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第2章

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     二

 剣聖の死はあっという間に人類軍の全体に広まった。
 そして、それによる動揺は、僕の予想、そしてきっとトールの予想も超えていた。
 まずは脱走する兵士が増えた。これは剣聖の死の前にもあったことだから、それほどの重要事ではない。
 問題は、人類軍からの脱退を宣言する部隊だ。
 これを集団脱走と捉えることもできたが、しかし、彼らは決して、大胆な行動に出なかった。まず名簿を作り、それを所属する大隊長に示して、脱退を請願するわけである。
 大隊長であるトールもこれには困ったようだった。僕もその場にいたが、彼は渋い顔で、返事を翌日まで引き延ばした。
 一晩中、僕はトールと議論した。
 この脱走を許せば、同じ行動に出るものが出るのは確実だ。しかし許さなければ、当然、部隊としてのまとまりを欠く。任務を放棄することはなくとも、積極的に戦うわけもない。
 最終的に、トールはその最初の脱退要求を受け入れた。
 でも、ただ受け入れたわけではない。密かに自分の信頼の置ける部下を紛れ込ませた。
 トールも僕も、この集団脱走のような行為には、裏がある、という意見で一致していた。
 つまり、部隊を離れた集団が、そのままどこかで農耕に励んだり、商売をしたりする、ということはない、と考えた。
 そもそも、人間はあまりに長く悪魔と戦いすぎた。人類軍のほとんどは、元の生活、と呼ばれるようなものがない。農民出身でも、商人出身でもない、最初からの兵士がほとんどだ。
 そんな彼らが軍を離れて何ができるのか。
 可能性は少ない。
 まず、トールと僕が警戒したのは、どこかの誰かに雇われて、私兵になることだ。
 もちろん、それが悪いわけではない。ただ、人類軍が弱体化したところを、どこかの人間に付け込まれるのは、避けたかった。
 結果、まず、八十名ほどが第四軍団を去っていった。
 トールは書簡を持たせた連絡員を各戦線の三人の軍団長に送りつつ、自分の部隊の大隊長、中隊長までを呼んで、意見交換した。
 自分の部隊の指揮官との議論は、そのままの議論ではない。誰が離反しそうかを、確認するのと同時に、その意思のある指揮官に催促する意図があった。
 僕の感覚では、トールは可能な限り早急に、自分の部隊を堅固なものにしたいようだった。
 トールは、当たり前の思想だが、自分の部隊には完全な統制を徹底したいと思っている。
 それは、強い部隊の第一条件だと、僕も思う。
 そんなわけで、中隊指揮官の幾人かが数日の間に、部下を引き連れて隊を離れた。脱退は千人に少し足りないほどで、一段落となった。
 結果、第四軍団は、本来は五個大隊で構成されるはずが、四個大隊程度の規模に小さくなった計算になる。
 もちろん、この最中も悪魔との小競り合いはある。
 僕も数回、出撃したが、悪魔はそれほど強引に攻勢にではなかった。それでも陣地は充実しつつある。
 その日、珍しくトールと剣の稽古をした。僕とトールは同門なのだ。それもあって副官をしている面もある。
 剣の実力では僕が上で、トールはよく「お前は我らが門人の中でも突然変異だ」と言う。
 稽古が終わって、二人で地面に座り込んで水を飲んでいると、トールが懐かしそうに言った。
「剣聖と手合わせしたことはあるか?」
「ないですよ。あったら、最高の思い出でしょうね」
「俺はあるぞ」
 ぎょっとして横を見ると、トールが得意げに笑っている。
「タイガの前の剣聖だがな。もうご高齢だったが、気配は特別だった」
 初めて聞く話だった。
「それでラグーン、お前だったら次の剣聖に誰を推す?」
「次の剣聖ですか?」
 聞き返したけれど、僕の考えは決まっていた。
 それを言う前に、トールがクスクスと笑う。
「剣聖は不要、と思っているな?」
 おっと、顔に出ていたらしい。
「剣聖の歴史を調べました」僕はゆっくりと話す。「悪魔が現れる前は、剣術指南役のようなものでした。悪魔が現れてからは、最も戦果をあげた兵士に与えられた。でも、それも今は形だけです。そしてタイガが剣聖になった時、剣聖は指揮官の最上位になってしまった。もはや剣聖という称号は、不必要ではないでしょうか」
「しかしお前は、称号に従う人間もいる、と言ったな?」
 自分で墓穴を掘っていて、どうしようもない。黙っていると、トールは、うん、と何かに納得し、
「とりあえずは、剣聖は置かないことにしよう。それよりも、全体を統一した指揮系統が必要だ。他の軍団でも離脱が相次いでいるらしい」
「彼らがどこへ向かったか、わかってきたのですか?」
 少しな、と今度は苦り切った口調のトール。
「傭兵会社に移籍した兵士がまず多い。その次は、連合議会の議員が私兵として雇った数も相当だ」
