軌跡一路

香月 優希

文字の大きさ
上 下
5 / 10

しおりを挟む
 母が到着した時、しらかげは療養所の裏庭で、左手にイルギネスに持って来てもらった愛剣を持ち、素振りを繰り返していた。
「驃っ!」
 大怪我の報告を受け、慌てて駆けつけた先で最初に見た光景があまりに予想外で、母は庭の入り口に呆然と立ち尽くした。気づいた驃が素振りをやめ、こちらに身体を向けたことで、顔半分を覆っている包帯が目に入る。母の顔が悲痛な感情に歪んだ。
「お袋」
「何してるの……寝てなくて大丈夫なの?」
 久方ぶりに見た母は、少し痩せたような気がした。緩く波打つ柔らかな山吹色の髪を、三つ編みにして束ねている。驃を見上げた彼と同じ赤い瞳が、不安げに揺れていた。
「大きな怪我は上半身だけだし。腕が鈍るから」
 安心させようという本能が働いて、彼はできるだけ柔らかい口調で言った。それは効果があったようで、母はふうと息をつき、「動けるくらいで、よかった」と泣きそうな顔で微笑んだ。
「もう、やめる。部屋に戻るよ」
 心が緩まり、驃の顔も自然とほころぶ。自分で思っていた以上に消耗していたらしいことに、今さら気づいた。昨日の、朱音 あかねとのやり取りのせいもあったのかも知れない。
 思えばだいぶ張り詰めていた。会うまでは少し鬱陶しくも思っていた母の顔を見て、こんなにもほっとするなんて。驃は、母が近くはない道のりを来てくれたことに、ささやかに感謝した。


 部屋に戻ると、ちょうど医師が巡回にやってきた。
 しらかげより少し年上の医師は、青みがかった長い黒髪を、きっちり一つに束ねて背に流し、スラリと立っているとなかなかの美男子だ。彼は、驃の手に愛剣が握られているのを見て、博識そうな眼鏡の下の空色の瞳を光らせた。
「やりすぎてないだろうな。剣の鍛錬は許したが、まだほどほどにしてくれよ」
「大丈夫ですよ」
 若干面倒く臭そうに答え、驃は愛剣を机に置くとベッドに腰掛けた。一歩進み出た母が、丁寧に挨拶をする。
「驃の母です。お世話になっております」
 医師は、朗らかな微笑みを浮かべて、うやうやしく頭を下げた。
「初めまして。カイドと申します。ご子息の主治医を務めさせて頂いております」
 カイドは驃の前に立つと、「さあ、診ようか」と、彼の顔の包帯を慎重に解いていく。その下から無惨な裂傷が姿を現した瞬間、母が息を飲むのが、驃には分かった。
「上手く瘡蓋ができてきているし、そろそろ包帯じゃなくても大丈夫かな。ガーゼに切り替えるか」
「そうしてもらえると嬉しいですね。ぐるぐる巻かれてるのも動きにくいし」
「君は怪我人なんだぞ。動きにくいくらいで丁度いい」
 カイドは苦笑した。何度か驃の怪我に遭遇しているが、毎回この調子だ。「まあ、治りが早いのはいいことだがな」傷の確認をしながら、傷周りの汚れを湿らせた布で丁寧に拭き、消毒に移る。そこでふと、思い出したように驃に尋ねた。
「傷、見てみるか?」
 驃は一瞬、考えた。無意識に、壁際に座った母の方を見る。が──目を合わせた彼女は、傷を晒している自分に対し、怯えともとれる表情で緩く首を振った。信じられないものを見たというような母の反応に、自分でも予期しなかったショックを受け、彼は答えた。
「──まだ、いい」
 カイドもまた、驃の目線と、母親の反応に気づいていた。「そうか。まあ、無理に見なくてもな」と、硬い表情になった驃の左肩をそっと叩き、「次は肩の傷だ」と、まるで何事もなかったかのように、右肩の包帯を解き始めた。


