僕の英雄の物語

和泉茉樹

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     二

 僕は六時に起きた。
 朝食を作り、配ぜんする前に、洗濯ものを持って部屋を出た。
 朝の空気に初夏の気配があるな、と思いながら、地上へ降りて、アパートの裏にある洗濯機置き場に向かう。
 アパートは四部屋あるが、今は二階の二部屋にだけ住人がいる。しかし、僕の隣人は、滅多に帰ってこないし、僕もあまりよくは知らない。
 だから、洗濯機置き場にあるのは僕の洗濯機だけだった。全自動洗濯機を覆っているビニールシートを外し、洗濯ものを放り込んで、洗濯を開始させる。
 部屋に戻ると、アオが布団の上で上体を起こしていた。時計を見ると、七時を少し過ぎている。
 アオの生活は規則的だ。毎朝七時に起き、夕方六時に眠る。
 はっきり言って寝過ぎだ。
 でも、僕には大して害もないので、何も言わないでいる。
「アオ、ご飯にしよう」
 僕が声をかけても、返事はない。
 低血圧なのか、彼の寝ざめの鈍さは筋金入りだった。
 僕は部屋の隅に立てかけておいたちゃぶ台を元に戻し、そこへ食器を運んだ。すでに料理は盛ってあった。
 配ぜんが済んだ頃に、やっとアオが僕を認識し始めた。
「おはよう、凪」
「うん、おはよう」
 アオの声は明瞭だったが、しかし、瞳は薄ぼんやりしていた。
 僕が目の前に置いた茶碗を手に取ると、箸でゆっくりとそれを口へ運び始めた。僕とアオの間では「いただきます」と「ごちそうさま」は存在しない。僕がそういうのは嫌いだからだ。
 二人で朝食を食べている時間は、やたら静かだった。
 部屋の隅には、古いブラウン管のテレビがあって、今でも現役だ。だけど、僕はあまりテレビは見ない。
 アオはテレビが苦手、というか、拒否している。
 なので、食卓はやたら静かだった。
 僕は味噌汁をすすり、小さく息を吐く。
 こういう時に、平和、というものを強く感じる。
 アオの方を見ると、彼はこちらをじっと見ていた。
「なんだよ、アオ」
 僕が問うと、彼は困ったような顔になり、
「なんでもないよ」
 と、言った。
 何でもないわけはないだろう、と思ったけど、僕は「あ、そう」とだけ返した。
 僕はもう一年近く、アオと一緒にいる。何度も一緒に食事をし、この一部屋しかないアパートの一室で、すぐ隣で寝てきた。言葉だって何度も交わしてきた。
 それでも、僕はアオの何を知っているのか、自信を持って知っていると言えることがあるのか、それは分からない。
 アオが生きてきた時間の長さや、彼の感じてきた世界を、僕はどうやっても理解できない気がする。
 その理解できない領域が、さっきの「なんでもないよ」の奥に、感じられる。
 なんでもないわけはない、何かがしっかりとあるのに。
 それを僕は、理解できない。
「どうした? 凪」
 いつの間にか手が停まっていた。アオが不思議そうにこちらを見ている。
「なんでも、ない」
 アオと同じ言葉を返しながら、アオは僕の考えを理解することが出来るのか、いや、出来るだろうな、と思っていた。
 食卓に並べた皿がほとんど空になった頃、窓の方から何か、小さな音が聞こえた。
 アオは気付かないのか、たくあんをのんびりと齧っていた。
 視線を窓に向けると、そこに猫がいる。ベランダのようなスペースはない。用途の分からない、たぶん飾りの足場のようなものがあって、そこに猫は引っかかるようにしていて、爪で窓ガラスをひっかいていた。
 なぜ、猫が?
 突拍子もないので、僕の思考がそこで停止する。
「ほっといて良いぞ」
 見もせずにアオがそう言ったので、やっと僕の頭が回り始めた。
「ほっとけないよ。その……危ないし」
 混乱が去らないまま、僕は立ち上がると、窓を開けて猫を室内に入れる。猫は何度も鳴きながら、僕の周りをうろうろして、首筋を脚にすりつけてくる。
 可愛いが、しかし、何か違和感がある。
「そいつ」
 アオが僕の方をニヤニヤと笑いながら見て、言う。
「その猫、ササラだぞ」
「……え?」
 また僕の思考が停止する。
