幸福な死体【完結】

米派

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心臓の音が、自身の中で大きく響く。息が弾んで、けれど整える間もなく引き摺られるようにして走り続ける。ずきずきと抉り取られたかのように痛む脇腹を無視して、ただ前だけを見て足を押し出した。

男の言葉に触発された冒険者の類が道を塞ぐが、ディルクが反応する前に黒髪の男が全て退けてくれる。地面を割って飛び出してきた蔦が妨害者を吊るし上げたり、その場に留めるための鎖代わりになっている。雁字搦めにされて悔しそうに顔を歪める追手の脇を走り抜けながら、黒髪はディルクを横目で見た。

「ディルク様は先に、俺の手の者とリーペンという国に向かってください。心配は要りません。すぐにアイザック様を連れて、俺も追いかけますから」
「あぅう?」
「……リーペンというのは、ここよりずっと向こうにある俺の故郷なんですよ。王であるハンスには既に話しを通してあります。彼は俺が契約を違えない限りは、約束を守ってくれるでしょう」

難しくてディルクの軽い頭では理解できないが、それでもアイザックに会わせてくれるということだけは拾い上げることが出来た。だから、ディルクは口の端を持ち上げて、にんまりと笑う。黒髪は眉を下げて苦く笑うと、僅かに力を込めてディルクの手を引いた。

「あちらに屋敷を用意してありますから、環境が整うまでお使いください。……元々、貴方の為に用意したものです」

黒髪はそこまで言った後、不意に足を止めた。手を引かれていたディルクも、自然と立ち止まることになる。どうしたんだろう、と不思議に思いながらも隣に目を向けても、彼は茫然とした様子で空を見上げるばかりだ。

「あれは……何だ?」

その視線の先を追って顔を上向けると、空を埋め尽くすかのような巨大な魔方陣が描かれていくのが見えた。光の粒が、さらさらと流れるような曲線を群青の空に刻み付けていく。不可思議な光景に首を傾げていると、くいっと軽く手を引っ張られた。黒髪の方に顔を戻すと、彼は焦りを覆い隠すように笑みを浮かべて、ディルクの手を優しく握ってくる。

「少し遠回りになりますが、あちらから行きましょう」

黒髪が意識を逸らさせるように手を引いてくるが、その前に強烈な力がディルクの背を撫ぜた。総毛立つような魔力の大きさは、感じ慣れたアイザックのものだ。行かなければ。強い感情が沸き上がり、足を突っ張って先に進むことを拒絶する。

「ディルク様、お願いですから着いて来て下さい。アイザック様は俺が必ずお連れします」
「うぅぅ」

黒髪の悲痛な面持ちに、僅かに足が鈍る。それでも行かなければいけない気がして、手首を回すようにして硬く握ってくる手を振りほどいた。黒髪は直ぐにディルクを捕まえようと手を伸ばしてくるが、その指は虚空を引っ掻いただけだ。

「行かないでください……ッ」

縋る様な声が背を打つが、それはディルクの足を止める程の効力を持っていなかった。アイザックが近くにいる。ディルクの穴だらけの脳味噌には、もうそれしか残っていない。暗がりから飛び出して、アイザックの魔力が流れてくる方角へと走り出す。

通りの中心に、探していたアイザックの姿が見えた。きらきらとした黄金色の光が、アイザックが立つ場所を始点として広がっていく。それは石畳を舐めるように這い、街を徐々に染め上げていく。それ以外の色は覆われて見えなくなり、建物の壁の他、道の端に咲く花の一凛すらも染めて淡く輝かせた。

綺麗。

妙な懐かしさと、憧憬の念が胸を熱くさせる。アイザックの唇から紡がれる言葉に導かれるように、街は瞬く間に黄金色へと塗り替えられていく。

「ッ、化け物が」

向かいに立つ男は吐き捨てるように言った後、アイザックを止めようと思ったのか剣を構え直す。刀身がバチバチと音を立てて薄氷を張らせて、男の足元を凍り付かせていく。けれど、何らかの魔法を放つ前に、彼はディルクを見て、裂けんばかりに大きく目を見開いた。

「兄さん……!」

そして、青褪めた顔のまま駆け寄ってくる。アイザックが剣を振り下ろすのと、男がディルクを抱き込んで来たのは同時だった。目を焼くかと思う程の光が炸裂し、咄嗟にギュッと瞼を閉じる。けれど、予想していたような痛みは何時まで経っても襲ってはこない。そろそろと押し上げた瞼の向こうで、鮮やかな赤が迸ったのが見えた。ディルクを抱き込んでいる男の体が何度か跳ねて、耳元で低い唸り声がする。

