幸福な死体【完結】

米派

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番外編2

帰れない過去2

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「馬鹿みたいだ」

もう渡すことのできない贈り物を見下ろして、小さく溜息をつく。丁寧に包装された箱の中には、送り主を失った装飾品が納められたままだ。

窓の向こうで、薔薇が満開になっていた。ついこの前までは小さな蕾だったのに、今や優雅に咲き誇っている。庭に薔薇があふれるようになると、誕生日が近づいてくることもあって兄のことを思い出してしまう。同時に兄が国を去ってから、それほど経ったのかと驚いた。少しでも空白の時間があると考えたくもない方向に思考が向かうので、あの日から休みを取らずに仕事を詰め込んでいたせいだろう。どうせなら気付かずに通り過ぎてしまいたかったが、結局いつもこうして思い出してしまう。どれほど他に意識を向けようとしても、少しでも考える暇があると駄目だ。すぐに引き戻されて、思考を埋め尽くされる。

そんな時、仕事上で付き合いのある貴族から、話しの流れで宝石商を紹介された。迎えるのは正直なところ面倒だったが、断れば変に角が立ち兼ねない。付き合いも仕事のうちだ、何か適当に一つくらい買うべきか。全く気乗りしないまま、訪れた宝石商の話しを適当に聞き流す。
気もそぞろに男の手元を見て、視線が止まった。深い色合いのスピネルがあしらわれたピアスは、兄の白い耳朶によく映えるだろう。そんなことが意識もせずに浮かんで、どのみち何か一つ選ぶのであればと手に取っていた。商人は途端に顔を輝かせて、熱心に価値を説明していたが殆ど耳に入って来なかった。光を受けて輝く様が、兄の瞳を過らせたからだ。

馬鹿々々しい。こんなものが手元にあったところで、もう渡すことなど出来はしない。差し出された家族としての愛情さえも、俺自身で踏み躙り、壊してしまった。望んだ形ではなかったとしても、大切に想われていたのは確かだったのに。

噛み締めた唇が切れて、舌の上に乗った血の味に吐き気がした。奇妙な苦みが口内に広がり、余計に胸を重たくさせる。不快感を堪えて視線を落とせば、湯気を昇らせる紅茶が視界に入ってきた。白く大きなカップの口から漂う甘い香りが思い起こされて、やりきれない気持ちに目を逸らす。ふとした時に蘇る、日常の些細な場面に兄の気配を感じてしまう。今更、どうにもできないと分かっているのに、諦観と共に瞼を下ろした。




差し出される好意や言葉の裏にある打算が嫌いだった。自分も心からのものを相手に向けている訳ではないのに、相手に対しての嫌悪感を拭うことが出来ずにいた。自分も相手も、穢いものに思えてしまう。
本音ばかりでは良好な関係など気付けはしない。誰しも多少なりとも嘘を吐きながら生きている。そんなことは分かっているし、それが必ずしも悪いことではないと理解はしている。それでも相手よりも上に上にと、急くような会話に苛立ちばかりが募っていく。上辺を撫でるだけの関係を楽しめていたのが、遠い過去のようだ。

……頭が痛い。

今日は、特に気分が悪かった。友人の一人が資金繰りに失敗して、没落したのだ。彼の親はそれを隠して、今までなに食わぬ顔で栄華を極めていたらしい。しかし、それもいよいよ限界が来たらしく、どうやら屋敷を手放したようだ。今日の話題は、その彼のことだった。他人の不幸が笑い話になることは前からあった。けれど、それなりに親しくしていた筈の相手を嗤う空間に、今まで以上の嫌悪感を覚えてしまう。

付き合う相手を間違えた。誰が言ったのかは覚えていない。ただ、指先が冷たくなっていく気がした。
始めから、この場にいるのは俺も含めて、そんな奴ばかりだと理解していた筈のなのに、その一言で気分が悪くなった。わかっている。俺たちは始めから友人なんて間柄ではなかった。ただ家同士の関係で結び付いていただけに過ぎない。わかっている、わかっていたはずなのに、どうしてか胸を巣食う気持ち悪さを拭うことが出来ない。

「……眠れない」

寝台から身体を起こして、くしゃりと前髪を掴む。抱えた膝に顔を埋めて、痛みを遣り過ごそうとするけれど、それだけでは消えてくれそうにはなかった。

熱があるのだろうか。医者を呼ぼうかと思ったが、そうなると必然的に母と顔を会わせることになるだろう。今は母の顔も見たくなかった。けれど、このまま部屋に居たところで眠れそうにない。この時間、書斎なら誰もいないだろうか。どうせ眠ることができないのなら、そう思って部屋を出た。

扉の隙間から、微かに光が漏れていた。どうやら人がいるらしい。父だったら嫌だなと思いつつも、そっと扉を押して中の様子を窺ってみることにした。窓辺に見慣れた銀髪が見えて、考えるよりも先に声が出てしまう。兄さん。その呼びかけはそれほど大きなものではなかったが、兄は本から顔を上げてくれた。少し驚いたように丸くなった瞳が、徐々にゆったりと細められる。親しみを込めた微笑みに、つい自分の頬まで緩んでしまう。

