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おまけ
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※攻め視点です。
青空に、雷鳴が轟いた。それから眩い光の尾を強く刻みつけながら星が落ちていく様を、多くの者が見上げていたのだ。それはこの世のものとは思えないほどに美しく、終わりを告げに来た彗星のようにも見えた。
遂に人間たちが信仰している勇者が召喚されたのかと、瞬く間に全体が混乱に包まれた。「見つけ次第、排除しろ」と、命を受けて急遽その場にいた部下たちを連れて現場に急いだところまでは問題はなかったはずだ。だが、これは一体どういうことなのか。
少年は想像よりも、とても小さく思えた。見慣れない衣服は無残に引き裂かれ、剥き出しとなった肌には大小さまざまな傷が刻まれている。怯えきった黒い瞳は潤み、逃れようと細い指が力なく地面を引っ掻いていた。それでも目を逸らせば殺されるとでも思っているのか、ぶつかった視線が外されることはない。
誰も覚えていない遥か昔から、人間と亜人は世界の覇権を争ってきた。互いの文献を突き合わせたところで都合の良いことしか書いておらず、最早どちらから始めたことかさえ今となっては分からない。長らく続く睨みあいに終わりは見えず、奪っては奪われて無意味に繰り返してきた。過去には友好関係を結んだこともあるそうだが、それも結局は長く続かず今に至る。国境付近の小競り合いなどは日常茶飯事で、数えるのも馬鹿々々しくなるほどだ。
そんな惰性のように続く現状を終わりに導くとされる勇者は強靭な肉体を持ち、その身一つで国を滅ぼせるほど卓越した存在であるとされていた。しかし、目の前の彼は細く脆そうで、武器を握ることすら出来るかどうか。
血を吐いたのか顎はべったりと赤く濡れ、地面の色をどす黒く変えるほどだ。対峙する意志を見せることもなく、ひたすらに怯えだけを浮かべる瞳が、あまりに想像と乖離していた。この態度が演技だとするのなら怒りを越えて称賛に値するだろうと思う程に、彼は青褪め、目視できるほどに大きく震えている。
殺気立つ部下たちを制し、気付けば手を伸ばしていた。抱き上げた身体は軽く、思わず目を見張る。彼は痛みを堪えるように眉を寄せたが、抵抗する気力も残っていないのかされるがままだ。
……細い首だ。武器を使わずとも、少し力を込めれば圧し折れそうなほど頼りない。触れた皮膚も柔く、爪が掠めただけで裂けてしまえそうだ。
あまりに弱々しい彼を一思いに殺める気にもなれず、かといって他の者に任せても碌な結果にならないことは容易く想像がついた。今でこそ優勢を保っているが、まだ多種族間で纏まりがなかった頃には人間側に押されていたことがある。その際に奴隷に貶められた者も多くいるため、人間に対して悪感情を抱く者は少なくない。怪我の具合からしても悠長に考えている余裕はなく、副官に上層部への報告を任せて、ひとまず手当てを施すことにした。震える彼は僅かばかりの抵抗すら出来ないほど弱り切っていて、自分には恐れるべき相手には見えなかったからだ。
「どういった心境の変化ですか」
治療を終えて、そう経たないうちに王であるロジェが訪ねてきた。壊すことしか能がない俺と違い、頭の切れる豹の獣人だ。勇者を連れ帰ったことで何か言われるだろうと考えてはいたが、まさか供も連れずに本人が来るとは思わなかった。しかし、誰が来ようと返す言葉は決まっている。「引き渡すつもりはない」と言い切ると、ロジェは動揺することなく、ただ少し困ったように肩を竦めた。
「……相変わらず自覚がないようですが、貴方は国の要です。人間共を退けた数々の功績から神聖視する者も多い。それこそ我々にとってはヴァンクール、貴方が人間共のいう勇者なのですよ」
やめてくれ、と言葉を遮りそうになる。間違っても俺は、万能な存在ではない。現に初めて人間に手を掛けたとき、大層な思想など持っていなかった。苦痛から逃れたい、飢えを満たしたい。根源的な欲求に突き動かされるまま殺して奪い、いつからか背には多くの者がいた。誰が呼び始めたのかヴァンクールという名が自分のものになり、称賛も罵倒も等しく浴びせられた。その中で護れたものもあれば、それ以上に取り溢したものが多くある。
