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本編
後日談1
しおりを挟むあの日、俺はきっと間違えた。
兄が目覚めた瞬間に、もう一度殺しておけば良かったのだ。その眼差しも、その心も。すべて要らないと切り捨てた筈なのに、兄の瞳に自分が映ったのを見て欲が湧いてしまった。それさえ諦めれば、骸であったとしても今も傍に在ったのに。
背が痒くて仕方がない。アイザックに負わされた傷が疼いて、奥歯が鳴るほどに唇を噛み締める。
目覚めたとき、国王から処罰を言い渡されるかと思っていたが、起こした騒動の諸々はアイザックの罪になっていた。空に魔方陣を刻むなんて芸当を仕出かしたのだ、目立ってはいただろう。けれど、それだけだとは思えない。大方、ユーリオの奴が気を利かせたのだ。国を出て行ったアイザックと違い、俺はこれからも此処で生きていかなくてはならない。それを考えてのことだと理解はできるが、感謝なんて微塵も湧いてこない。唯々、惨めだった。
痛みで朦朧とする意識の中で、ユーリオの言葉を覚えている。
「ディルク様の為に生きてください」
本当に、こいつはそればかりだな。呆れの感情と共に、僅かな羨望が滲む。
ユーリオのように、兄の幸せを願えば良かったのだろうか。ただの弟として、新しく歩き出そうとする兄の背を見送っていれば、少なくとも一生会えなくなるような事にはならなかったのかもしれない。けれど何度考えても、そう出来ている自分が想像できない。兄以外の人と、人生を共にすることを考えた事すらないのだ。他人なんて汚くて冷たくて、その中で熱を持っているのは兄だけだった。伸ばされた手に嫌悪を覚えることなく、僅かに触れるだけでも安堵を与えてくれるのは兄の掌だけだ。
……触れたいな。
あの日のように、優しく握り返してほしい。
背をじっとりと覆う、疼くような痛みから逃げるように、きつく瞼を閉じる。
「ジークベルト」
閉じた瞼の裏で思い出すのは、意外にも変哲もないことばかりだ。自分から切り捨てたのに、今になってみれば愛おしく見える。勝手な感傷だと知りつつも、かつての思い出に縋るように記憶を辿った。
つまらないな、と思った。見栄を張り合うだけの会話と、他人の失敗を論うだけの空間に楽しさを見いだせない。以前までなら自然と口が動いた筈だ。母には他の貴族に負けないようにと言い含められていたから、少しでも上に立とうと躍起になっていた。けれど、今は早く時間が過ぎる事だけを考えている。話しを振られた時の為に聞いてはいるが、狩猟で飛んでいる鳥を落としただとかどうでもいいものばかりだ。大方、従者が撃ち落としたのを自分の手柄にしているだけだろう。
「なあ、ジークベルトもそう思うだろ?」
「ああ、凄いね」
この茶会が終わったら、兄に会いに行こう。貼り付けた笑みで応えてから、兄が好きそうなお菓子を考える。何を用意しよう。スコーンとクッキーと、ケーキは勿論とびっきりのものを用意させて二人きりの茶会を開こう。他の誰も必要ない。俺と兄さえいれば良い。
友人達が帰ってから、一度、机のものを全て片付けさせる。残り物を兄にあげるわけにはいかなかった。彼らが触ったものなんて、兄の口に入れたくない。
メイド達が支度し直している間に、俺は兄の姿を求めて屋敷を歩いて回った。途中で会った母は渋い顔をして小言を言ってきたが、それとなく流して脇を通り過ぎていく。最近の母は、俺が兄と親しくなるのが気に入らないのか。顔を合わせる度に、兄の悪口ばかり口にする。そんな人ではないと言っても、上から押さえつけるように窘められれば自然と母から足は遠のいた。兄は母のことを悪く言わないのに、どうして母は蔑むような事ばかり言うのだろう。母への疑念ばかりが膨らんで息がし辛くなる。けれど、兄の背を見つけて、自然と口元が綻んだ。暗闇の中で、たった一つの光を見つけたような気分だ。
