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第17章

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     十七

「こんなところで、何をしているのですか?」
 僕は木にもたれて、遠くの山を見ていた。
 戦場からも首都からも遠く離れた、辺境の湖畔だった。湖では釣りをしている老人が数人、見える。
 僕は声の方を見る。すぐ横に、軍服の男が立っている。
「あぁ、シグナルか」
 僕は立ち上がり、敬礼する。
「シグナル人類軍司令官に、敬礼」
「やめてください、剣聖様」
 シグナルが慌てて僕の手を下げさせる。僕は苦笑いしたが、仮面で見えなかっただろう。
「剣聖と言っても、ただの退役軍人だよ」
 そう言いながら、僕はシグナルとともに質素な我が家へと歩き出した。
 剣聖を授与されて数年で、僕は軍を辞めた。
 子供の時も、戦場に出た時も、死ぬことはあっても、軍を辞める自分がいるなど、想像していなかった。だから、軍を離れて、この田舎へ引っ込んだ時は、あまりの長閑さに罪悪感があるほどだった。
 悪魔は今や大きく力を削がれ、人類軍は完全に抑え込んでいると聞いていた。悪魔の出現も、落ち着いている。
 シグナルは人類軍の司令官を僕の次に受け、すでに数年、その職を務めている。世間では英雄の一人である。
 近いうちに首都に招かれ、軍全体に影響力を持つようになる、という噂も聞いた。
 我が家へ戻ると、微かな喧騒が聞こえてきた。叫び声のようにも聞こえる。
「まだやっているのですか?」
「僕はやってない。場所を貸しているだけだ」
 シグナルが気になるようだったので、僕は彼を母屋の裏にある道場へ連れて行った。
 そこでは剣術の稽古に励む村人の若者が数人、動き回っていた。一人が率先して指導している。ラルクという名前で、僕が軍を辞めるとき、一緒についてきた若い兵士の一人だった。
 ラルクは僕たちに気づかず、村人の動きを正している。
 そっと母屋に戻り、僕は自らお茶を淹れ、シグナルに差し出した。窓際の椅子で向き合って座る。
「村人に剣を教えて、どうするのですか?」
 シグナルが穏やかな声で言う。軍人とは思えないほど、落ち着いていた。
「弟子を欲しがるような人には見えませんでしたが」
「弟子ではないよ。本当に、ただ、場所を貸しているだけ」
 少しの間、シグナルは僕に視線を注いでいたが、僕は気づかぬふりでお茶の入ったカップに唇をつけた。しばらくの無言。
「剣聖という地位を」シグナルは話題を変えたようだった。「弱めたいのですね」
「剣聖は、称号であって、権威ではない」
 ふむ、とシグナルが頷き、しかし、とすぐに応じた。
「しかし、あなたの剣の腕は、未だに衰えていないでしょう?」
「そんなことはない、現役ではないしね。剣を持たない日も多い」
「軍を辞め、隠遁し、剣聖の称号をそのまま埋もれさせる。そういう意図ではないですか?」
 僕は仮面の奥から、シグナルを見据えた。
「剣聖の位が欲しいものがいるなら、譲るさ。いるのかな?」
 シグナルが大げさにため息を吐いた。
「残念ながら、あなた以上に剣が冴える兵士は、今のところ、いません」
「いつでも適任者が現れたら、ここに来てそう言ってくれ。いつでも譲るつもりだ」
 シグナルは、大きく頷き返した。
 しばらく雑談をして、シグナルは去っていった。
 彼を見送ってから、僕は道場へ行く。そこではラルクが一人で稽古していた。
「さあ」僕は道場に進み出る。「やるとしようか」
 ラルクが姿勢を正す。その間に僕は木刀を手に取り、彼と向かい合った。ラルクも木刀を構えた。
 それからしばらく、二人だけで稽古をした。村人が全員帰って、日が暮れてから、僕はラルクに稽古をつけている。休みはほとんどない。
 だが、ラルクの剣は僕には到底及ばない。何度も打たれ、倒れる。立ち上がり、また打たれ、倒れる。
 徐々に力量が上がっているのはわかる。しかしまだまだ、足りない。
 ラルクが帰ってから、僕は母屋に戻り、体を洗った。斑らに黒に染まった体は、不自然で、非人間的だ。
 着替えをして、寝室に入る。
 いつもの癖で、そこに置いてある二本の剣の位置を確認した。
 もう必要としないはずなのに、それがあると安心する。剣があることが普通になっている自分が、どこかおかしく、これもまた不自然に思える。
 寝室の窓から月を見て、考えていた。
 これからの世界に必要なものは何なのか。
 悪魔の脅威は問題にならなくなった。連合王国の国内も安定し始めた。軍と政府の間も良好だ。他国とも有利に国を運営していると言える。
 つまり、何の問題もない。全くの平和が、訪れつつある。
 平和というものが、僕には理解できないようだった。戦いがない状態、ということなのかもしれないが、戦いがない状態がいつまでも続くとは思えない。
 いつかまた、争いが起こる。
 なら戦うための力を、全て拒否することは正しくないのではないか。