「こんばんは、ジークベルト。こんな遅くに珍しいね」
「兄さんこそ、もう誰もいないと思ったのに」

誰もいないことを望んでいた筈なのに、兄を前にすると声が弾んでしまう。傍まで行くと、兄はそっと本を閉じた。隠すように表紙に手を置いているが、ちらりと見えた題名はかなり基礎の魔導書のようだった。
兄は未だに魔法が使えない。彼の努力が足りない訳ではないと思うのだが、父は魔法が使えないのは怠けているからだと言って指導を強めている。そのせいか、兄は常に傷を負っていた。今も裾から覗いた腕に、真新しい傷跡が見える。思わず眉を寄せると、兄は俺の視線から逃れるように袖を引いた。

「教えてもらったことを復習しようと思って。次こそ、出来るようになりたいんだ」
「……そう、なんだ」

この歳になって発現しなければ、魔法を使用することは困難だと教師が話しているのを聞いたことがある。多くの者が魔力を持って産まれてくるが、稀に兄のように全く有さない者もいる。父は家に拘りがあるから認めたくないようだが、これ以上、無いものを兄に強いるのは酷なように思えた。けれど、もう充分だと口にしたところで、彼自身がそれを拒む。魔法を使えないことが、兄自身の価値に繋がるわけではないのに。

……また、頭痛がする。

形のない不満や怒りが、痛みとなって襲ってくる。こめかみに力を入れて、顔を俯かせる。そうして痛みを遣り過ごしていると、そっと手に温もりが触れた。

「兄さん……?」

不思議に思って顔を上げるが、兄は何も言わずに優しく俺の手を引いてくれた。強くはない、ただ添える程度の力でソファまで連れて行ってくれる。そうして俺を座らせると、兄は軽く肩を叩いてきた。見上げた先で、鮮やかな紫水晶が柔らかく細められる。

「ちょうど何か飲もうと思っていたんだ。ついでだからお前の分も持ってくるよ。何時もので良い?」

気を遣わせてしまっただろうか。そう思いはするが、それでも兄から向けられる気遣いは素直に嬉しかった。

「……うん、兄さんが淹れてくれるの好きだから楽しみだ」
「本当? それなら、ジークベルトがココア嫌いにならないように気を付けないと」
「どんなの作るつもりなんだよ」

笑いながら口にすると、兄も悪戯っぽく目を細めてみせた。そうして俺の頭を撫でてから離れて行こうとする。どうしてか、離れていく手に不安が込み上げてきて、咄嗟に腕を掴んでしまう。傷に触れてしまったのか、微かに眉を寄せるのが見えた気がした。それでも離すのが怖くて、更に強く力を込めてしまう。離れないで欲しい、傍にいてほしい。それをどう伝えれば良いのか。言葉に迷って、ただ離れて行かないように拘束を強めてしまう。痛いだろうに、兄は少し困ったように眉を下げてから空いた方の手を差し出してくれた。

「やっぱり一人だと寂しいから、一緒に来てくれる?」

頷いて手を取ると、「ありがとう」と兄さんは笑った。

家事というのは庶民がすることで、それが出来るというのは恥ずかしいことだ。母はそう言っていたが、兄と並んで厨房に立つのは好きだった。ゆっくりと掻き混ぜられる鍋からは、ほのかに甘い匂いがしている。焦げつかないように、粉っぽくならないように。真剣な眼差しを注ぐ横顔を見ていると、つい頬が緩んだ。この時間は自分だけのものだ、そんな優越感さえ感じてしまう。じっと見つめていると、不意に兄が此方を向いた。彼は目が合うと、優しく眦を和らげてくれる。

「もうちょっとで出来るから待っててね」
「うん」

そっと髪を撫でられて、その掌の温かさに目を細める。兄の方が、僅かに背が高い。それを悔しいと時々思いはするけれど、同じくらいこうして甘やかしてもらえる時間も好きなので、もう少しくらいこのままでも良いかと思う。

「熱いから火傷しないように気をつけるんだよ」

掌に包みこんだ柔らかな熱に、ほっと息が漏れる。渡された白いカップは、大きな口からふわふわと湯気を立ち昇らせている。その中に二つ浮かんだマシュマロが見えて、自然と口元が緩んでしまう。おいしいと呟けば、兄は目に見えて嬉しそうに笑った。

厨房の床に座りこんで、二人揃ってカップに口を付ける。昼間なら先ずは許されない事だ、だからこそ何だか悪いことをしているようで余計に楽しかった。適当な壁に背を預けたまま、くだらない話しをする。何の役にも立たない、その日あったことやちょっとした失敗談。それでも、兄さんは始終楽しそうに笑ってくれた。