「兄さん!」
「わぁ!?」
振り返った兄の胸の中に飛び込む。兄はしっかりと俺を抱き留めた後、数歩ほど後退った。そうして、俺の頭を優しく撫でてくれる。
「どうしたの?」
「兄さんと茶会したくなったから誘いに来たんだ」
「……あれ? さっきしていなかった?」
「兄さんと、したくなったんだよ」
というよりは、本当は兄さんとしか喋りたくない。けれど、貴族である以上、多少の付き合いも仕事の内らしい。それは俺も分かっているので、面倒だろうが何だろうが交友は持つべきだと思う。ただ気疲れしてしまうのは、心の持ちようだけではどうにもならなかった。
相手の弱みを探って、けれど自分の弱みは巧妙に隠さなければならない。仕方のない事だと分かっていても、それでも時々無性にすべてを投げ出してしまいたくなる。そういうときは決まって、兄に手を握ってもらうことにしている。きゅうと僅かに力を込めて握ってもらえると、不安が跡形もなく消えていく気がするのだ。
「兄さん」
伸ばした手は、当然のように優しく握り返される。重なった肌から熱が染み渡るようで、知らず知らずのうちにほっと息が漏れた。
「それなら招待されちゃおうかな。案内、お願いできますか?」
「もちろん!」
向かい合うようにして両手を握り、兄は悪戯っぽく笑う。それに大きく頷いて、俺は兄の手を引いた。
兄の傍に居ると、何だか不思議な心地になる。居ても立ってもいられなくなるようなソワソワとした気持ちと、ずっとこうしていたいような安堵感。体の奥底から熱が湧いて、血の巡りが早くなる。不思議だが、決して不快ではない。寧ろ、得難いものであるような気がするのだ。
兄はマカロンを摘まむと、それをぽいっと口の中に放り投げた。途端に顔が煌めくものだから、少し不思議に思えてしまう。まさか、食べたことがないわけではないだろう。
「そういえば兄さんは、あまり茶会とかしてないね」
「そんなことないよ。ユーリオが紅茶を淹れてくれることもあるんだ。凄いんだ、花を浮かべてくれるんだよ!」
それでも、彼の本分は庭師だ。菓子の類までは用意できないだろう。
「茶会がしたいのなら使用人に言えば良いのに」
そこまで言って、ああと思う。兄は多分、使用人にすら気を使っているのだ。自分が何か頼み事をしたせいで、使用人が母から責められたりするのが兄には耐え難いのだろう。けれど、兄はそんなことを伺わせない笑顔を浮かべただけだった。
「あはは、そうだね。今度、頼んでみようかな」
この人は、どうしてこうなのだろう。無神経なことを言ってしまった俺を責めるでもなく、兄は気にさせないように明るく笑っている。そこには、俺への悪意なんて微塵も浮かんではいない。
きっと、兄から使用人に何か頼むことはこれからも無いだろう。優しい人だから、自分の行動で誰かが不利益を被ると知ってしまったら、それだけで彼は身動きが取れなくなってしまう。
「に、兄さん。他にも食べたいものはない? 直ぐに用意させるよ」
「ありがとう。でも、これ以上は流石に食べきれないかな」
兄は柔らかく微笑み、紅茶を一口含んだ。そのとき、僅かに眉が寄る。痛みを堪えるようなそれを見逃すことが出来ず、兄の顔をジッと見てしまう。彼は、少しだけ罰が悪そうに苦笑いを溢した。
「怪我してるの?」
「うん、先生に稽古をつけてもらった時に少しだけ」
「……ねえ、兄さんは充分強いと思うよ。だから、もう」
「駄目だよ、全然足りない。ただでさえ碌に魔法が使えないんだ。せめて何か一つくらい出来ないと父さんに申し訳ないよ」
父が何だって言うんだろう。兄のことも、俺のことも。あの人は少しも見ていない。物を検分するような眼差しで、俺と兄を比べてはどちらが家に相応しいかと見定めている。そのせいか、俺にとって父は得体の知れない化け物みたいな印象が強い。感情の籠らない視線は気味が悪くて好きじゃなかった。
皆、好きじゃない。