甘い匂いだ。大好きなはずの匂いが濃くなって、じわりと食欲が首を擡げる。けれど、その強烈なまでの飢餓とは裏腹に、全身からは血の気が引いて心臓が冷たくなっていく気がする。

「……ああ、なんだ……指定、攻撃か……」

安堵とも悔しさとも取れる声が耳元でしたかと思えば、抱き着いていた男の体重が一気にのしかかってきた。その重みを支えきれずに、背中から地面に倒れ込む。

男の背に、何本もの光の矢が突き刺さっているのが見えた。男は腕を振るわせて身体を起こそうと試みるが、痛みに犯されているせいで上手く力を込められないのか、直ぐに崩れ落ちてディルクの上に頭を落とす。

「ぅ、ああ……」

美味しそうな匂いがするのに、噛み付こうという気にはなれなかった。先刻、黒髪の男を食べたからだろうか。それとも、別の理由があるのか。今のディルクには、自分の感情すら良く分からなかった。ただ指が震えて仕方がない。べったりと男の血で濡れた自分の手が視界に入ってきて、ゆらゆらと脳がぐらつく。

カチンッ、と剣を鞘に納める音がして顔を向けると、見たことがないほど冷たい目をしたアイザックと視線がぶつかった。視線に形があったなら、今ごろ目玉を貫かれているのではないかと思う程だ。

「当然だ。ディルクを傷つけたりするものか」

アイザックは上に乗っかったままの男を押し退けると、地面に転がったディルクを抱き起してくれる。勝手に家を出たことを怒られるかと思ったが、彼はただ憂慮の眼差しでディルクを見ただけだった。

「何処か痛いところは? 殺意を向けてこない相手は除外したが、怪我はしてないだろうな」

アイザックの節くれだった指が、無事を確かめるように優しく頬に触れた。けれど、ディルクよりも、地面に転がる男とアイザックの方が血に濡れている。

何が言いたいのかも分からないまま、アイザックの赤くなった脇腹に目を向けると、彼は苦笑いを溢した。

「少しヘマしたんだ。見た目ほど酷くはねぇから心配するな」
「ぁ……あ、ああ、あああぅ」
「どうした?」

震える指でアイザックの服を掴もうとするが、その前に横合いから手が伸びてくる。白い手袋は血を含みどろどろとして、まるで腐った果実のようだ。その手がディルクに触れる前に、アイザックが強く弾き返した。顎下まで赤く濡らした男は悔しそうに眉を寄せて、それでもディルクに向かって縋る様に震える手を伸ばしてくる。

「俺の物だ……触るな……触るなよ……ッ!!」
「違うな、ディルクはお前のものじゃない」

アイザックが剣の柄に手を置くと、きらきらとした光が瞬く。それに言いようもないほどの恐怖を感じて、強い感情に突き動かされるままアイザックの胸元を掴んだ。すると、彼はディルクを映して優しく眦を和らげてくれる。けれど、到底安心することは出来ない。

「お前を傷つけたのはこいつだろ? もう大丈夫だ。お前に一生触れないようにしてやるから」
「ぁ、あ、あい、ざっく……ぁいざ、っく……」

眦が熱くなる。痛いことばかりしてくる男だったが、こんな姿を見たいとは思っていなかった。このままアイザックに任せてしまったらいけない気がして、服を掴む手に力を込める。

ぐるぐる、ぐるぐる。

思考が回り、胸の辺りが絞られるような痛みを訴える。どうしたいのか考えても考えても、その端から崩れ落ちていく。言いたいことがある筈だ。けれど、唇に乗せる前にすべては泡のように消えてしまう。

ただ皺を刻むほど強く服を握りしめて、アイザックと呼び続ける。彼はそんなディルクを見つめて眉を下げた。僅かに躊躇いを見せるアイザックの腕に抱き着くようにして、ディルクは唸りながら首を振る。

アイザックに会いたいと思って、男の元から逃げ出した。けれど、これは違うはずだ。こんなものが見たかった訳ではなかった筈だ。

「……そんな顔をするなよ」

アイザックは剣を硬く握りしめたまま、きつく男を睨み付ける。自分の怒りとディルクの感情を天秤にかけているのか、アイザックは苦悶するように顔を歪めた。

「俺、は」

アイザックはディルクの顔を見て、痛みを堪えるように眉を寄せた。そうして、僅かに上がっていた肩を下ろして、ディルクを抱きしめてくれる。良かった、と安堵に包まれていくのを感じたが、アイザックの硬い指がうなじをなぞった。氷のように冷たい指先に、ゾゾっと背が粟立つ。背に回された腕が、痛いくらいにディルクの体を縛り上げてくる。背骨が軋むほどに強い抱擁を受けて、ディルクは思わず呻き声を上げた。

