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第五章 竜が啼く
破邪の光 4
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「は……ああ!」
ダリュスカインの口から、血が溢れ出す。
彼は崩れるように膝をつき、その胸に刺さった剣の柄を握った啼義もまた、引き摺られるように膝をついた。息が上がって、何も考えられない。歯の根が合わないほど、全身が震えている。
「はあ、はあ……」
血まみれになり、満身創痍ながら啼義に向けられたダリュスカインの瞳は未だ強い光を湛え、声にならぬ何かを物語っている。
「……あ」
そこにある深緋色を纏う赤の瞳には、確かに見覚えがあった。
「ダリュスカイン──」
その名を口にした途端、啼義の心は急激に現実に呼び戻された。
剣を引き抜こうとした手が、凍りついたように動きを止める。
「何を……している」
躊躇っている啼義の耳に、ダリュスカインの声が届いた。
「早く、剣を抜け」ダリュスカインは苦しげに目を伏せながら言った。「仇を……討ちたかったのだろう」
そうだ。ダリュスカインは靂を弑し、自分の命をも脅かした仇だ。これを引き抜けば、ようやく決着がつく。
なのに──
<出来ない>
狂気の消えたダリュスカインの目を見てしまったら、あまりに様々な感情が渦巻いて、先ほどまでの怒りと憎悪がどこかへ行ってしまったように思考がバラバラになった。
意識が混乱したまま、彼は口を開いた。
「どうして……こんなこと──何も、こんな……」
無関係な者たちまで、巻き込んで。
思わず柄から手を離し、啼義はダリュスカインの肩を支えて顔を覗きこんだ。鱗のように透けて見えていたひびの気配は消え、その額には玉のような汗が浮いている。幾筋かが、顔にこびりついた泥を巻き込みながら流れ落ちた。
「俺は」
ダリュスカインは、皮肉そうな笑みを浮かべる。
「お前に、分かる……わけがない」
抱えてきた劣等感も。啼義への羨望も。
「ずっと、お前が……憎かった」
声を発するたび、息が乱れて呼吸が浅くなるような気がした。真っ直ぐに向けられた啼義の、こんな時ですら翳りのない眼に見えるのは──
もう、分かっている。けれど、どう仕様もなかった。
「靂様の……愛情も。その、力も──俺にはないものを、なぜ、お前が……なんの、苦労もなく……」
黙したままの啼義の目が、僅かに揺れる。
なんの苦労もなく? そんなことはない。でもそれは、ダリュスカインと比べて答えの出る話ではない。けれど確かに、あの頃の自分はあまりに無自覚だったのも事実だ。それに気づいても、やり直せないことも。
「俺──」啼義の黒い瞳に浮かんだ思いを、ダリュスカインがどれほど汲み取ったのかは分からない。彼は口を歪めた。
「笑うだろう……こんな、淵黒の、竜……なんかに」
囚われ、操られて。じわじわと自我を失いながら人の魂を喰らう己は更なる昏い闇に飲まれ、生きた屍も同然だ。
「──これ以上、堕ちるくらいならば」
ダリュスカインが、震える左手で、自身を貫いた剣の柄を掴む。今のうちに、この身体を動かす最後の血液を完全に排出してしまわなければ、やがてあたりに漂う魔気を吸収し、この核と身体は復活するだろう。
「……これで──俺は、やっと……終われる」
ダリュカインは微かに笑み──
刺さっていた剣を、一気に引き抜いた。
「──あっ!」
引き抜いた箇所から、おびただしい鮮血が吹き出す。
「ダリュスカイン!」
再び口から血を吐き、痛みに声をあげて倒れかかるダリュスカインの身体を、啼義が支えた。
とめどない血が溢れ続ける胸元から、今度は黒々とした煙が噴き上げる。
「あ!」
ダリュスカインの手から落ちた啼義の剣が強烈な蒼い光を放ち、それは黒煙を追いかけ巻き込むように捉えると、そこにビリビリと稲妻が走り、空を破るような咆哮が数度、響いた。
──おのれ蒼空の竜め!