 力を、戦い方を、伝えていく必要がある。
 戦う力を知らぬ間に喪失しては、平和と呼ばれるものを誰も守れない。
 しかし、そもそも、平和とはなんだろう。
 戦いがないことか? 争いがないことか? 誰も何も主張しないことか?
 それらが永遠になくなれば、確かに平和、全くの平穏がやってくるかもしれない。
 でもやはり、そんな世界になるとは、思えなかった。
 僕が今考えているのは、軍人を育成する学校のようなものを作ることだった。
 連合王国が運営する軍学校はある。そことは違う、別の視点を持った軍人を育成できないだろうか、と僕は考えている。
 大勢の人間が、全く同じ方向を見て、全く同じように感じ、全く同じことしか考えない、ということが危険に思えるのだ。
 多様性が僕には必要に思えた。
 シグナルに働きかければ、おそらく、考えてくれるだろう。そのことは何度も考えた。
 ただ、今のシグナルは、僕も部下ではない。彼には彼の立場があり、しがらみがあるはずだ。無理をさせたくなかった。
 同時に、僕のことが彼の重荷にならないことも、僕の願いである。
 このジレンマは、最近の僕の唯一の悩みと言えた。
 その日は早めに眠り、翌日も昼間は、湖畔の木の根元に腰を下ろし、木に背中を預け、湖水のきらめきを眺めていた。
 数日後に、ラルクの軍人時代の仲間たちがまとまって訪ねてきた。
 僕のことを「鬼の剣聖」などと呼んだのも最初だけで、すぐに「剣聖様」と改まった呼び方になり、さらに時間が過ぎて軍を辞めたら、彼らは最初に呼んでいた「剣鬼様」という名称で呼んでくる。
 彼らは保存が利く食料と酒を大量に持参していた。ほとんどがまだ軍人で、前線にいるものが数人、後方に配属されているのが数人。一部は商人の私兵になったりしている。
 一番、嬉しいのは食料や酒ではなく、情報だ。気にしないでいるつもりでも、ついつい彼らに色々と質問してしまう。
 話を聞いても、気を引かれることはそれほど多くない。政府が軍を完全にコントロールしていることに感心する程度だ。有能な政治家がいつの間にか正当に力を持ったようだ。
 彼らは一晩中、騒いで、昔を懐かしみ、明け方にバタバタと去っていく。後片付けをラルクと共にして、別れる。
 昼過ぎに、また僕は湖畔へ行った。
 釣りに来ていた老人が歩み寄ってきた。
「ラグーンさん」老人たちは僕を恐れない。「何を見ているのかな?」
「いえ、何も見ていないのです」
「遠くを見ておられる」
 老人が僕の横に腰を下ろした。老人が疲れたのか、大きく息を吐いた。
「あなたは鳥のようですな」
 そんなことを言う。
「どういう意味でしょうか?」
「あの鳥です。なんていうのかな」
 老人が指さした方を見ると、緩やかな弧を描いてゆっくりと空を飛んでいる鳥がいる。遠いが、かなり大きように見えた。
 鷹か、鷲だろうか。
「あの鳥が、僕とどう似ているのでしょうか?」
「あの鳥は、たまにこう、矢のような速さで地面に向かって飛ぶんだが、舞い上がった時には、大抵、獲物を掴んでいる」
 老人は鳥の方を見て喋っていた。
「あの鳥の目は、常に獲物を探しているのです」
「……僕が、何かを探している、ということですか?」
「そうだね」
 老人がこちらを見る。やはり、平然とこちらを見ている。
「ラグーンさんは、常に、身構えている、というかね。違うかな」
「そうかもしれませんね」
 反射的に苦笑して、そう答えていた。老人は笑い声をあげると、持っていた網カゴをこちらへ渡してくる。
「今日、釣った魚だ。帰って、弟子たちに食べさせると良い。美味いぞ」
「ありがとうございます」
 僕は頭を下げて、受け取った。老人は、カゴはまた返しておくれよ、と言って、立ち上がると、去って行った。
 僕はしばらく湖に視線を向けたまま、考えていた。
 その日の夜、僕はラルクを呼んで魚を食べながら、色々と相談した。まるで昔、トールと相談したり、シグナル、スカルス、タンク、シッラと相談した時のようだった。懐かしく、少し切ないが、どうにか押し込めた。
 それから半年後、僕は生活している田舎町に、小さな塾を立ち上げた。
 剣だけを教えるわけでも、兵法だけを教えるわけでもない。経済や政治、農耕法に至るまで、様々なことを教える私塾だ。
 塾生は誰でも歓迎した。特に募集したわけではないが、僕が塾を開いたことを聞いたラルクの仲間たちが、有望と見た知り合いの子弟の中で、僕の塾であることを保護者が了解しているという条件で、生徒を送ってきた。
 最初の塾生の数は八人。十代の若者たちだ。
 村を形成している数軒の人家に、塾生たちは居候として分かれて生活した。そのため塾は午後からで、午前中はそれぞれの家の仕事を手伝う。川や湖に釣りに行く者、畑を耕す者、山へ木を切りに行く者、様々だ。
 そして、僕の塾には、名前はなかった。僕が名前をつけないと決めたのだ。ただ、塾、と塾生は呼んだ。
 僕は、先生、と呼ばれることになった。


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