「……この痕、消えないな」
「あぃ、ざっく……?」

ゆっくりと体を離したアイザックと目が合って、びくりと身体が強張る。アイザックの瞳に激昂の色が宿り、それに呼応するように剣は輝きを増していくのが見えた。

「……ごめんな、俺はそいつを許せそうにない」

その言葉に、更に強く爪を立てて服を握る。けれど、アイザックは硬く丸めた指を解いて、ディルクの肩を押し退けるようにして剣を抜き放ってしまう。焦りが胸を満たして、立ち上がったアイザックの背に勢いよく飛びついた。そうして、アイザックの腕を掴もうと手を伸ばす。

「兄さん……」

違う。見たかったのは、こんな光景ではなかった筈だ。望んでいたものが何であるのかも覚えてはいないけれど、それでもアイザックが苦しそうな顔をするのも、血塗れの男の姿も、望んでいたものではないことくらい分かる。

嫌だと思う。でも、それを伝えられるほどの言葉は、ディルクの中にはもう無いのだ。ぼろぼろと落としてきた言葉の中には、この状況を止められるものだってあったかもしれないのに、もう何処にも見当たらない。

「あ、あぃ、ざっく……ッ」

ディルクが手を掴むよりも早く、アイザックはきつく眉を寄せたまま腕を振り下ろす。

しかし、振り下ろされたかと思えた腕は宙で固定されていた。どうやら後ろから伸びてきた蔦が、アイザックの動きを阻んだようだ。アイザックならば後少し力を込めるだけで振り切れただろうが、驚きが僅かに動きを鈍らせたようだった。その間に、地面から突き出してきた蔦が足まで絡めとる。

潤み切った目を向けると、視界の中で黒が滲んだ気がした。ぱちぱちと瞬かせると、次第に視界が晴れていく。黒髪の男だ。その顔に怯えをこびり付かせながらも、黒髪は唇を噛み締めてアイザックの視線に応えるように顔を上げた。

「……まだ動ける奴が居たのか」
「無礼は謝罪します。しかし、その方の命だけは見逃しては頂けませんか」

アイザックが睨みつけても、黒髪の男は引く様子を見せない。それでも力の差は感じているのか。額に汗を滲ませ、此方に突き付けている杖の先は目に見えて震えていた。けれど、それでも逸らすことなく、しっかりと力強く見返している。

「許せとは言いませんが、見逃して頂きたいのです。どのような行いをしたとしても、その方がディルク様の大切な弟君であることは変わりません」
「……その服、こいつの味方か?」

アイザックは軽く腕を振るだけで、蔦を引き千切った。

「何もしないなら見逃しても構わないが、邪魔をするなら許しはしない」
「だとしても、退くわけにはいきません。貴方の怒りは尤もですが、ディルク様が弟君を殺されて喜ぶような方だと思いますか」

アイザックの視線が向けられ、ディルクは戸惑いながらも潤んだ瞳で見返した。分からない、分からないが、胸が痛くて涙が止まらない。アイザックの背に顔を埋めたまま、胸元に爪を立てる。駄目だ、と思うのは何故なのか。分からないけれど、胸が痛いことだけは確かだ。

アイザックは眉を寄せて、苦悶に顔を歪める。そうして震える腕を、ゆっくりと下ろしてくれた。ギリッ、と奥歯が鳴る音がして肩が跳ねるが、アイザックは怒りから目を逸らすように顔を俯けると、そのまま剣を鞘へと納めてくれた。

「……今すぐ、そいつを俺の前から連れて行ってくれ」
「ありがとうございます」

黒髪はほっと安堵したように肩を下ろすと、額の汗を腕で拭った。そうして、男の傍に屈み込む。男は痛みに顔を歪めながらも、黒髪をきつく睨みつけた。

「……随分と、他所に尻尾を振るのが上手だな」
「何とでも仰ってください。そもそも俺の主人はディルク様であって、貴方ではありません」

黒髪は懐から取り出した小瓶の中身を、男の口をこじ開ける様にして流し込んだ。そうして、激しく咳き込む男を置いたまま立ち上がる。

「俺は、このままジークベルト様を安全な場所までお連れします」
「……嫌だ……兄さんがまだ……」

男の指が、力無く黒髪の靴を引っ掻く。彼は僅かな哀れみを乗せて、それを見下ろした。

「……言ったではありませんか。俺も貴方も、選ばれることはないのだと」
「ふざけるなよ……ユーリオ……ッ」

飲ませたものには催眠効果も入っていたのか、怨嗟の籠った叫びは徐々に小さく掠れていく。譫言のように紡がれる「兄さん」という音に、ディルクは無意識のうちに眉を寄せた。そして、暗闇で藻掻くように這う手を握ってやることは出来ないのだと唐突に理解する。瞼の裏で蘇った鮮やかな庭園は、一体なんであったのだろうか。その中で笑う少年の姿も直ぐに剥がれて、地面に当たって砕け散った。

