夜明けには程遠い【完結】

米派

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幕間1

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※幕間は、前のお話で出てきたヴィクターとエドウィンの馴れ初め話になります。







これは、俺が路地裏で暮らしていた頃の話だ。

その頃、教会との癒着で体を成していなかった国は、碌な政策を打ち出すことも出来ずに腐っていくばかりだった。俺も例に漏れず貧困層に入り、毎日毎日、その日を食い繋ぐ為だけに生きていた。目的なんてものは一つもなく、その日の為に働き、眠るだけの日々に意味など見出だせない。

働いても働いても終わりは見えず、路地にはゴミの様に死体が転がっている。苦痛の塗れた死に顔を見るたび、いつか隣に並ぶ日が来るのではないかと恐怖した。

明日が怖い。

薄汚れたシーツを掻き集めて、固く瞼を閉じる。立てた膝に顔を埋めて、忍び寄ってくる夜を追い払った。

そんな苦しいだけの日々を積み重ねていた時、ヴィクター様は現れた。

その日は日雇いの仕事にありつけなくて、スリをしようと中層の奴等が闊歩する大通りへと足を運んだ。楽しそうな笑顔や呼び込みの声で溢れていて、活気のある雰囲気に歯噛みする。鬱屈した感情を隠しもせず通りを眺めていると、不意にある一点に意識が引き寄せられた。

綺麗な人だと思った。陽の光を受けて煌めく白銀の髪に、鮮やかな金の瞳は幼い頃に絵本で見た宝石のように透き通っている。睫毛でさえ白く、淡雪のように儚げな美しさだった。ただ、その美貌を裏切って、口から吐き出されるのは酷く我が侭なものだった。

「それと、あれとこれ、買ってこい」

彼は腕を組んだまま、顎で店の指定をするのみで自ら歩こうとしない。手荷物も持っておらず、従者と見られる男だけが両手に大量の荷物を抱えていた。前方が見えているのか怪しい状態の男は、流石に許容量を超えたのか悲鳴じみた叫び声を上げる。

「これ以上は流石に……」
「そうか、ならお前なんて要らない。別の者を連れてこい」
「っ、わかりました……持ちますよ」

綺麗な人ではあるが強烈な性格だなと、強く印象に残った。

それから仕事がない日は、大通りに足を運んで彼の様子を眺めていた。今思えば、俺は恐らく彼に一目惚れと言うのをしたのだろう。自分のみすぼらしさは良くわかっていたから話しかけることはなかったが、執拗に彼の姿を探しては遠くから見つめていた。

彼は性格に難があるのか、見かけるたびに違う部下を連れていた。そんなに恨みを買ったりしたら、後々大変な事になるのではと余計な心配を寄せていたのだが、それは当たることになる。

「俺たちのこと散々、馬鹿にしやがって……クソ生意気な餓鬼が!」

何時ものように、彼の姿を一目見ようと路地を歩いていたら、ガッと壁を蹴る音がした。それと同時に、怒りに満ちた声が響き渡る。争いごとなら面倒だな思いつつ踵を返そうとするが、後に続いた声に足を止めた。

「離せ……ッ! ふざけるな! こんな事をして、ただで済むと思ってるのか!?」

聞き間違える筈もなかった。彼の声だと思い壁から顔を覗かせると、案の定、そこには相変わらず輝かんばかりの彼の姿があった。ただ手を背で拘束されているのか、抵抗できないらしい。彼は歯を見せて威嚇するものの、男たちは気にした様子もなく却って嘲るような笑みを頬に刻んだ。

「あははっ、ざまぁねぇな。魔術塔の最高司令官が、こんな様なんてな」

彼を囲む男達には見覚えがあった。彼が冷たく接していた部下だったからだ。腹いせのつもりなのか、男の一人が彼の服を剥ぎ取ろうとする。彼は途端に顔を青褪めさせて、抵抗するように足を振った。

