幸福な死体【完結】

米派

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番外編

幸福な日々③

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瞼の裏が、赤く染まっていく。そよそよとした風が頬を撫ぜて、それに促されるようにして薄目を開けた。眩さに一瞬、目が眩む。きゅっと目を閉じてから、もう一度と瞼を押し上げた。

見慣れた庭の風景が、目の前には広がっている。さらさらと葉が擦れる微かな音に混じって、鳥のさえずりが鼓膜を優しく震わせた。どうやら庭から射し込んだ柔らかな陽の光が、ソファで寝転んでいるディルクを包むようにして注がれているようだ。

先刻までベッドに居たのではなかったか。寝ぼけ眼を擦りながら体を起こそうとすると、腰がズキズキと激しい痛みを訴える。それに戸惑いながらも何とか上体だけを起こすと、キッチンにアイザックの姿が見えた。ぼんやりと景色全体を眺めるように適当に見ていると、こちらを向いた彼と視線がかち合った。彼は赤く濡れた手を洗い流すと、ディルクの方まで歩いて来てくれる。そうして、目線を合わせるようにして身を屈ませてくれた。

「おはよう。昨日は無理をさせて悪かった」

労わるように腰を撫でられると、鈍痛がじわじわと広がっていくようだ。僅かに眉を寄せると、アイザックはばつが悪そうに顔を俯けてしまった。そんな顔をされてしまうと、何故かディルクの方がそわそわと落ち着かなくなってしまう。

何とかして笑って欲しくなって、アイザックの頬に手を当てる。そうして、無理やり持ち上げると、彼は目を丸くした。むにむにと必死になって持ち上げていると、彼はふっと目元を和らげる。手を離しても、アイザックは笑ったままだ。満たされた気持ちになって目を細めると、こつんと額が重なった。

「お前に指輪を渡せたのが、自分で思っていたより嬉しかったらしい。浮かれていたんだ。……だからといって、やり過ぎたことに変わりはないな。痛いだろ、無理に動こうとしなくていい」
「んんぅ」
「ああ。ご飯なら、今持ってくるよ」

立ち上がったアイザックは、キッチンの方へと戻っていく。その背を見ていると、言わなければいけないことがあったような。眠りに落ちる前に、何か大事なことを考えていたような気がする。けれど、忘れてしまったそれを掻き集めようにも、まるで砂を掴むかのように形を失っていた。

何だろう。もやもやと妙に胸の底に溜まるものがある。けれど、それもアイザックが食事を持ってきてくれるまでだった。

食欲を誘う甘い匂いに、唾液が零れそうになる。アイザックとしたことで、既に胃の中は空っぽだ。すぐにでも食べたいのに体が思ったように動かせなくて、代わりに舌を突き出すと、アイザックは苦笑いを溢した。

「よっぽど腰が痛いんだな」
「ああああ」
「……ソファは汚れるが、椅子に座るのも辛いか」

アイザックはそう言うと、ディルクの頭を膝に乗せてくれる。しかし、嬉しさよりも先に感じたのは硬さだった。筋肉に覆われた太腿は、思っていたよりも更に柔らかくない。何より、今の体勢だと少し首が痛い気がして、もぞもぞと居心地のいい空間を探して身動ぐ。そうしてやっと定位置を見つけて、ディルクは満足して頬に笑みを浮かべた。

「落ち着いたか」
「んっ!」

アイザックは良かったと笑みを溢すと、手にしていた赤い塊をディルクの掌に乗せてくれた。どろりと滴るような心臓を両手で大事に受け取って、今にも血が溢れてきそうな血管部分に唇を押し当ててちゅうちゅうと吸い付く。そうして、一滴も落とさないように気をつけて舐め回した。舌にねっとりと絡みつくような甘さに夢中になって齧り付く。けれど、どれだけ溢さないように気をつけていても、薄い膜を噛み千切れば、どぷっと溢れだしてきて頬を滑り落ちていった。

汚し過ぎだろうか。そんな不安を僅かに感じるものの、アイザックは怒ることも無く、頭をそっと撫でてくれた。気にしなくてもいいと言われたような気がして、目の前の心臓に食らいつく。

「あああう、あうあう」

噛み千切った肉を、むちゃむちゃと咀嚼して飲み込む。残った部分を軽く歯で押してみたりして、返ってくる弾力を楽しんだ。

「……ディルク、零れてるぞ」

頬を伝い落ちていく肉片を、アイザックの指が掬い上げてくれる。口元に寄せられた指を含んで、本能的に歯を突き立ててしまった。途端に舌の上に広がった、他とは比べようもない甘味に瞳が蕩けてしまう。じんわりと全身に染み渡るような甘さに夢中になってアイザックの手首を掴んで齧りつく。食欲に犯された思考でも、食い千切っては駄目だと窘めてくる声がある。それでも、咥内に広がった甘さに我慢が効かずに薄皮を剥してしまう。そこから染み出るように、ゆっくりと溢れてくる血の玉に脳がぐらぐらと揺れた。おいしい、単純な言葉に脳が犯される。