「王位すらも拒んだ貴方が、よりによって何故そんなものを望むのですか」
「愚弄するような言い方は止せ。彼は誰一人として傷つけていない」
伝承通りの存在ならば、彼は異界から呼びだされたのだろう。元の世界での振る舞いなど知る由もないが、今はただ迷い込んでしまっただけの者に過ぎない。少なくとも現時点では敵と決めつけることは出来ない筈だ。
「彼の行動は、俺が責任を持とう」
俺の言葉にロジェは額に手を当てて、深々と溜息を吐いた。そして、ひどく苦々しいことを口にするように鼻に皺を寄せる。
「……かしこまりました。始末できないのであれば、貴方が見張っていることが最善でしょうね。私としては、不穏分子は早々に除いてしまった方が確実かと思いますが」
不愉快そうに細められた瞳が、部屋の奥へと伸ばされる。先にいる彼を見通そうとするかのように視線を、身体をずらすことで遮った。それに、ロジェは嘆くように目を伏せる。
「残念でなりませんよ。貴方が自ら望むこと……それが勇者などでなければ、共に喜びたいところでしたがね」
しなやかな尾を揺らし、ロジェは去っていった。落胆の滲む背を見送り、俺もまた踵を返す。民を守ることを最優先に考えるのであれば、ロジェの言い分が正しいのだろう。そうと頭では理解していても尚、彼を差しだすことは出来なかった。縋るように潤んだ瞳が、未だに網膜にこびりついて離れない。
意識を切り替えるように足を早め、眠る彼の傍に膝をついた。今にも途切れそうな細い息遣いに布を捲れば、浅く上下する胸の動きが見て取れて息をつく。
「……勇者か」
彼は、どんな人間なのだろう。叶うならば、敵対することがなければいい。
熱く火照った額に手の甲を添えると、ふっと表情がゆるんだ。あどけない寝顔に、こちらの緊張まで解けてしまう。今はただ早く元気になるようにと、そっと頭を撫でた。
前々から何となく察してはいたが、どうやら俺の顔は怖いらしい。目が合っただけでブルブルと音が響きそうなほど震える彼を前に、そんなことを再確認する。不用意に怯えさせるのは気が引けるが、日常生活に必要なことは抜くことができない。幸い、震えはするものの抵抗はしないので、爪を立てないように慎重に触れていた。力を込め過ぎないように「優しく」と何度も反芻させながら脇の下に手を入れ、ゆっくりと緩慢な動作で立ち上がる。互いに怯えている姿は、傍目から見れば滑稽に映るかもしれない。
「すまない。嫌だろうが、せっかく傷も治ってきたんだ。悪化しないように洗った方がいい」
潰さないように指先まで意識を集中させ、わしゃわしゃと髪を泡立てる。彼は小さな身体を更に縮めてされるがままだ。細い身体には召喚されたときに出来たと思われる裂傷こそあるが、戦士であるならば当然あるだろう古傷などは見られない。
本来の世界では、穏やかに暮らしていたのだろうか。少なくとも怪我を負うような状況に置かれていなかったことは確かだ。……この想像が正しいのであれば、ここでの扱いは恐怖でしかないだろう。意味も分からず敵意を向けられ、犯してもいない罪を責められる。
鏡に映る、少年を見た。まだ幼さの残る顔立ちも相まって、震える彼は余計に小さく映る。その恐怖を取り除いてやりたいと思いながらも、どうしたら怯えさせずに済むのか全く見当がつかなかった。言葉による意思疎通すら難しく、自分の表情の硬さもあって活路が見出せない。
今日も結局、何をすればいいのか掴めないまま時間だけが過ぎて行く。悶々と悩んでいるうちに、普段は青褪めた頬が真っ赤に染まっていることに気が付いた。慌てて湯船から抱き上げて、小刻みに震える彼の頭に布を被せる。力加減が難しく、殆ど浮かせるようにしてぽんぽんと軽く押しつけた。彼は俺が知る人間よりも遥かに小柄に思えて、指先まで気を張っているせいか攣りそうになる。
「……大丈夫、大丈夫だ。何があっても俺が君を守ろう」
