サクリファイス -とある戦いの記録-

和泉茉樹

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第16章

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     十六

 崖っぷちともいえる人類軍は、悪魔の軍勢を押し戻した。
 人類軍の防御陣地はほとんど奪われていたから、大勢は決しているようなものだった。休みなく続く悪魔の攻撃を丸一日以上、封じ続けたものの、もはや限界だった。
 しかしそこへ最終守備隊と複数の軍団からの援軍が到着した。
 ほとんど同時に、悪魔の統制が乱れた。そこが人類軍にとって最後の勝機だった。
 人類軍とその援軍は全力で悪魔に抵抗し、やがて悪魔は退き始めた。
 さらに丸一日の攻防の後、悪魔軍は大きく後退した。
 僕が救出されたのも、その時だった。僕はその時のことを覚えていない。立ったまま、剣を構えて、気を失っていたらしい。
 意識がはっきりした時、そこは医療用テントの中で、何度も眺めた天井を、やっぱり見上げていた。
 どうやら生きているらしい。
 看護師がやってきて、何か言ったけれど、僕には聞こえなかった。いや、声どころか、周りの音も聞こえない。僕は腕をどうにか動かし、自分の耳に触れて見せた。
 少しすると見たこともない軍医がやってきて、僕の耳が不調なのを確認し、筆談で状況を教えてくれた。
 人類軍が悪魔軍を打ち破って、一週間が過ぎていた。僕はそれだけ寝ていたのだ。
 人類軍は快進撃を続け、一度は奪われた防衛陣地まで悪魔を押しやり、そこを奪取したという。司令官代行としてシグナルが指揮しているらしい。
 僕は軍医に視線で訴え、意思は通じたようだった。
 軍医は紙に書いた。
 スカルスはシグナルを補助している。
 シッラは、戦死した。
 僕は目を閉じ、小さく頷いた。それしかできなかった。
 それから数日、僕は薬を飲んで、ひたすら眠っていた。ある日、突然に聴力が戻った。声も出るようになった。不思議なことである。
 僕はベッドの上で身を起こし、周囲を見た。医療用テントの中はベッドでいっぱいで、その全てを使っても足りず、負傷兵が床のシートの上にも臥せっている。
 僕はベッドを降りた。久しぶりに地面に立ったせいでふらついた。看護師が駆け寄ってくる。
「杖を」
 僕はそれだけ言った。看護師は少しためらったが、ポケットからハンカチを取り出し、
「顔を。杖をお持ちします」
 と言って、去っていた。
 そうか、顔か。僕はほとんど黒に変色した手で、受け取ったハンカチで顔の半分を隠した。
 少しして杖を持ってきてもらえたので、それを使ってテントを出た。
 光が眩しい。風が心地よかった。
 そのまましばらく、僕はそこに立っていた。
 戦場の匂いは、微かにしかしない。
 どうやら、勝ちつつあるらしい、とわかった。
 僕はそれから一ヶ月半、休養を取った。従卒が世話を焼いてくれたのと、ユーメールも時折、訪ねてくれた。しかし、どこか怯えているように見えた。
 鏡を確認するたびに、そこに映る自分に嫌気が差した。
 顔もほとんど、黒く染まっている。もう人間ではないような気がした。
 休んでいる間に従卒に頼んで、普段、顔を隠す仮面を作ってもらった。悪魔を模した面にした。
 前線へ復帰する数日前になって、従卒が僕の元に剣を三本、持ってきた。
 一本は、長く使ってきた、最初に悪魔から奪った剣。
 もう一本は、特級悪魔から奪った剣。
 最後の一本は、あの決戦の時、突然に現れた剣だった。
 僕はそれを一本ずつ検めた。どれもまるで実戦で使ったとは思えない、美しい剣だ。
 アリスは行方不明になった、と聞いている。
 最終守備隊を率いて駆けつけ、そのまま悪魔の中へ切り込んでいった中で、行方が分からなくなり、今もその遺体は見つかっていない。
 彼女とはもう会えない、という確信のようなものがあった。