声は、最後に確かにそう言った。
が。次には爆発のような衝撃と共に地面が振動し、黒煙も、それを抱きこんだ蒼い光も消えた。
啼義が、光が掻き消えた空を呆然と見つめる。
再び──空は静けさを取り戻した。
風が鳴る音だけが、崩落してできた崖の下から物哀しげに聞こえてくる。
「これで……いい」
ダリュスカインは、虚ろな目を空へ向け、小さく呟いた。
「駄目だ。待ってくれ」
啼義の懇願も虚しく、ダリュスカインの胸から流れ出る血は、彼を支える啼義の身体を伝って、あっという間に地面に血溜まりを作っていく。
「ダリュスカイン!」
呼びかけると、ダリュスカインはゼエゼエと喉を鳴らしながら、もはや思い通りに動かぬ左手で懸命に自身の腰のあたりをまさぐった。
「……頼みが、ある」
「──え?」
血に染まる手で、腰に付いていた巾着を必死に外し、なんとか啼義の目の高さに上げる。
「これを……星莱の社の……結迦という、女性に……返してくれ」
啼義の視線が汚れた巾着を捉え、ダリュスカインへと動く。「誰……?」彼は少し自嘲気味に笑うと、掠れる声で言った。
「俺の……」
だが、その先は聞き取れなかった。
ダリュスカインの瞼が、ゆっくりと閉じていく。そうして目を瞑った表情はひどく穏やかで、吐いた血で汚れた口元は、ほのかに笑っているように見えた。
ダリュスカインの口から、血が溢れ出す。
彼は崩れるように膝をつき、その胸に刺さった剣の柄を握った啼義もまた、引き摺られるように膝をついた。息が上がって、何も考えられない。歯の根が合わないほど、全身が震えている。
「はあ、はあ……」
血まみれになり、満身創痍ながら啼義に向けられたダリュスカインの瞳は未だ強い光を湛え、声にならぬ何かを物語っている。
「……あ」
そこにある深緋色を纏う赤の瞳には、確かに見覚えがあった。
「ダリュスカイン──」
その名を口にした途端、啼義の心は急激に現実に呼び戻された。
剣を引き抜こうとした手が、凍りついたように動きを止める。
「何を……している」
躊躇っている啼義の耳に、ダリュスカインの声が届いた。
「早く、剣を抜け」ダリュスカインは苦しげに目を伏せながら言った。「仇を……討ちたかったのだろう」
そうだ。ダリュスカインは靂を弑し、自分の命をも脅かした仇だ。これを引き抜けば、ようやく決着がつく。
なのに──
<出来ない>
狂気の消えたダリュスカインの目を見てしまったら、あまりに様々な感情が渦巻いて、先ほどまでの怒りと憎悪がどこかへ行ってしまったように思考がバラバラになった。
意識が混乱したまま、彼は口を開いた。
「どうして……こんなこと──何も、こんな……」
無関係な者たちまで、巻き込んで。
思わず柄から手を離し、啼義はダリュスカインの肩を支えて顔を覗きこんだ。鱗のように透けて見えていたひびの気配は消え、その額には玉のような汗が浮いている。幾筋かが、顔にこびりついた泥を巻き込みながら流れ落ちた。
「俺は」
ダリュスカインは、皮肉そうな笑みを浮かべる。
「お前に、分かる……わけがない」
抱えてきた劣等感も。啼義への羨望も。
「ずっと、お前が……憎かった」
声を発するたび、息が乱れて呼吸が浅くなるような気がした。真っ直ぐに向けられた啼義の、こんな時ですら翳りのない眼に見えるのは──
もう、分かっている。けれど、どう仕様もなかった。
「靂様の……愛情も。その、力も──俺にはないものを、なぜ、お前が……なんの、苦労もなく……」
黙したままの啼義の目が、僅かに揺れる。
なんの苦労もなく? そんなことはない。でもそれは、ダリュスカインと比べて答えの出る話ではない。けれど確かに、あの頃の自分はあまりに無自覚だったのも事実だ。それに気づいても、やり直せないことも。
「俺──」啼義の黒い瞳に浮かんだ思いを、ダリュスカインがどれほど汲み取ったのかは分からない。彼は口を歪めた。
「笑うだろう……こんな、淵黒の、竜……なんかに」
囚われ、操られて。じわじわと自我を失いながら人の魂を喰らう己は更なる昏い闇に飲まれ、生きた屍も同然だ。
「──これ以上、堕ちるくらいならば」
ダリュスカインが、震える左手で、自身を貫いた剣の柄を掴む。今のうちに、この身体を動かす最後の血液を完全に排出してしまわなければ、やがてあたりに漂う魔気を吸収し、この核と身体は復活するだろう。
「……これで──俺は、やっと……終われる」
ダリュカインは微かに笑み──
刺さっていた剣を、一気に引き抜いた。
「──あっ!」
引き抜いた箇所から、おびただしい鮮血が吹き出す。
「ダリュスカイン!」
再び口から血を吐き、痛みに声をあげて倒れかかるダリュスカインの身体を、啼義が支えた。
とめどない血が溢れ続ける胸元から、今度は黒々とした煙が噴き上げる。
「あ!」
ダリュスカインの手から落ちた啼義の剣が強烈な蒼い光を放ち、それは黒煙を追いかけ巻き込むように捉えると、そこにビリビリと稲妻が走り、空を破るような咆哮が数度、響いた。
──おのれ蒼空の竜め!
声は、最後に確かにそう言った。
が。次には爆発のような衝撃と共に地面が振動し、黒煙も、それを抱きこんだ蒼い光も消えた。
啼義が、光が掻き消えた空を呆然と見つめる。
再び──空は静けさを取り戻した。
風が鳴る音だけが、崩落してできた崖の下から物哀しげに聞こえてくる。
「これで……いい」
ダリュスカインは、虚ろな目を空へ向け、小さく呟いた。
「駄目だ。待ってくれ」
啼義の懇願も虚しく、ダリュスカインの胸から流れ出る血は、彼を支える啼義の身体を伝って、あっという間に地面に血溜まりを作っていく。
「ダリュスカイン!」
呼びかけると、ダリュスカインはゼエゼエと喉を鳴らしながら、もはや思い通りに動かぬ左手で懸命に自身の腰のあたりをまさぐった。
「……頼みが、ある」
「──え?」
血に染まる手で、腰に付いていた巾着を必死に外し、なんとか啼義の目の高さに上げる。
「これを……星莱の社の……結迦という、女性に……返してくれ」
啼義の視線が汚れた巾着を捉え、ダリュスカインへと動く。「誰……?」彼は少し自嘲気味に笑うと、掠れる声で言った。
「俺の……」
だが、その先は聞き取れなかった。
ダリュスカインの瞼が、ゆっくりと閉じていく。そうして目を瞑った表情はひどく穏やかで、吐いた血で汚れた口元は、ほのかに笑っているように見えた。
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