何故、これほどまでに彼が気になるのか。勇者だから、怪我をしていたから。当然それもあるだろうが、それだけでは説明できない何かが胸にある。得体の知れない奇妙な温かみが感じられて、その正体を確かめるように彼を見た。少年は戸惑ったように少しだけ此方を見上げて、けれど直ぐに逸らしてしまった。
勇者である彼を取り戻そうとしているのか国境付近が騒がしくなり、間を置かずして各地に飛び回っては前線を押し返す。ひとりにするのは心配だったが危険がある場所に連れていくわけにも行かず、外から警備をするように頼んでから出て行くことが増えた。慌ただしく過ごして行く中で、少しずつではあるが彼の震えも治まってきた。最近では寝室から出て背を見送ってくれるようにまでなったのだ。手を伸ばしても身を竦ませることがなくなり、かすかに目を細めて受け入れてくれる彼を見ていると、奇妙な違和感が段々と増していくのが分かる。けれど、それは何処か心地よくも感じられて、彼に触れることを止められない。
「 」
彼の言葉を正しく理解することは出来ないが、優しい音の響きを、和らいだ表情を見せてくれる瞬間を、俺は嬉しく感じているようだった。ふわふわと浮かぶような柔らかな感情は慣れないもので、どう扱って良いのか不安になることもある。けれど、それも彼に触れていると直ぐに薄れていった。トクトクと俺よりも小さく鳴る心音と触れたところから伝わってくる温かさに、意識もせず目元が緩む。
俺は今、どんな顔をしているのだろう。変に思われてはいないだろうか。
抱き上げた微かな重みに目をやれば、それに気付いた彼は此方を見てくれた。黒い瞳が柔らかく細められるのを確認すると、急激に体温が上昇し、心拍数が増す。不可解な変化に戸惑いながらも切り捨てることは考えられず、むしろ今の日々を手放し難く感じるのは何故なのだろう。
丸みを帯びた頬を撫でると、彼はくすぐったそうに小さく笑い声を溢す。たったそれだけのことで跳ねる心臓に戸惑いはするが、やはり離れる気にはならなかった。
「……俺の言葉が分かるだろうか」
小さな頭を傾け、不思議そうに此方を見上げてくる。それに自然と笑みが浮かぶのを自覚しつつ、少しでも聞き取りやすいようにゆっくりと言葉を繋げていく。
「皆からはヴァンクールと呼ばれている。ヴァンクール、だ」
少しも聞き逃すまいと、真剣な眼差しが此方を見つめている。だが、やはり彼にとっては耳馴染みのない言葉のようで、なかなか発音するのは難しいようだった。お返しとばかりに彼も小さな唇をぱくぱくと大きく動かしてくれたものの、俺もまた彼の名を捉えることができない。世界が違うのであれば仕方がないことと諦めながらも、彼の名を口に出来ないことが妙に寂しかった。不可解な感情が胸の底にわだかまり、それを誤魔化すように緩く腕に力を込める。あたたかく、やわらかい。この腕で肉を貫いたことはあっても、こうして誰かを抱き締めたのは初めてかもしれない。他人の熱がこれほど気持ちが良いものだとは知らなかった、それとも彼だからこそ穏やかな心地になれるのだろうか。
壊すことしかできない腕の中を、安らげる場所と信じて疑っていない。そんな柔らかな表情からは警戒心の欠片も窺えず、見ていると胸の奥がむず痒くなった。甘酸っぱいような、慣れない擽ったさが、ゆっくりと昇ってくる妙な感じがする。
万が一にも鱗の先を引っ掛けないように、なだらかな指の腹を使って頬を撫でた。俺よりも少し高めの体温が、柔らかさが心地いい。名を呼べないことは寂しいが、それでも傍に在る温もりを感じれば勝手に眦がゆるむ。変な態度は取っていないだろうか、俺の姿は彼から少しくらい良く見えているだろうか。わからないが、こちらを見上げた彼は嬉しそうに笑みを返してくれた。
彼は、ころころと表情を変える。初めこそ恐怖に染まっていたが、いつからか笑ったり戸惑ったりと様々な顔を見せてくれるようになった。それを見ていられる時間を、どうやら俺は好ましく感じているようだ。傍で楽しそうに笑ってくれる姿を何時までも見ていたくて、つい彼が喜びそうなものを買い込んでしまう。新しいものを見ると、きらきらと目を輝かせて笑うのが、今までみた何よりも美しいと思った。