 カイドが去ったあと、それまで黙っていた母がようやく、口を開いた。
「よりによって顔に、そんな目立つ傷を付けて」
「お袋……」
 驃に向けた眼差しは潤み、その声は震えている。
「そんな酷い顔にするために、あなたをここに送り出したんじゃないのよ」

 ──酷い顔。

 言葉の衝撃に、驃は息を詰まらせる。何も言えなくなった我が子から目を逸らすと、母は顔を覆った。「もう、今度こそやめて。帰って来てちょうだい」耐えかねたように立ち上がる。
「こんなことになるなんて。だから母さんは反対だったのよ」
 吐き捨てるように言うと、彼女は部屋を早足で出て行ってしまった。開いたままの扉の向こうで、響いたのは嗚咽。
 母が、泣いている。
 今度こそ、驃は心の奥に刃が刺さるのを感じた。ここしばらく感じたことのない、苦しいほどの悲しみが、一気に身体を駆け上がってくる。
<そんな>
 遠ざかる嗚咽を耳に、泣きたいのはこっちだと、拗ねた子供のように彼は思った。母は戻って来ることなく、ほどなくして、ついに嗚咽は聞こえなくなった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

なんで誰も使わないの!? 史上最強のアイテム『神の結石』を使って落ちこぼれ冒険者から脱却します!!

るっち
ファンタジー
 土砂降りの雨のなか、万年Fランクの落ちこぼれ冒険者である俺は、冒険者達にコキ使われた挙句、魔物への囮にされて危うく死に掛けた……しかも、そのことを冒険者ギルドの職員に報告しても鼻で笑われただけだった。終いには恋人であるはずの幼馴染にまで捨てられる始末……悔しくて、悔しくて、悲しくて……そんな時、空から宝石のような何かが脳天を直撃! なんの石かは分からないけど綺麗だから御守りに。そしたら何故かなんでもできる気がしてきた! あとはその石のチカラを使い、今まで俺を見下し蔑んできた奴らをギャフンッと言わせて、落ちこぼれ冒険者から脱却してみせる!!

【長編・完結】私、12歳で死んだ。赤ちゃん還り?水魔法で救済じゃなくて、給水しますよー。

BBやっこ
ファンタジー
死因の毒殺は、意外とは言い切れない。だって貴族の後継者扱いだったから。けど、私はこの家の子ではないかもしれない。そこをつけいられて、親族と名乗る人達に好き勝手されていた。 辺境の地で魔物からの脅威に領地を守りながら、過ごした12年間。その生が終わった筈だったけど…雨。その日に辺境伯が連れて来た赤ん坊。「セリュートとでも名付けておけ」暫定後継者になった瞬間にいた、私は赤ちゃん?? 私が、もう一度自分の人生を歩み始める物語。給水係と呼ばれる水魔法でお悩み解決?

異世界へ五人の落ち人~聖女候補とされてしまいます~

かずきりり
ファンタジー
望んで異世界へと来たわけではない。 望んで召喚などしたわけでもない。 ただ、落ちただけ。 異世界から落ちて来た落ち人。 それは人知を超えた神力を体内に宿し、神からの「贈り人」とされる。 望まれていないけれど、偶々手に入る力を国は欲する。 だからこそ、より強い力を持つ者に聖女という称号を渡すわけだけれど…… 中に男が混じっている!? 帰りたいと、それだけを望む者も居る。 護衛騎士という名の監視もつけられて……  でも、私はもう大切な人は作らない。  どうせ、無くしてしまうのだから。 異世界に落ちた五人。 五人が五人共、色々な思わくもあり…… だけれど、私はただ流れに流され……

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?

アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。 泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。 16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。 マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。 あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に… もう…我慢しなくても良いですよね? この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。 前作の登場人物達も多数登場する予定です。 マーテルリアのイラストを変更致しました。

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

処理中です...