きっと、こうして落としてきた物が沢山あるのだろう。それでも、その全部を置き去りに此処まで来てしまった。今さら拾おうにも、もう足元には残骸しか残っていない。

力なく倒れ伏した男を静かに見下ろしたあと、黒髪はディルク達の方へと顔を戻した。

「貴族を傷付け、街に混乱を招いた。貴方はもう、この国に留まることはできない。事情など特権階級の方々にとって、どうでも良いものです。上に逆らった、彼らにとって重要なのはその一点のみです」
「……一体なにが言いたい」
「街の外れに湖があるのはご存知でしょう。そこで、俺の手の者が待っているので、こちらをお渡しください」

黒髪の男が差し出してきたのは、何の変哲も無さそうなコインだ。裏には見慣れない植物が刻まれている。

「リーペンという国の硬貨です。貴方達のことは話を通してあります。これを渡せば、国境を越える手伝いをしてくれるでしょう」
「……お前が、味方である証拠はないだろ」
「ですが、断ったところで宛があるわけではない。それなら、乗ってみるのも一つの手ではありませんか?」

黒髪の言うことに思うところがあったのか、アイザックは顔を顰めながらも言い返したりはしなかった。

「俺は、後から追いかけます」

黒髪はぐったりとした男を抱き上げると、そのまま背を向けていってしまう。アイザックは悩むように眉を寄せて、暫くその場に立っていた。ディルクはどうしていいのか分からなくて、繋いだ手にきゅっと力を込める。アイザックはハッとしたように此方を向いた後、躊躇いを振り払うように瞼を下ろして、それを押し上げた。そうして、ディルクの脇を掴むようにして抱き上げてくれる。その顔には、ぎこちなくも笑みが浮かんでいて、先刻のような恐ろしさは感じない。

「行こう。大型魔法を使ったせいで、都市の方からも増援が来るかもしれない」
「あああう」
「……さっきは怒りで気付かなかったが、あの男はお前の友達だろ。それなら、信じてみよう」

低い声が耳朶を擽って、少しこそばゆい。優しく抱き締めてくれる腕の中で安堵から息を吐いたら、どうして泣いていたのかも落としてしまった。ぱちぱちと目を瞬かせると、アイザックは仕方なさそうに眉を下げて笑ってくれる。そうして、そっと額に唇を触れさせた。

「その前に、キースの奴を探さないとな。さっきまで居たんだが、戦闘中に逸れたんだ。……無事だといいが」
「その必要はねぇよ。ここだ、ここ」

軽く手を上げて歩いてくる赤髪の男は、アイザックの知り合いらしい。誰だろうか。そう思ってジッと見つめていると、彼は大きく目を見開いて固まってしまった。はっ、と息を吐くような音を出して、彼は信じがたいものを見るような目を向けてくる。

「……目の前でいきなりバタバタ倒れていくから何事かと思ったが……そんな驚きも吹き飛びそうだ」
「あぅ?」
「他人の空似……って訳じゃ無さそうだな」

赤色はディルクの何かを確かめるように、ぐっと顔を近づけてくる。戸惑いながらも見返すと、赤色はにこやかに目を細めた。

「相変わらず美人だな。天使って言うのはきっと、お前のことだ……俺って、実は死んでたりすんのか?」
「息をするように口説くな」

アイザックが赤色の額を鷲掴んで、向こうに突き飛ばす。赤色は痛みに眉を寄せると、納得したように頷いた。

「この痛みは現実か。なあ、全く理解が追いつかないんだけど、どうすればいいんだろうな?」
「後で説明してやるから、今は此処を離れるぞ」
「お前の説明とか不安しかないけど……。まあ、ここを離れるってのは俺も賛成だから良いが」

赤色は戸惑いを色濃く残したまま、それでも頷いてディルクを見る。

「……その、まだ何を言ったら良いのか分からねぇけど、お前が無事で良かったよ。元気そうで安心した」
「あう」

ぎこちなくも笑いかけてくる赤色を見返して、ことりと首を傾げる。何故、自分の姿を見て安心するのか理解が出来なかったのだ。

「……事情は、ありそうだな」

探るような眼差しは一瞬で、赤色は取り成すように続ける。

「説明は後でたっぷりしてもらうとして、取り敢えず行くか」

ニッ、と歯を見せる笑い顔は、不思議と懐かしいような気がした。





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