「随分と腹が減っていたんだな。……俺のせいで夜が抜けたから仕方がないか」
「んー、ん、ぅ」

空いた方の手が、優しく頬をくすぐってくる。そうしているうちに腹が満たされてきて、漸く不味いのではないかと考える程度の頭が返ってきた。

アイザックの指を咥えたまま、そろそろと目線だけを上げていく。怒ってはいないようだが、皮膚をめくったのだ。全く痛くないということは無いだろう。名残惜しいが口から出して、ぺろぺろと癒すように舐める。アイザックは少し擽ったそうに目を細めると、手首に添えたままの左手を持ち上げてきた。

「よく似合ってる」

幸福を詰め込んだように笑んだ瞳に、ディルクの顔が映り込んでいる。きゅっと微かに力を込めて握られた左手には、やけに輝いて見える輪が通されていた。赤く濡れた輪を見ているだけで嬉しくなり、口許は自然と緩んでいく。つられたように金の瞳が、優しく和らいだ。それを見ていると、ほのぼのとした温かな感情が胸の内に広がっていく。

全身から力が抜けてしまい、だらしなく頬を弛めると、アイザックの顔が穏やかに綻んでいくのが分かった。見ているディルクの胸が弾んでしまう程に、その表情は幸福に満ちているように見える。

「今日は何をしようか。本を読みたいのなら庭に行くのもいいし、眠たいのなら戻って一眠りするのもいいな」
「ああう、あう」
「……そうだな。確かに、ベンチだと余計に腰を痛めそうだ」

アイザックは頷くと、ソファの背に掛けてある布を手に取った。それで真っ赤になったディルクの顔を丁寧に拭いてくれる。寝転んで食事をしたせいか。口と言わず、顔全体が濡れているような気がする。柔らかな布が唇に限らず、飛び散った頬や額にも触れた。そうっと触れる布の感触がこそばゆい。つい逃げ出したくなるが、アイザックに「もう少し」と宥められて我慢することにした。

「偉いな」
「あうっ、あっ」

くしゃくしゃと頭を撫で回されて、にんまりと頬を持ち上げる。

アイザックに褒められると、庭を駆け回りたくなるような、とにかく動きたくなるほどの喜びを感じてしまう。しかし、衝動のまま飛び上がろうとしたのだが、ズキっと刺すような痛みが腰を襲ったせいで身動きが取れなくなった。アイザックの膝に抱き着いて、すんすんと鼻を鳴らすと、彼は露骨に眉を下げる。

「……やり過ぎたな」
「うぅぅぅっ」
「ああ、すぐにでもベッドに行こう」

抱き上げられたかと思えば、また寝室に帰ってきた。けれど、窓の外はまだ明るいままだ。不思議に思いはするものの、眠たいのは確かだった。ベッドに下ろしてもらうと、途端に眠気が押し寄せてくる。うとうとと寄せる眠気に身を任せようとしたが、何故かアイザックが立ち去ろうとするのが見えて、咄嗟に服の裾を掴んで引き留めた。アイザックは少し困ったように眉を下げて笑うと、ディルクの頭をそっと撫でてくれる。

「掃除を済ませたら、すぐに戻ってくるよ」
「う゛ー」

首を横に振って、更に強く指先に力を込める。むんずと掴んだまま見上げると、金の瞳が柔らかく微笑んだ。

「わかった。俺も少し眠たいし、一緒に寝るか」
「あうあう」

ぺしぺしと隣を叩くと、アイザックは小さく噴き出す。

「ここに寝ろって?」
「んっ!」
「わかったから、そんなに引っ張るな」

アイザックは笑いながらも隣に寝転んでくれた。ほら、と片腕を伸ばしてくれたので、そこに頭を乗せるようにして胸に頬を擦り寄せる。トクトクと穏やかに刻まれる心音が、まるで子守唄の様で安心した。ただ傍に在るだけで、ほっと息をつける。隣にいるだけで得られる心地の良い時間は、アイザックとしか過ごせないものだ。

腕枕をしてくれていた腕が持ち上がり、そっと掌が後頭部に添わされる。優しく抱き寄せてくる腕の中で頬を緩ませて、ディルクもまたアイザックの脇に腕を差し込んだ。きゅうっと指先を丸めるようしてしがみつくと、ぽんぽんと後頭部を弾むように優しく叩かれる。

「あいざっく……」

応えるように更に強く抱きしめられて、その強さに安心した。自分を抱き締めてくれているのは間違いなくアイザックなのだと確認できて、蕩けるような心地よさに浸る。

「おやすみ」

穏やかで優しい囁きが間近で聞こえたかと思えば、耳朶に柔らかなものが触れた。相手が誰かは分かっていたから、安心してゆったりと寄せてくる眠気に身を任せる。夢に落ちる前の、酩酊感を感じて自然と頬が持ち上がった。

アイザックの腕の中で見る夢は、きっと心地が良いものだろう。





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