未知の感情を少しばかり恐ろしく思いながらも手を伸ばすことを止められない。彼が触れた場所から熱が広がり、ドクドクと心臓を大きく波打たせる。すり、と胸に頬を擦り寄せられれば煩くないだろうかと不安になった。それなのに重なった部分から流れてくる体温を心地よく感じてしまうのだから、もう自分でも何がしたいのか分からない。
「 」
柔らかな声音が、俺を呼ぶ。言葉の意味は分からないが、紡がれる響きが心地よく感じられた。一心に此方を見上げてくる瞳はまっさらで、ただ親愛だけが込められているように思える。そこには、何者でもなかった頃の自分が映り込んでいるように見えた。
「……君を、呼んでも良いだろうか」
同じように、彼を呼べたらと思った。呼ばれるたび灯るような胸の暖かみを、俺からも渡せたらと。だが、なかなか良い呼び名が思いつかず、頭を撫でるだけになってしまう。それでも彼は気持ちが良さそうに、ゆったりと目を細めてくれた。
いつからか帰ることが楽しみになった。柔らかな微笑みに出迎えられると、小さく胸が弾む。親しげに寄せられる体温があたたかく、隣り合って手を握っているだけでも充分だと思えた。
……彼も、同じように思ってくれているだろうか。面白みもない、つまらない男の傍にいて退屈だと感じてはいないだろうか。
そんな不安も、彼と触れ合っていると解けていく。やわらかな感情は慣れないものだが、決して不快なものではなかった。むしろ、ずっと感じていたいと思うほどで、つい傍に居る彼を抱き寄せてしまう。そのたび彼はくすぐったそうに身じろいで、弾けるような明るい笑みを見せてくれた。
心臓が強く鳴り響き、血液が沸騰したように全身が熱を帯びる。激しい戦闘でもなることはあるが、それとは違うように思えた。彼といると、不可解なことばかりが身に起こる。それでも離れ難く思うのだから、もうどうしようもない。
隣り合うように寝転びながら頬に落ちてきた髪を、そっと耳に掛けてやる。加減を誤らないように慎重に抱き寄せれば、彼もまた自分から身を寄せてくれた。胸部に頬をくっつけて、屈託のない笑みを浮かべてみせる。黒の瞳が蕩けるような柔らかさで細められ、俺を映した。
その瞬間、ずっと理解できなかった感情の名前に気が付いてしまった。それは誤魔化しようがないほどに大きく膨れ上がっていて、もう他に意識を逸らすことができないと思えるくらい根付いていた。
「 」
動きを止めた俺を、不思議そうに黒い瞳が見つめてくる。柔らかな音に呼ばれ、そのとき自然と言葉が浮かんできた。本来の名には遠く及ばないかもしれないが、彼を呼ぶのにそれ以上のものはないと思えたのだ。
指で優しく頬を撫でれば、はにかむような笑みが返ってくる。応えるように優しく呼ばれ、心臓に熱が籠ったように全身があたたかくなった。衝動のまま引き寄せて、逃れられないように全ての腕を使って抱えこむ。そして、呟くように「すまない」と一つ溢した。
もう、彼のいない日々など考えられない。たとえ彼が拒んでも離してやれる気がしなかった。間違っていると分かっていても、この腕の中に閉じ込めていられたらと願ってしまう。もしも現れた時と同じように帰ってしまうことがあったとしても、せめてそれまでは留めて置きたいと思ってしまった。
彼の背に腕を回し、やわらかく、けれど決して逃げられないように四本の腕を絡めた。すべてを預けるような安心しきった表情に、ふっと眦が和らぐ。
「……俺の、ノワ」
それは、我ながら随分と穏やかな声だった。
青空に、雷鳴が轟いた。それから眩い光の尾を強く刻みつけながら星が落ちていく様を、多くの者が見上げていたのだ。それはこの世のものとは思えないほどに美しく、終わりを告げに来た彗星のようにも見えた。
遂に人間たちが信仰している勇者が召喚されたのかと、瞬く間に全体が混乱に包まれた。「見つけ次第、排除しろ」と、命を受けて急遽その場にいた部下たちを連れて現場に急いだところまでは問題はなかったはずだ。だが、これは一体どういうことなのか。
