持った女達は、親しみやすいお福に色々な話を聞いてくるが、寿三郎はそれを一度制して言った。

「待て待て、積もる話はまた後でにしてくれ、先にやることをすませたい」

 そこで吉祥が裏長屋の者に声をかける。

「長次はどうしとる?」
「ああ……朝は顔を見せなかったが、昼頃になって出てきて飯の支度をしてたらしい」
「様子はどうか訪ねたんだけどね……気を張ってるのが分っちゃってもう……可哀想で可哀想で……」
「見てらんないよありゃ……」
「……さよか」

 寿三郎と視線があったが、何も言わずにそれを外して目を伏せた。

 部屋に戻ると、大柄な天道が床の上で寝転がっている姿が視界に飛び込む。

「あー、長屋とか何年ぶりや……」
「落ち着くねえー。人が生活してる中で寝泊まりするなんて、どんな感覚やったかもう忘れてもうたわー」

 布団をほどいているお福は頷いたが、てんとうは心配そうだ。

「どこで稽古つけるん? 寿三郎の部屋は棟割りやから庭がないで」
「裏隣は長次と父親が住んでいる。静かにしてやってくれ」

 一同ささやき声となり、お互い顔を近づける。

「どの道長屋では稽古できひんな。掛け小屋も返してもーたしなー……」
「押上の方へ行けば畑しかない。あの付近にも寺があるぞ」
「ええんちゃう? 近いし」
「せやな。ほな稽古はその辺りでつけようか。ある程度固まったら、浅草寺に掛け合ぉて小屋作ろ」

 先が何となく定まったところで、寿三郎が立ち上がった。

「では俺は、少し長次の様子を見てくる」

 はっとしてお福も立ち上がった。

「あっ……うちも行く」
「うちも……!」

 てんとうもつられて立ち上がり、一同顔を見合わせる。寿三郎はてんとうを連れて行くことを少し躊躇したが、頷いた。

「この裏だ、ついて来い」

 三人を見送る天道が、腕を組んで壁に寄りかかったまま動かない吉祥に視線を移す。すると吉祥はぽつりと言った。

「……寿三郎に、訳を話した」

 吉祥の心の変化に大層驚きはしたが、天道はそのまま天井を向いて隣に耳を澄ませて言った。

「さよか……」

 程なくして、裏手にある部屋の扉を叩く音が聞こえた。
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