 僕はいよいよ前線へ向かった。それまでの二週間ほどで乗馬の訓練をしたので、危なげなく、馬には乗れた。剣の稽古もして、技量も前と変わらないほどまでに戻っている。
 しかし、前線ではすぐに剣を使う場面というものはなかった。 
 悪魔はさらに後退しており、防御陣地は完全に人間の勢力圏となり、全くの安全だったのだ。
 だから僕は防御陣地に到着して、シグナルから報告を受けるだけだった。
 彼は淡々と僕に戦況を告げ、それからシッラと他の戦死者についての哀悼を口にした。僕は黙って頷いていた。
「ラグーン総司令」彼がこちらを見る。「その仮面は……」
「気にしないでいいよ」
「そういうわけには……」
 しかしシグナルはそれ以上、何も言わなかった。
 スカルスも同席していたが、彼はシグナルがいる間は何も言わなかった。シグナルが退出してから、
「職を譲るつもりですか?」
 と、聞いてきた。
 誰に、何の職を譲るのか、言わなくてもわかった。
「シグナルはもう十分に力をつけた」
 だから、僕はそれしか言わなかった。スカルスも小さく頷き、敬礼をして出て行った。
 さらに一ヶ月が過ぎ、先の激戦での戦死者に対する、慰霊式典が開かれることになった。首都ではなく、激戦の舞台となった、予備の防衛陣地でである。
 そこに、巨大な慰霊廟が作られた。
 慰霊式典には、僕も参加した。連合王国国王、政治家が演説し、最後に軍の代表としてシグナルが演説した。
 多くの参加者が死者への想いを新たにし、涙を拭った。
 僕は前に悪魔から奪い、長く使ってきた剣を、廟の奥に安置した。
 そこには戦死者の中でも大きな武功のあったものの名が、他の戦死者より大きく刻まれた碑があった。
 タンクの名があり、シッラの名があった。アリスの名もある。
 彼らの前に僕は剣を置いて、廟を出た。
 それからまた前線に戻り、僕は形だけの司令官になった。連合王国軍総司令官は別のものに譲ったが、それはシグナルが拒否したためで、しかし、今、軍で最も影響力があるのは、シグナルだった。
 これはトールが死んでから、僕が力を持って行った過程に、非常に似た展開だった。
 ただ、僕が死んでいないだけだ。
 僕は二本の剣を携え、時折、攻めてくる悪魔の部隊と戦った。兵士たちは、士気が上がるようである一方、僕を恐れているのがわかった。
 僕はもう、傷を負うことはない。
 悪魔が近づけば、一刀のもとに切り倒した。
 その範囲に、人間は入ろうとしない。
 切られるわけがない、僕が人間を切らない、と思えないのだろう。
 そういう感情が、彼らの気配に滲む。
 徐々に僕は孤立したけれど、少数の兵士は、僕の周りに残っていた。見るからに命知らずな、若者たちだ。
 彼らは僕を「剣鬼」などと呼んだ。僕は別にそれを咎めなかった。
 それからさらに数ヶ月が過ぎた頃、軍本部から人類軍の元へ通達があった。
 僕に、剣聖、の称号を与える、という内容だった。
 シグナルは僕の元へ駆けつけると、是非受けて欲しい、と頭を下げた。でも僕はすぐには答えなかった。丸一日、考えていた。
 どこから聞きつけたのか、取り巻きの兵士たちは、鬼の剣聖、と言い始めた。
 それを聞いて、あまりにもバカらしくなって、僕はその称号の授与を受けた。
 剣聖の称号なんて、ちょっとしたあだ名程度のものなのか、と考えた。
 だったら、シグナルのためにも、受け取っておこう。僕が剣聖を受ければ、シグナルは剣聖の部下だった男、剣聖が育てた男、となるかもしれない。少しは箔がつくだろう。
 そうして式典はさらに数ヶ月後に行われ、僕は剣聖となった。
 先代の剣聖が戦死して、長く空白だった地位に、僕が座った。
 重要な点は一つしかない。
 剣聖という存在が、和を乱す原因、足並みを乱す原因にならないようにする。
 それだけが、気がかりでもあった。


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