少年は想像よりも、とても小さく思えた。見慣れない衣服は無残に引き裂かれ、剥き出しとなった肌には大小さまざまな傷が刻まれている。怯えきった黒い瞳は潤み、逃れようと細い指が力なく地面を引っ掻いていた。それでも目を逸らせば殺されるとでも思っているのか、ぶつかった視線が外されることはない。
誰も覚えていない遥か昔から、人間と亜人は世界の覇権を争ってきた。互いの文献を突き合わせたところで都合の良いことしか書いておらず、最早どちらから始めたことかさえ今となっては分からない。長らく続く睨みあいに終わりは見えず、奪っては奪われて無意味に繰り返してきた。過去には友好関係を結んだこともあるそうだが、それも結局は長く続かず今に至る。国境付近の小競り合いなどは日常茶飯事で、数えるのも馬鹿々々しくなるほどだ。
そんな惰性のように続く現状を終わりに導くとされる勇者は強靭な肉体を持ち、その身一つで国を滅ぼせるほど卓越した存在であるとされていた。しかし、目の前の彼は細く脆そうで、武器を握ることすら出来るかどうか。
血を吐いたのか顎はべったりと赤く濡れ、地面の色をどす黒く変えるほどだ。対峙する意志を見せることもなく、ひたすらに怯えだけを浮かべる瞳が、あまりに想像と乖離していた。この態度が演技だとするのなら怒りを越えて称賛に値するだろうと思う程に、彼は青褪め、目視できるほどに大きく震えている。
殺気立つ部下たちを制し、気付けば手を伸ばしていた。抱き上げた身体は軽く、思わず目を見張る。彼は痛みを堪えるように眉を寄せたが、抵抗する気力も残っていないのかされるがままだ。
……細い首だ。武器を使わずとも、少し力を込めれば圧し折れそうなほど頼りない。触れた皮膚も柔く、爪が掠めただけで裂けてしまえそうだ。
あまりに弱々しい彼を一思いに殺める気にもなれず、かといって他の者に任せても碌な結果にならないことは容易く想像がついた。今でこそ優勢を保っているが、まだ多種族間で纏まりがなかった頃には人間側に押されていたことがある。その際に奴隷に貶められた者も多くいるため、人間に対して悪感情を抱く者は少なくない。怪我の具合からしても悠長に考えている余裕はなく、副官に上層部への報告を任せて、ひとまず手当てを施すことにした。震える彼は僅かばかりの抵抗すら出来ないほど弱り切っていて、自分には恐れるべき相手には見えなかったからだ。
「どういった心境の変化ですか」
治療を終えて、そう経たないうちに王であるロジェが訪ねてきた。壊すことしか能がない俺と違い、頭の切れる豹の獣人だ。勇者を連れ帰ったことで何か言われるだろうと考えてはいたが、まさか供も連れずに本人が来るとは思わなかった。しかし、誰が来ようと返す言葉は決まっている。「引き渡すつもりはない」と言い切ると、ロジェは動揺することなく、ただ少し困ったように肩を竦めた。
「……相変わらず自覚がないようですが、貴方は国の要です。人間共を退けた数々の功績から神聖視する者も多い。それこそ我々にとってはヴァンクール、貴方が人間共のいう勇者なのですよ」
やめてくれ、と言葉を遮りそうになる。間違っても俺は、万能な存在ではない。現に初めて人間に手を掛けたとき、大層な思想など持っていなかった。苦痛から逃れたい、飢えを満たしたい。根源的な欲求に突き動かされるまま殺して奪い、いつからか背には多くの者がいた。誰が呼び始めたのかヴァンクールという名が自分のものになり、称賛も罵倒も等しく浴びせられた。その中で護れたものもあれば、それ以上に取り溢したものが多くある。
「王位すらも拒んだ貴方が、よりによって何故そんなものを望むのですか」
「愚弄するような言い方は止せ。彼は誰一人として傷つけていない」
伝承通りの存在ならば、彼は異界から呼びだされたのだろう。元の世界での振る舞いなど知る由もないが、今はただ迷い込んでしまっただけの者に過ぎない。少なくとも現時点では敵と決めつけることは出来ない筈だ。
「彼の行動は、俺が責任を持とう」
俺の言葉にロジェは額に手を当てて、深々と溜息を吐いた。そして、ひどく苦々しいことを口にするように鼻に皺を寄せる。
「……かしこまりました。始末できないのであれば、貴方が見張っていることが最善でしょうね。私としては、不穏分子は早々に除いてしまった方が確実かと思いますが」