兄にこんな顔をさせてしまう自分も、父も母も、時々とても煩わしいものに思えてしまう。前までは母の為になりたいと思っていた筈なのに、最近は良くわからない。兄を悪くいう母の言葉に素直に頷けなくなってから、世界が歪んで見えてしまうのだ。俺が、今まで信じてきたものは何だったのだろう。
「そんな顔をしないで」
兄は困ったように眉を下げて、それでもそっと目を細めた。
「ジークベルトは優しいね。心配かけてごめん。なるべく怪我はしないように気をつけるよ」
「……俺、優しくないよ」
少し前まで、兄に酷いことをしていた。どれだけ消したくても、それは消せるようなものじゃない。それに、最近は人が汚く見えてしまうんだ。どうしてだろう。そんな風に思いたいわけではないのに、関われば関わるほどに汚い部分だけが浮き上がって見えてしまう。
顔が僅かに下向きそうになって、けれど頬に触れた熱に阻まれた。
「優しいよ。俺の為にそんな顔をしてくれてるジークベルトが優しくない筈がない」
「……そう、かな」
兄は答える代わりに微笑むと、俺を優しく抱き寄せた。大丈夫だよ。そう繰り返しながら背を撫でられると、本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。慈しみに満ちた声は、優しく俺の体を包んでくれるみたいだった。愛おしさに溢れた腕の中にいるだけで、ほくほくと体が温かくなってくる。
兄さんには、優しくしたいな。
俺は自分が優しいとは思えないけれど、そう言ってくれるのなら兄にだけは優しくしたい。兄の胸に頬を寄せて、とくとくと穏やかに脈打つ心臓に耳を澄ませた。温かく包んでくれる腕の中は、徐々に硬くなりつつある自分の心ですらも柔らかく解してくれる。
この温もりさえあれば、どんなに冷たい場所でだって楽に呼吸が出来る気がした。
吐く息が白く、くぐもって見えるのは気のせいだ。そう理解しているのに、何故こうも体が震えてしまうのかが分からない。手袋に包まれた指先が冷たく痺れて、勝手に小刻みに揺れ始める。
抱き締めてくれないのなら、自分から抱き締めればいい。キスをくれないのなら、自分がすればいい。そう思ってきたが、今となってはそれすらも出来ない。
どうでもいいなんて嘘ばかりだ。本当は同じくらいの熱量で見つめて欲しかったし、自分が欲情するように兄にもして欲しかった。自分だけを見つめて、求めて欲しかった。
幼い頃から育ててきた恋情を、今さら他の誰かに渡せるとは思えない。行き場のなくなった感情は持て余すだけ持て余して、最後には受け取って貰えないまま腐っていくのだろう。でも、もうそれでいい気がした。兄以外を隣に置くなんて、考えただけで怖気がする。
「……やっぱり、俺は優しくないと思うよ」
せめて兄にだけは優しくしたいと思っていた筈なのに、結局は兄すらも傷つけた。大事にしなければいけないと思っていた筈なのに、殺して貶めてしまった。ただ傍に居て欲しかっただけの筈なのに、取り返しのつかないことをしてしまった。あの人はもう、普通には戻れない。謝ることなんて、もう出来るはずもなかった。
何気なく向けた視線の先に、庭園が見えた。兄は天気が良いと外に出たがったから、庭園で過ごした時間は多い。兄が木陰で本を読んだり、芝生で日向ぼっこをしているのをよく見た。俺は決まって隣に座って、そんな兄の横顔を眺めていられる時間が好きだったのだ。
「……帰りたいな」
あのまま、時間が止まってくれれば良かったのに。
馬鹿々々しい望みを諦め悪く抱えたまま、兄が居たはずのベッドで蹲る。眦が熱くなって、唇が切れてしまいそうなほど強く噛み締める。
ごめんなさい。信じてもらえないかもしれないけれど、それでも本当に、俺はちゃんと兄さんのことが好きだったんだ。
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