「なんだ、つまらないことをするな、アオよ」
 猫が突然、人語を喋り、僕から離れて、ちゃぶ台の横へ行く。
 その猫の輪郭が滲んだかと思うと、それが膨れ上がり、色も黒一色から様々色が生まれて行く。
 あっという間に、そこにはどこかの学校の制服を着た少女が出現した。
 彼女の名前は、ササラ。
 正真正銘の、『悪魔』である。
 ただ、前に僕の前に現れた時は、もちろん猫の姿ではなかったし、年齢も今の姿より三十は上といった感じだった。風貌には共通点がある。
「こんな朝から、何の用だ? ササラ」
 まだたくあんを食べながら、アオが落ち着いた口調で聞く。ササラは、「凪くん、お茶、もらえる?」とまず言って、それからアオに向き直った。
「アオ、私との契約を忘れたわけじゃあるまい?」
 僕は居間と繋がっている簡単な台所で、水を少量、やかんで沸かしながら、背中で二人の会話を聞く。
「そんなもの、何でもないさ。俺を縛れるものはこの世にはない」
 不敵なアオに、ササラも不敵に答える。
「お前の全てを私が取りあげるとしても、そう言えるか?」
「そんなこと、出来ると思っているのか?」
 二人が黙り、その静けさの中で、まだアオが食べているのだろうたくあんをかみ砕く音がやけに大きく聞こえた。
 お湯が沸いたので、僕は急須でお茶を淹れ、湯のみでササラの前へ持っていった。
 ササラは「ありがと」と言うと、お茶を飲み、すぐに口を離す。
「猫だけに、猫舌か」
 アオがそう言って、笑みを浮かべる。ササラは鼻を鳴らし、
「くだらないことを言っていると、危ないよ」
 と、返す。アオは無言で、たくあんを口に運んでいた。
 ササラがこちらを見て、
「一昨日の夜の襲撃、大丈夫だった?」
 と、聞いてくる。
 アオが即座に「大丈夫じゃなかったらここで呑気に飯なんか食えんな」と言い、僕も、「だね」と付け加える。ササラだって、分かりきっていて、聞いたはずだ。
「もう分かっていると思うけど、凪くんを狙う集団がいる」
 またか、というのが、僕の思いだった。
 三か月前、まだ春になるかならないかの頃にも、今と似たような状況はあった。それは主にアオの手によって、打破された。
「相手は大人数ですか? 悪魔ですか? 人間ですか?」
 僕の確認に、ササラが頷く。
「両方。イメージとしては、いくつかの組織が関わって、その一部が集団を形成している。人数は不明だけど、多くはないね」
「それでも、アオや、匠子さん、ササラさんの力でも、対抗できないほど?」
 それは分からない、とササラは言った。
「でも、油断は良くない」
「悪魔らしい言葉だな」
 アオが僕より先にそう言った。
「まぁ、お前は『反動の悪魔』だが」
「『背命者』のハイエンドがよく言う」
 アオとササラはお互いに顔を合わせずに言葉を交わすので、なんとも雰囲気が悪い。特に、ササラには僕の発言じゃないのに、僕を睨みつけるのは、やめてほしい。
「と、とりあえず」
 無言になると空気の取り返しがつかない、と判断し、回避策として僕はササラに言った。
「身辺には、気をつけます。ご指摘、ありがとうございます」
「凪くん」
 ササラの口調が改まった。その声に含まれた緊張感に、思わず背筋が伸びる。
「私の心配、分かってる? 私だけじゃなくて、匠子さんも、凪くんを心配していると思う」
「はい、分かってます」
 ササラの言葉は、ちゃんと分かっている。ササラの考えや匠子の思いも、分かっているつもりだ。
 でも僕には、それをどうしたら良いのかが、分からない。
 彼女たちに全部を任せて、言う通りにするのは不可能ではない。けれど、そうすることで、僕はどこへ行くのだろう。
「ササラよ」
 アオが箸を噛みながら、言った。
「凪には俺がついている、それで良いじゃないか」
 ササラはアオをちらりと見ると、僕に、
「洗濯もの、終わったようよ」
 と言った。
 突然、話が変わっていて、脈絡がない。
 それは、僕をこの部屋から離れさせたい、ということか。
 僕は「では、すみませんが」と立ち上がり、サンダルを引っ掛けて部屋を出た。
 これから、二人はどんな話をするのだろう。