不愉快そうに細められた瞳が、部屋の奥へと伸ばされる。先にいる彼を見通そうとするかのように視線を、身体をずらすことで遮った。それに、ロジェは嘆くように目を伏せる。
「残念でなりませんよ。貴方が自ら望むこと……それが勇者などでなければ、共に喜びたいところでしたがね」
しなやかな尾を揺らし、ロジェは去っていった。落胆の滲む背を見送り、俺もまた踵を返す。民を守ることを最優先に考えるのであれば、ロジェの言い分が正しいのだろう。そうと頭では理解していても尚、彼を差しだすことは出来なかった。縋るように潤んだ瞳が、未だに網膜にこびりついて離れない。
意識を切り替えるように足を早め、眠る彼の傍に膝をついた。今にも途切れそうな細い息遣いに布を捲れば、浅く上下する胸の動きが見て取れて息をつく。
「……勇者か」
彼は、どんな人間なのだろう。叶うならば、敵対することがなければいい。
熱く火照った額に手の甲を添えると、ふっと表情がゆるんだ。あどけない寝顔に、こちらの緊張まで解けてしまう。今はただ早く元気になるようにと、そっと頭を撫でた。
前々から何となく察してはいたが、どうやら俺の顔は怖いらしい。目が合っただけでブルブルと音が響きそうなほど震える彼を前に、そんなことを再確認する。不用意に怯えさせるのは気が引けるが、日常生活に必要なことは抜くことができない。幸い、震えはするものの抵抗はしないので、爪を立てないように慎重に触れていた。力を込め過ぎないように「優しく」と何度も反芻させながら脇の下に手を入れ、ゆっくりと緩慢な動作で立ち上がる。互いに怯えている姿は、傍目から見れば滑稽に映るかもしれない。
「すまない。嫌だろうが、せっかく傷も治ってきたんだ。悪化しないように洗った方がいい」
潰さないように指先まで意識を集中させ、わしゃわしゃと髪を泡立てる。彼は小さな身体を更に縮めてされるがままだ。細い身体には召喚されたときに出来たと思われる裂傷こそあるが、戦士であるならば当然あるだろう古傷などは見られない。
本来の世界では、穏やかに暮らしていたのだろうか。少なくとも怪我を負うような状況に置かれていなかったことは確かだ。……この想像が正しいのであれば、ここでの扱いは恐怖でしかないだろう。意味も分からず敵意を向けられ、犯してもいない罪を責められる。
鏡に映る、少年を見た。まだ幼さの残る顔立ちも相まって、震える彼は余計に小さく映る。その恐怖を取り除いてやりたいと思いながらも、どうしたら怯えさせずに済むのか全く見当がつかなかった。言葉による意思疎通すら難しく、自分の表情の硬さもあって活路が見出せない。
今日も結局、何をすればいいのか掴めないまま時間だけが過ぎて行く。悶々と悩んでいるうちに、普段は青褪めた頬が真っ赤に染まっていることに気が付いた。慌てて湯船から抱き上げて、小刻みに震える彼の頭に布を被せる。力加減が難しく、殆ど浮かせるようにしてぽんぽんと軽く押しつけた。彼は俺が知る人間よりも遥かに小柄に思えて、指先まで気を張っているせいか攣りそうになる。
「……大丈夫、大丈夫だ。何があっても俺が君を守ろう」
何故、これほどまでに彼が気になるのか。勇者だから、怪我をしていたから。当然それもあるだろうが、それだけでは説明できない何かが胸にある。得体の知れない奇妙な温かみが感じられて、その正体を確かめるように彼を見た。少年は戸惑ったように少しだけ此方を見上げて、けれど直ぐに逸らしてしまった。
勇者である彼を取り戻そうとしているのか国境付近が騒がしくなり、間を置かずして各地に飛び回っては前線を押し返す。ひとりにするのは心配だったが危険がある場所に連れていくわけにも行かず、外から警備をするように頼んでから出て行くことが増えた。慌ただしく過ごして行く中で、少しずつではあるが彼の震えも治まってきた。最近では寝室から出て背を見送ってくれるようにまでなったのだ。手を伸ばしても身を竦ませることがなくなり、かすかに目を細めて受け入れてくれる彼を見ていると、奇妙な違和感が段々と増していくのが分かる。けれど、それは何処か心地よくも感じられて、彼に触れることを止められない。
