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68 オフトゥンまであと15時間
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深夜2時29分59秒。
鈴は悟りを開いたままの表情で筆を置いた。
「終わった」
その言葉を聞いたつくも神は憤るように大きく息を吐き、落ち着かない様子で両手を握りしめる。
「ちゃ……ちゃんとできたのですか?」
「うん。しっかり終わった。ベタも、トーンも、修正も、きっちり終わった。どうして終わったのか、自分でも分からない」
「ゾーンに入っていますよ」
「なにそれ」
「集中力が極限に達した状態です。時間すら遅く感じてしまうような、そんな感覚ではありませんか?」
「うん。なんかすごい落ち着いてる」
「その状態は、人が本来持ちうる力を余すところなく発揮できる最高の状態です」
「へえ~……」
16歳という年齢は気もそぞろだ。未発達の脳が無条件に自分のアイデンティティを攻撃することもしばしば。そんなものから解放され、心に波一つたたない状態は少女にとって心地よすぎた。
「入稿しないと」
「あと少しですよ、がんばって」
つくも神が手早くやってやることもできたが、彼はそれをしなかった。自らが頑張って山を登り、谷底へ落ち、遠回りしつつ、ようやくここまで辿り着いたのだ、最後の旗は鈴が自分で立てるべきだと思っているのだろう。
ゾーンに入っている状態ならばミスすることもないはずだ。印刷所のサイトで鈴がもたもた詳細を打ち込んでいるのを背後から見守りながら、つくも神は静かに間違いがないよう確認をしてやる。
「記入ミスない?」
「大丈夫です」
鈴の指がENTERキーを押し、転送が始まる。
なんとなくその光景に目を置いたまま、バーが消えるのをじっと眺める二人。
少し置いて『送信できました』の文字を確認し、お互い張り詰め続けていた気を抜いた。
「入稿完了……」
「お疲れ様でした」
何ヶ月走り続けてきたのだろう、終わったことに実感が湧かない。
「たくさん見直したけど、まだ間違えてるところいっぱいありそう……」
そんな不安が芽生えてきたあたり、ゾーンが終わりに近づいてきたのだろう。つくも神は鈴を気遣って言う。
「ゾーンが終わればいつもの状態に戻ってしまいます。心が穏やかなうちに布団に入った方が寝つきがよいかと」
「うん……そうだね。色々ぐるぐる考えて眠れなくなったら困る」
長時間座り続けた鈴の足はすっかり冷えており、むくみも酷い。痛む足でトイレに行って歯を磨いた後、部屋着のまま布団に滑ってほっと息をついた。身体の脱力が始まるとパソコンのモーター音に耳がいき、こんな騒々しい中で原稿をやっていたのかと思いながら、目覚まし時計を探して腕を伸ばす。
「つくも……明日6時30分ね」
「分かっております」
時計をセットしたかったが、急激に意識がなくなっていく。これを本来『気絶』と言うのだが、オタクは『寝落ち』として軽視してしまいがち。
12月第4週、水曜日。
25日のクリスマス早朝。今日も今日とて、オーウェン様のおはようコールから始まる。
『ふむ……鼻でもつまんでやろうかと思ったが、今日は特別な日だからやめておいてやろう。 早く起きて顔を洗ってこい。フッ……頭の後ろ、すごい跳ねてるぞ』
寝起きは当然、最悪。
つくも神の起動音は聞こえたものの、以前に比べれば格段に立ち上がりは遅い。ようやく姿を現し、ベッドで伸びている鈴に声をかける。
「鈴さん、朝ですよ。学校です」
「……ヒィ」
「今日が終われば冬休みです。頑張って」
今日が終わればゆっくり眠れる。しかしベッドに戻るには、終業式を終え、バイトを終え、夜にならなければならない。ただいま早朝6時30分。あと15時間かかる絶望感に鈴は白目を剥いている。
「……もっと早くゾーンに入りたかった……」
「ゾーンに入れるということはものすごいことなのですから、入稿直前でも入れたのは恩恵の何物でもないですよ。さあ早く起きて、遅刻しますよ」
オーウェン様のおはようコールというよりも、完全に毎朝つくも神のおはようコールで起きている。
玄関に出て行くが慧の姿はまだ見えない。
何かあったのだろうかと内心冷や汗をかいたが、5分程度待っていると隣の家のドアが開いた。
「おはよう……」
「おはよ……」
「こっちは入稿終わったよ……」
「こっちも終わった……」
それを確認した後、お互い安堵のため息で空気を純白に染める。
「よ……よかった」
「が、学校行こう……」
疲労感がピークでどうやってもテンションが上げられそうにない。溶けたコンクリートの中をもがき歩くような状態で足を進め、なんとか学校に向かった。