 連合議会とは、この国の最高議会である。
 五つの国家からなるナルハルン連合王国は、王を置きながら、政治の決定権は連合議会が持っている。
「議員の私兵、ですか?」
 理解が及ばないため、無意識に聞き返していた。
「そうだ。護身もあれば、威圧にもなる。軍に派遣すれば、こちらに貸しを作れる」
「そういう政治ゲーム、つまらないと思いますけど」
「好きな連中もいるのさ」
 トールが立ち上がりながら、「もうちょっと稽古しよう」と言って、僕と剣を合わせた。
 稽古が終わってトールは仕事に戻り、僕は許しを得て、陣地の近くにある村の医者の元へ向かった。まだ若い医者だが、その能力は戦傷者を任せた時によく知っている。
 まずその診療所の近くの、重傷者を看護している集会所に寄る。意識があるものもいれば、ないものもいる。兵士に声をかけていると、目当ての医者がやってきた。
「さらに後方へ移送したいのですが」医者は困り顔だった。「移動に耐えられないだろう者も多いのです。耐えられるものでも、一気に運ぶわけにはいかない」
「軍としても協力させていただきます」
「そうしていただけると、ありがたいですね。診療所へ行きましょう」
 医者に先導されて、僕は診療所まで歩いた。体格のいい男たちの集団とすれ違ったが、彼らはまるで兵士に見えても、軍服を着ているわけではない。
「脱退した兵士たちです」
 男たちが十分に離れてから、医者が囁く。
「所属は連合議会議員らしいですが、ほとんどゴロツキです」
「そんなことを言っては、危ないのではないですか?」
「脱走兵、と呼んで、大怪我をした住民がいますね」
 さらっと言われると、返事に困るが、決していいことではない。
 医者が穏やかに話す。
「悪魔の脅威から守られているはずが、今度は人間の脅威を考えなくはならない。道理が通りませんが、人間はそもそも、道理というものに縛られない」
 確かに、としか答えられなかった。
 診療所の診療室で、僕は上着を脱いだ。
「前の診察は」医者がカルテを確認する。「一ヶ月ほど前ですか」
 手で僕の傷跡に触れていく。
「痛みはないですか?」
「かすかに、しかありません」
 黒いシミに触れらても、特に変わったことはない。ピリピリと痛むのは、負傷の名残だと思うが、違うのだろうか。
 しばらく触診を続けた医者は、何かをカルテに書き込み、こちらを見た。
「悪魔に関しては、知らないことが多すぎます」
 医者がじっとこちらの目を見る。
「悪魔と呼ばれるのも、太古の言い伝えの中にあった言葉を、彼らに当てはめただけです。彼らは全く正体のわからない、謎の存在。そんな彼らと剣を交えているのです。何が起こっても、不思議ではない」
 重いため息を吐いた医者は席を立ち、近くの戸棚の中から瓶を取り出した。その中身は軟膏のようで、それを小さな容器に移して、手渡してくれた。
「気休めですよ、これは。前と同じです」
「治療はできない、ということですね?」
「あなたの体に異常はないように見えます。悪くないのでは、治せない」
 僕は時折ある倦怠感と痛みの話をしようかと思った。
「何か、他にお話がありますか?」
 まるで僕の心を読んかのように医者が問いかけてくる。
「……いえ」
「いいでしょう。また薬が必要になったり、気になることがあれば、いらしてください」
 立ち上がった僕に、医者が、「無理だけはいけません。覚えておいてください」と言った。
 人類軍の陣地に戻り、厩舎の近くを通りかかった時、騎馬隊の兵士が声をかけてきた。
「補佐官」
 僕は軍団長補佐官という役職なので、そう呼ばれる。
「お疲れ様、何かな」
「補佐官を訪ねてきたものがいたのですが、もう帰られてしまいました」
「来客? どこの部隊?」
「いえ、それが、民間人のようでした。突然にここへ現れたので、驚きました」
 それは珍しいな。
「言伝でもあったかい?」
「いえ、また来る、とのことでした」
 兵士に礼を言って、僕はトールのテントへ向かった。ちょうど出てくるところだった中隊長とすれ違う。こちらが敬礼すると、向こうも敬礼を返してきた。
 テントに入ると、トールが何かの紙を渋い顔で睨んでいた。最近はこの表情が多い。
「何かありましたか?」
 紙を机に放り出し、トールが嘆息。
「また一個中隊、脱退だ」
「止まりませんね」
「この分だと、気づいた時には部隊がなくなっているかもしれん」
「その時には、傭兵と私兵が戦えばいい」
 正気じゃないな、とトールが唇を歪めた。机の上の名簿を取り上げて、ファイルの中に差し込んだ。そして何か、書簡を書き始める。
「それで、医者は?」
 こちらを見ないでの問いかけは、さりげなさを装って、答えやすくしているんだろう。
「特に問題はないよ」
「それは良かった。まだ戦いは続くからな」
 テントの中に、ペンが紙をなぞる音が静かに響いていた。


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