「気持ち悪いっ、触るな!」
「お前、顔だけはいいからな。俺達の玩具にしてやるよ。安心しろ、直ぐに自分から腰振るようにしてやるから」
「ふざけるなっ!」

彼が激しく頭を振るのを見て、助けに入らなければと武器になるものを探す。闇雲に飛び出して押さえつけられたら、彼を助ける者は誰も居なくなってしまう。

男たちは彼の衣服を剥ぎ取ると、口笛を鳴らした。暗がりでもぼんやりと光るほど、彼の肌はきめ細かくて白かった。精巧に作られた陶磁器の人形のようだ。うっとりするほど綺麗な姿だが、その眼差しは刃物のように鋭い。

「娼館育ちなんだろ? 男相手に尻差し出してた淫売の癖に、今さら純情ぶるなよ」

その言葉を聞くや否や、彼は噛み切る気かと思うほど強く唇を噛み締めた。

「……だから、お前らみたいなのは嫌いなんだ。初めから認めてなんかない癖に、上辺だけ媚へつらいやがって……その淫売に媚びてた気分はどうだ? お前らは、俺より下なんだ! 大人しく地べた這いつくばってればいいんだよ!!」

男は剣幕に押されて呆然としていたが、彼の言葉を理解するなり顔を怒りで赤らめた。

「テメェ……ッ!」
「ぁぐ……っ!」

ガッ、と勢い良く彼の頬に拳が打ち込まれる。小さく呻いた後、彼の綺麗な瞳が涙で滲んだのを見たのが最後だった。

怒りで、脳が煮立った。

彼が泣いた。頬が真っ赤だ。可哀想に、凄く痛そうだ。

気がついたら、真っ赤なカボチャが目の前に三つほど転がっていた。何度も何度も振り上げては下ろしていたせいか腕が痛い。はぁ、はぁ、と掠れた呼吸を繰り返して後ろを振り返ると、ぽかんとしている彼の姿が目に入る。

「……誰だ?」

最もな問いではあったが、残念ながら俺は答えることができない。名前はあった筈だが、久しく呼ばれていないせいで記憶になかった。

それよりも、彼の方が気になる。あの男、加減もしなかったのか、彼の白い頬は真っ赤に腫れ上がり痛そうだった。そっと指で撫でると、彼は小さく肩を揺らした。改めて自分の手を見ると、爪の隙間には黒ずんだ汚れがこびり付き、指先も所々ひび割れて汚らしい。凡そ、彼に触れても良いような手ではなかった。

「……すみません。汚い手で触ったりして」
「いや、別に……」
「頬も痛そうですね。手当ての道具はお持ちですか? もしお持ちで無いのでしたら、今すぐ買ってまいります」

ポケットを探り、なけなしの金を彼の前に差し出す。今日の晩飯がなくなるが、俺が彼にやれるものなどこの程度しかない。情けなく思いつつも差し出すが、彼は首を横に振った。

「心配には及ばない。この程度、この拘束さえ解いてくれれば魔法で治せる」
「わかりました。今解きます」
「あ、ああ……」

背に回り拘束を解いてやると、彼は訝しげな眼差しを俺に向けた。不可解なものを見るような瞳に、つい首を傾げてしまう。何か不快にさせるようなことを言ってしまっただろうか。

彼は手早く傷を治すと、外套の土を払って立ち上がる。ああ行ってしまうのか、そんな寂しさが胸を満たした。そして、最後なのだからと、間近で見る彼を目に焼き付けようと見上げる。

血溜まりの中で、彼は優しく微笑んだ。

「俺は魔術塔の最高司令官だ。礼に何が欲しい。金か、家か、女か……何でもやろう」

何でも、その言葉にぐらりときた。

「本当に何でも良いんですか?」
「ああ、構わない」

彼の笑みが、深く頬を裂く。冷めた笑みが美しく、俺は悪魔に魅入られたかのように彼を見つめることしか出来ない。そうして、ずっとずっと欲しくて堪らなかった望みを震える唇に乗せた。