「 」
彼の言葉を正しく理解することは出来ないが、優しい音の響きを、和らいだ表情を見せてくれる瞬間を、俺は嬉しく感じているようだった。ふわふわと浮かぶような柔らかな感情は慣れないもので、どう扱って良いのか不安になることもある。けれど、それも彼に触れていると直ぐに薄れていった。トクトクと俺よりも小さく鳴る心音と触れたところから伝わってくる温かさに、意識もせず目元が緩む。
俺は今、どんな顔をしているのだろう。変に思われてはいないだろうか。
抱き上げた微かな重みに目をやれば、それに気付いた彼は此方を見てくれた。黒い瞳が柔らかく細められるのを確認すると、急激に体温が上昇し、心拍数が増す。不可解な変化に戸惑いながらも切り捨てることは考えられず、むしろ今の日々を手放し難く感じるのは何故なのだろう。
丸みを帯びた頬を撫でると、彼はくすぐったそうに小さく笑い声を溢す。たったそれだけのことで跳ねる心臓に戸惑いはするが、やはり離れる気にはならなかった。
「……俺の言葉が分かるだろうか」
小さな頭を傾け、不思議そうに此方を見上げてくる。それに自然と笑みが浮かぶのを自覚しつつ、少しでも聞き取りやすいようにゆっくりと言葉を繋げていく。
「皆からはヴァンクールと呼ばれている。ヴァンクール、だ」
少しも聞き逃すまいと、真剣な眼差しが此方を見つめている。だが、やはり彼にとっては耳馴染みのない言葉のようで、なかなか発音するのは難しいようだった。お返しとばかりに彼も小さな唇をぱくぱくと大きく動かしてくれたものの、俺もまた彼の名を捉えることができない。世界が違うのであれば仕方がないことと諦めながらも、彼の名を口に出来ないことが妙に寂しかった。不可解な感情が胸の底にわだかまり、それを誤魔化すように緩く腕に力を込める。あたたかく、やわらかい。この腕で肉を貫いたことはあっても、こうして誰かを抱き締めたのは初めてかもしれない。他人の熱がこれほど気持ちが良いものだとは知らなかった、それとも彼だからこそ穏やかな心地になれるのだろうか。
壊すことしかできない腕の中を、安らげる場所と信じて疑っていない。そんな柔らかな表情からは警戒心の欠片も窺えず、見ていると胸の奥がむず痒くなった。甘酸っぱいような、慣れない擽ったさが、ゆっくりと昇ってくる妙な感じがする。
万が一にも鱗の先を引っ掛けないように、なだらかな指の腹を使って頬を撫でた。俺よりも少し高めの体温が、柔らかさが心地いい。名を呼べないことは寂しいが、それでも傍に在る温もりを感じれば勝手に眦がゆるむ。変な態度は取っていないだろうか、俺の姿は彼から少しくらい良く見えているだろうか。わからないが、こちらを見上げた彼は嬉しそうに笑みを返してくれた。
彼は、ころころと表情を変える。初めこそ恐怖に染まっていたが、いつからか笑ったり戸惑ったりと様々な顔を見せてくれるようになった。それを見ていられる時間を、どうやら俺は好ましく感じているようだ。傍で楽しそうに笑ってくれる姿を何時までも見ていたくて、つい彼が喜びそうなものを買い込んでしまう。新しいものを見ると、きらきらと目を輝かせて笑うのが、今までみた何よりも美しいと思った。
未知の感情を少しばかり恐ろしく思いながらも手を伸ばすことを止められない。彼が触れた場所から熱が広がり、ドクドクと心臓を大きく波打たせる。すり、と胸に頬を擦り寄せられれば煩くないだろうかと不安になった。それなのに重なった部分から流れてくる体温を心地よく感じてしまうのだから、もう自分でも何がしたいのか分からない。
「 」
柔らかな声音が、俺を呼ぶ。言葉の意味は分からないが、紡がれる響きが心地よく感じられた。一心に此方を見上げてくる瞳はまっさらで、ただ親愛だけが込められているように思える。そこには、何者でもなかった頃の自分が映り込んでいるように見えた。
「……君を、呼んでも良いだろうか」
同じように、彼を呼べたらと思った。呼ばれるたび灯るような胸の暖かみを、俺からも渡せたらと。だが、なかなか良い呼び名が思いつかず、頭を撫でるだけになってしまう。それでも彼は気持ちが良さそうに、ゆったりと目を細めてくれた。