ココアが無くなっていくにつれて、この時間に終わりが近づいてきているのが分かって寂しい気持ちになる。もっと兄と一緒に居たい。引き延ばしているうちに、手の中の温もりはすっかり冷たくなってしまった。冬を越えて少しは温かくなってきたとはいえ、じっとしているとまだ少し寒い。思わず爪先を擦り合わせる。

「兄さん、今日は一緒に寝てもいい……?」
「いいよ。ほら、行こ」

先に立ち上がった兄は、身を屈めて目線を合わせると手を差し出してくれた。重ねると、優しく引き上げられる。
見回りの使用人に見つからないように、忍び足で兄の部屋へと向かう。使用人の姿を見掛ける度に顔を見合わせて、くすくすと小さく笑い声を漏らした。

窓から射しこむ月光に縁取られて、銀の髪がきらきらと輝く。光によって薄っすらと青白くなった肌は、整った容貌も相まって硬質な印象を持たせる。全体的な色素が薄いせいか、こうしてみると精巧に作られた人形みたいだ。そんなことを思いながら眺めていると、その視線に気づいたのか兄が此方を向いた。紫の瞳が親しげに細められて、心臓が跳ねた。なんだろう。兄といると落ち着くのに、何故か余計に乱される時がある。けれど、そのことに嫌な気分はしない。不可解な感情を持て余しつつ、引かれるまま兄の背に着いていく。

兄の部屋は相変わらず綺麗に整頓されていて、壁に置かれた本棚には魔導書が狭苦しそうに押し込まれている。一度、気になって取り出そうとして、両隣の本を巻き込んで雪崩を起こしたことがある。あの時、こちらに駆け寄ってきた兄は、俺の方が心配になるほど青褪めていた。それ以降、読みたいものがあるときは兄に声を掛けてからという謎のルールが出来たのだ。取り出すのにコツがいる本棚とか、一体なんなのだろう。本棚の一つくらい新しく頼もうかと言っても、兄は首を振るばかりだ。

余程のことがない限り、話しかけても来ない父の何処を慕っているのか。俺には良く分からない。けれど、兄はいつも父のことを気にしている。期待に応えたいと足掻くことが、父への愛情だとでも言うのだろうか。応えられたところで、あの人は兄が期待するような反応をしてくれるとは到底思えないが。よくて一言あるくらいだろう。そこまで考えて、ひどく苦い気持ちになった。きっと、その一言があれば十分なのだろう。そう思えてしまったからだ。

「読みたいものでもあった?」

その声に引き戻されて、予想外の近さに肩が跳ねた。どうやら本を眺めていると思ったらしい。顔を覗き込まれただけだ。なんてことのない動作なのに、何故か心臓が煩くて仕方なかった。動揺を拭いきれないまま首を振れば、兄は不思議そうにしつつも離れていった。そうして明かりを消して、ベッドに横になる。掛布を持ち上げると、兄は隣をぽんぽんと軽く叩いて見せた。

「ジークベルト」

自分から頼んだことなのに、何故か素直に答えることが出来ない。すぐ隣に行きたいのに、どうしてか凄く恥ずかしい気がしてきた。照れくささが邪魔をして立ち尽くしたままでいると、兄が困ったように眉を下げるのが見えた。当たり前だ。兄さんは俺の頼みを聞いてくれたのに、突然、拒絶されたら混乱するだろう。

「おいで」

伸ばされた手が、そっと窺うように俺の手に触れる。そのまま優しく握り込まれて、ベッドの中に招かれた。隣に寝転んでも、手は繋がったままだ。そこから兄の体温が伝わってくるようで。心臓に熱が籠ったように、体全体がぽかぽかと温かくなる。

「明日、一緒に庭に行こうよ。いくつか本を持って行ってさ」

穏やかな声を聞いていると、煩かった心音も徐々に落ち着いてきた。真っ暗な部屋の中でシーツに包まっていると、世界で二人きりになれたような錯覚に陥る。繋いだ手の温度さえあれば、それを孤独だとは思わなかった。あれほど辛かった頭痛もすっかり無くなって、胸の奥が温かい感情で震えている。幸せって、きっとこういうことを言うんだろう。つないだ手を両手で包みこむ。離してしまったらこれきりな気がして、強く強く握り続ける。兄さん。呼ぶ声は震えていた。

「俺は、お前のことが大好きだよ。大事な家族なんだから」

兄は時々、こちらが気恥ずかしく思うほど、臆面もなくこういったことを口にする。ジークベルト、と。ただただ柔らかく、優しい声音で名前を呼ばれる。顔だけでなく、何だか体全体が温かくなって、兄の顔を見上げるのが妙に躊躇われた。だから、ただ手を握り続ける。心臓が痛いくらいに鳴って、けれど離れたいとは思わない。

「にい、さん」

薄れていく、思い出せないほどに全てが遠のく。離したくないと願っても、ないはずの温もりを留めておくことなど出来はしない。

手を引いてくれる人は自らの手で壊してしまった。もう二度と、あの暖かな掌は戻らない。そうと分かっているのに。どうして、今も。

過去の記憶に縋りついて、届くはずのない手を未だに伸ばし続けている。




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