「名前を……それなら貴方様の名前が知りたい」
「……は? 名前? 俺の?」
「はい、出過ぎた願いでしたか」

やはり俺なんかに名など教えられないのだろうか。思わず肩を落とすと、彼は壁に背を預けた。どうやら、まだ立ち去る気はないらしく安堵する。

「……待て。本当にそれで良いのか? 見たところ金も無さそうだし、俺の名前なんて一銭にもならんぞ」
「貴方様の名前を呼びたい。このような汚らしい身で過ぎた願いとは思いますが……どうか赦しては頂けませんか」
「変な奴だな」

彼は心底そう思っているように呟いたあと、自らの胸に手を当てて高らかに告げた。

「俺は魔術塔の最高位であるヴィクター=ダヴンズだ。お前のような下層民は、滅多にお目にかかれないんだぞ。口を聞いてやるんだから、もっと喜べ」
「はい、光栄です。ヴィクター様」
「…………調子が狂うな」

ヴィクター様は居心地が悪そうに頭を掻くと、壁から背を離した。さらりと揺れる白銀が、薄暗い路地で星のように瞬く。

ヴィクター様、ヴィクター様。

教えて貰った名を、何度も頭の中で反芻する。これから彼を見かけたら、ヴィクター様と呼べるのが嬉しくて堪らない。星に焦がれながら死ねるなら、それはそれで幸せな一生だと思えた。

「名前を教えてやったんだ。もう行く」
「ぁ……ありがとうございます。大通りまで、お送りします」
「ふん、馬鹿にするな。……油断さえしなければ、あんな奴等に先手を取られたりしなかった」

ヴィクター様は眉間に皺を寄せると、短く舌を打った。その表情には、屈辱が滲んでいる。そんな顔をさせたかった訳ではなく、俺は慌てて頷いた。

「勿論、存じております。ただ、俺がもう少し貴方様の傍に居たいんです。下賤な身の、哀れな男の願いを叶えてはくれませんか」
「……仕方ないな。案内役は頼んだぞ」
「ええ、それなら此方です」

足を向けていた方角と逆側を指差すと、彼は目元を赤らめた。

「あ、ああ、ご苦労」

可愛いなあ。間違えた事を悟られまいと態と不遜に答える様子に、胸がきゅんと妙な音を立てる。少し捻くれている所も含めて、ヴィクター様は愛らしく見えた。




それからも時間を作っては、物陰からヴィクター様を眺める日々が続いた。相変わらず大量の物を購入しては、部下を潰す気かと思うほど持たせている。不満を隠しもしない部下を、それならそこを変われと蹴り飛ばしてやりたくなる。口を聞いてもらって、その視界に入れてもらっているだけで分不相応な程の幸福だろう。

「おい、次はあっちだ。着いてこい」
「……いい加減にしろ」
「何だと?」
「いい加減にしろっつったんだよ! 毎度毎度バカみたいに買いやがって……っ」

今日は荷物持ちの途中で、部下が堪忍袋の尾を切らしたようだ。思いっきり荷物の一つを投げつけられて、それがヴィクター様の額にぶつかった。硬い物だったのか、彼の白い肌にじわりと赤が滲みポタポタと石畳を濡らしていく。部下は一瞬だけ怯んだものの、キッと彼を睨みつけた。

「貴方は魔術塔の頭には相応しくない。娼館で何人に股開いて今の地位に居るのか知らないが、どれだけ頭良くたって誰も貴方みたいな汚い奴についていきませんよ」
「……そうか。なら、お前は首だ」

傷ついたように顔を歪めたのは一瞬だった。ヴィクター様は腕を組むと、何時ものように部下を突き放す。部下は振り返りもせず、血を流す彼を置いて行ってしまった。

小さく背を丸めて、物を拾い集める彼の背は寂しそうだ。泣いていないのに、泣いているように見えた。雑踏の中、彼は震える指で物を掻き集めている。額から流れる血に気も払わず、彼は悔しそうに唇を噛んだ。その様子に、どうしても我慢ならなかった。