帰るにはあと14時間とかいう地獄。
鈴は悟りを開いたままの表情で筆を置いた。
「終わった」
その言葉を聞いたつくも神は憤るように大きく息を吐き、落ち着かない様子で両手を握りしめる。
「ちゃ……ちゃんとできたのですか?」
「うん。しっかり終わった。ベタも、トーンも、修正も、きっちり終わった。どうして終わったのか、自分でも分からない」
「ゾーンに入っていますよ」
「なにそれ」
「集中力が極限に達した状態です。時間すら遅く感じてしまうような、そんな感覚ではありませんか?」
「うん。なんかすごい落ち着いてる」
「その状態は、人が本来持ちうる力を余すところなく発揮できる最高の状態です」
「へえ~……」
16歳という年齢は気もそぞろだ。未発達の脳が無条件に自分のアイデンティティを攻撃することもしばしば。そんなものから解放され、心に波一つたたない状態は少女にとって心地よすぎた。
「入稿しないと」
「あと少しですよ、がんばって」
つくも神が手早くやってやることもできたが、彼はそれをしなかった。自らが頑張って山を登り、谷底へ落ち、遠回りしつつ、ようやくここまで辿り着いたのだ、最後の旗は鈴が自分で立てるべきだと思っているのだろう。
ゾーンに入っている状態ならばミスすることもないはずだ。印刷所のサイトで鈴がもたもた詳細を打ち込んでいるのを背後から見守りながら、つくも神は静かに間違いがないよう確認をしてやる。
「記入ミスない?」
「大丈夫です」
鈴の指がENTERキーを押し、転送が始まる。
なんとなくその光景に目を置いたまま、バーが消えるのをじっと眺める二人。
少し置いて『送信できました』の文字を確認し、お互い張り詰め続けていた気を抜いた。
「入稿完了……」
「お疲れ様でした」
何ヶ月走り続けてきたのだろう、終わったことに実感が湧かない。
「たくさん見直したけど、まだ間違えてるところいっぱいありそう……」
そんな不安が芽生えてきたあたり、ゾーンが終わりに近づいてきたのだろう。つくも神は鈴を気遣って言う。
「ゾーンが終わればいつもの状態に戻ってしまいます。心が穏やかなうちに布団に入った方が寝つきがよいかと」
「うん……そうだね。色々ぐるぐる考えて眠れなくなったら困る」
長時間座り続けた鈴の足はすっかり冷えており、むくみも酷い。痛む足でトイレに行って歯を磨いた後、部屋着のまま布団に滑ってほっと息をついた。身体の脱力が始まるとパソコンのモーター音に耳がいき、こんな騒々しい中で原稿をやっていたのかと思いながら、目覚まし時計を探して腕を伸ばす。
「つくも……明日6時30分ね」
「分かっております」
時計をセットしたかったが、急激に意識がなくなっていく。これを本来『気絶』と言うのだが、オタクは『寝落ち』として軽視してしまいがち。
12月第4週、水曜日。
25日のクリスマス早朝。今日も今日とて、オーウェン様のおはようコールから始まる。
『ふむ……鼻でもつまんでやろうかと思ったが、今日は特別な日だからやめておいてやろう。 早く起きて顔を洗ってこい。フッ……頭の後ろ、すごい跳ねてるぞ』
寝起きは当然、最悪。
つくも神の起動音は聞こえたものの、以前に比べれば格段に立ち上がりは遅い。ようやく姿を現し、ベッドで伸びている鈴に声をかける。
「鈴さん、朝ですよ。学校です」
「……ヒィ」
「今日が終われば冬休みです。頑張って」
今日が終わればゆっくり眠れる。しかしベッドに戻るには、終業式を終え、バイトを終え、夜にならなければならない。ただいま早朝6時30分。あと15時間かかる絶望感に鈴は白目を剥いている。
「……もっと早くゾーンに入りたかった……」
「ゾーンに入れるということはものすごいことなのですから、入稿直前でも入れたのは恩恵の何物でもないですよ。さあ早く起きて、遅刻しますよ」
オーウェン様のおはようコールというよりも、完全に毎朝つくも神のおはようコールで起きている。
玄関に出て行くが慧の姿はまだ見えない。
何かあったのだろうかと内心冷や汗をかいたが、5分程度待っていると隣の家のドアが開いた。
「おはよう……」
「おはよ……」
「こっちは入稿終わったよ……」
「こっちも終わった……」
それを確認した後、お互い安堵のため息で空気を純白に染める。
「よ……よかった」
「が、学校行こう……」
疲労感がピークでどうやってもテンションが上げられそうにない。溶けたコンクリートの中をもがき歩くような状態で足を進め、なんとか学校に向かった。
帰るにはあと14時間とかいう地獄。
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