     ◆

「さて」
 俺は噛んでいた箸を口から離し、ちゃぶ台の上の空いている皿に、口の中に溜まっていた、箸のかすを吐きだした。
 口を開いた俺より先に、ササラが言う。
「あなたと契約して、もう何年になるかしら。あなた、覚えていて?」
「忘れたな、もう数えるのもやめた」
「第二次人魔大戦から、もう六十年、いや、七十年以上、経っているのよ。あの地獄から、もう長い時間が流れたわ」
 人間の生などとっくに終わっている時間だな、と俺は思っていた。
「その長い時間を、全く老いもせずに生きているあなたが、どうしてあんな魔法使いでもない、背命者でもない、人間と、一緒にいるの?」
「それは愚問だな」
 唇が笑みの形を作るのを、俺は止められなかった。
「悪魔の中でも最上位に近い『白銀』の位階に位置するお前が、凪の本質に気付かないわけがない。俺がここにいる理由は、お前がここにいる理由と同じだよ」
 ササラは苦りきった顔になると、まったく、と息を吐きながら言う。
「最初に出会った頃は、あなたにももっと可愛げがあったものだけど」
「お前は変わらないな。姿はコロコロ変わるくせに、中身は揺らがない。いつでも人間の味方をしようとする不思議な奴だよ」
「本当に、まったく、その通り」
 ササラが立ち上がると、そのまま部屋を出て行こうとする。
「ササラ」
 俺の呼びかけに、彼女が振りむかなかったことはない。
 今も、彼女はドアを開けた動きを止めて、こちらを見た。
「感謝している。また、協力してくれ。そして、凪を頼む」
「俺がいるから大丈夫だ、って言ったのは、誰だったかしらね」
 ササラの皮肉に、俺は首を傾げてとぼけてみせた。それに対して、ササラはため息をまた吐くと、小声で、「歳を取るとため息が増えていけないわ」と呟き、こちらを一直線に見た。
「心配無用、よ。じゃあね」
 今度こそ、ササラは部屋を出ていった。
 それを見送ってから、俺はおもむろにたくあんに箸を伸ばそうとし、すでに皿が空になっているのに気付いた。箸の先が削れているのも見えてしまった。箸のそれぞれの長さが違う。
 これは凪に叱られるな、と思いながら、口元に箸を持っていこうとしている自分に呆れつつ、とりあえず、箸を置いた。

     ◆

 洗濯機置き場でしばらくぼんやりしていた僕は、二階から何かが降りてきたので、それをこっそりと盗み見た。
 猫だった。黒猫だ。
 人に化けられるのに、猫の姿で去るとは、悪魔の考えることは分からないな。
 脱水が終わった衣服を持って、二階へ上がる。
 部屋の真ん中で、朝日が差し込む中に座りこんだアオが、窓の外を眺めている。
 まるで、長い歳月を生きた古木のような、静けさが発散されていた。
 それは、アオが僕に気付いた瞬間で、消える。
「ササラは帰った」
「うん、知ってる」
 僕はハンガーを手に取ると窓に向かい、開いて、洗濯ものを干していく。
 作業を続けながら、アオの気配を察しようとするが、うまくいかなかった。
「凪」
 アオから話しかけてきたので、次の続く言葉で、僕の心が見透かされたと指摘されるのでは、と驚きの中で思った。
 強く打った鼓動を誤魔化すように、僕は静かにアオを見る。
 しかし、アオにも心は読めなかったようだ。
「箸を……」
「……箸?」
「ダメにしちゃった」
 視線をまっすぐに合わせて、アオがそう言って、箸を僕に見せてくる。
「何膳目だよ!」
 反射的に声が出ていた。
「仕方ないだろ」アオが申し訳なさそうに言う。「癖なんだ」
「それ、ゴミ箱に捨てといて。新しい奴、買ってくる」
 悪いね、とアオが応じる。
 今度から金属製の串を二本買って、それをアオの箸にしてやろうか。
 洗濯物を干す作業を再開しつつ、ササラの話を思い返し、しかしアオの言動のせいか、うまく状況を俯瞰することは出来なかった。
 アオがいれば、なんとかなる。
 それは、どんな状況でもアオが変わらないこと、アオは変わらないだろうことが、僕の安心になっている。
 それが僕をここに縛り付けていて、遠くが見えないのだ。
 でも代わりに僕は、ここにしっかりと立てる。
 洗濯物を干し終わると、アオがちゃぶ台の上を片付け終えていて、畳の上に大の字になって倒れていた。
 僕は身だしなみを整えてから、その脇で制服に着替え、通学かばんを持ち上げた。
「じゃあ、アオ、行ってくるよ。留守番、よろしく。お昼はおにぎりを冷蔵庫に入れておいた」
「おう」
 アオは畳に寝転がったまま、小さな声でそう言って、しかしそれ以上は何も言わないし、こちらを見もしなかった。
 部屋を出て、階段で地上に降りた。
 バス停までの道を歩きながら、若干の緊張と、いつも通りの心が同居しているのを感じる。
 案ずるより産むが易し、か。
 僕はいつも通りを意識しながら、心持、背筋を伸ばして、堂々と歩いた。

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