俺は怒りに突き動かされるまま、元部下を追いかけることにした。歩きながら鉄の棒を拾い、物陰から手を伸ばして男を路地に引き摺り込む。ぐしゃり。それだけで呆気なく、男は黙った。

彼を侮辱する口なら必要ない、彼を傷つける手なら意味はない。この男の存在に価値はなかった。

一頻り痛めつけた後、慌てて元来た道を引き返し、ヴィクター様の元へと向かった。あんな大量の荷物、彼の手に持たせるわけには行かない。

道端で彼は背を丸めたまま、積み上げた荷物をぼうっと見つめていた。迎えを待っているのか、それともどう運ぼうか悩んでいるのか遠目からでは判別が付かない。

「こんにちは、奇遇ですね」

そろそろと近づき、同じようにしゃがんでから彼に声を掛けた。全く奇遇ではないのだが、まさか毎日のように貴方を見つめているとは言えない。彼は潤んだ瞳を慌てて拭うと、バッと勢い良く立ち上がった。

「気安く声をかけるな」
「申し訳ありません。お困りのようでしたので、俺に何か手伝える事があるのならと」
「ふん、困っていない。貴様の手など借りるものか」

しかし、どう見ても困っている。俺が何かを施すという形が気に入らないのか、ヴィクター様は頷いてくれない。それならと、いつかに見た子供の荷物持ちを思い出し、眉を下げて彼に懇願してみることにした。

「そんなことを仰らず、どうか俺に路銀を恵んでくれませんか。荷物持ちで稼いでおりますので、持たせていただければ今日の食事に宛てられます」

哀れっぽく見えるように振る舞うと、彼は躊躇いつつも頷いた。

「……仕方ないな。持たせてやる」
「はい、ありがとうございます」

許可を得て、ひょいひょいと荷物を持ち上げる。彼は呆気に取られたように目を丸くして俺を見た。

「流石、荷物持ちだな」

日雇いは力仕事が多く、この程度なら軽いものだ。
ヴィクター様はまだ買い物を続けられるらしく、色々と連れ回された。彼が俺を振り返り、声を掛けてくれる時間は幸せだった。蜥蜴のしっぽや蝙蝠の羽を買い付け、彼は「こんなものか」と言った。どうやら終わりが来たようで、寂しくなる。

彼に連れられるまま門前まで行き、そこに立つ衛兵に荷物を受け渡した。彼は俺の手に路銀を落としてくれる。彼から貰ったものだ。飯に宛てるなんて勿体ない。お守りとして胸に入れておこうと決めていると、不意に彼が俺の手を引いた。ひやりとした温度に目を見開き、固まってしまう。彼が、薄汚い俺に触れていることが信じられない。

彼は俺を魔法で綺麗に洗うと、満足そうに笑った。そして足先から頭まで見ると、ずいっと服を差し出してくる。

「よし、これに着替えろ」
「は、はい……?」

戸惑っている間に服を剥ぎ取られて、無理やり着替えさせられる。そして、いつの間にか門を超えていた。頭上に疑問符が浮かんだまま、逆らう事もできずにヴィクター様の後に続く。

門から暫く歩いた先に、その塔は立っていた。大通りから見ていたときには時計塔だと思っていたが、どうやら此処が彼の言う魔術塔らしい。魔術塔の周囲には建物が隣接されていて、まるで小さな国のようだった。

呆気に取られて眺めていると、ヴィクター様が誇らしげに鼻を鳴らす。

「どうだ、凄いだろ。彼処から此処まで、全て俺の管轄なんだ」
「ええ、とても」

素直に頷くと、ヴィクター様は機嫌が良さそうに頷いた。

「次の部下が見つかるまで、繋ぎで雇ってやる」
「……俺なんかで宜しいのですか?」
「ああ、給料は弾むぞ。貴様なんか、一生掛けたって手に入れられない金が稼げるんだ。悪い話じゃないだろ?」

金なんか、どうでもいい。それよりも、この人の傍に置いてもらえるのが嬉しかった。

「ありがとうございます。よろしくお願い致します」

深々と頭を下げると、彼は満足そうに笑った。




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