いつからか帰ることが楽しみになった。柔らかな微笑みに出迎えられると、小さく胸が弾む。親しげに寄せられる体温があたたかく、隣り合って手を握っているだけでも充分だと思えた。
……彼も、同じように思ってくれているだろうか。面白みもない、つまらない男の傍にいて退屈だと感じてはいないだろうか。
そんな不安も、彼と触れ合っていると解けていく。やわらかな感情は慣れないものだが、決して不快なものではなかった。むしろ、ずっと感じていたいと思うほどで、つい傍に居る彼を抱き寄せてしまう。そのたび彼はくすぐったそうに身じろいで、弾けるような明るい笑みを見せてくれた。
心臓が強く鳴り響き、血液が沸騰したように全身が熱を帯びる。激しい戦闘でもなることはあるが、それとは違うように思えた。彼といると、不可解なことばかりが身に起こる。それでも離れ難く思うのだから、もうどうしようもない。
隣り合うように寝転びながら頬に落ちてきた髪を、そっと耳に掛けてやる。加減を誤らないように慎重に抱き寄せれば、彼もまた自分から身を寄せてくれた。胸部に頬をくっつけて、屈託のない笑みを浮かべてみせる。黒の瞳が蕩けるような柔らかさで細められ、俺を映した。
その瞬間、ずっと理解できなかった感情の名前に気が付いてしまった。それは誤魔化しようがないほどに大きく膨れ上がっていて、もう他に意識を逸らすことができないと思えるくらい根付いていた。
「 」
動きを止めた俺を、不思議そうに黒い瞳が見つめてくる。柔らかな音に呼ばれ、そのとき自然と言葉が浮かんできた。本来の名には遠く及ばないかもしれないが、彼を呼ぶのにそれ以上のものはないと思えたのだ。
指で優しく頬を撫でれば、はにかむような笑みが返ってくる。応えるように優しく呼ばれ、心臓に熱が籠ったように全身があたたかくなった。衝動のまま引き寄せて、逃れられないように全ての腕を使って抱えこむ。そして、呟くように「すまない」と一つ溢した。
もう、彼のいない日々など考えられない。たとえ彼が拒んでも離してやれる気がしなかった。間違っていると分かっていても、この腕の中に閉じ込めていられたらと願ってしまう。もしも現れた時と同じように帰ってしまうことがあったとしても、せめてそれまでは留めて置きたいと思ってしまった。
彼の背に腕を回し、やわらかく、けれど決して逃げられないように四本の腕を絡めた。すべてを預けるような安心しきった表情に、ふっと眦が和らぐ。
「……俺の、ノワ」
それは、我ながら随分と穏やかな声だった。
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目つきの悪い野良猫が飼い猫になって目きゅるんきゅるんの愛される存在になる感じで読んでください。
お話をうまく書けるようになったら続きを書いてみたいなって。
京也は総受け。

獣のような男が入浴しているところに落っこちた結果
ひづき
BL
異界に落ちたら、獣のような男が入浴しているところだった。
そのまま美味しく頂かれて、流されるまま愛でられる。
2023/04/06 後日談追加

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました
まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。
性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。
(ムーンライトノベルにも掲載しています)

「今夜は、ずっと繋がっていたい」というから頷いた結果。
猫宮乾
BL
異世界転移(転生)したワタルが現地の魔術師ユーグと恋人になって、致しているお話です。9割性描写です。※自サイトからの転載です。サイトにこの二人が付き合うまでが置いてありますが、こちら単独でご覧頂けます。
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