風は遠き地に

香月 優希

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第三章 邂逅の街

再会 5

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 景色が大きく揺らぎ、青に包まれたと思った次の瞬間にはもう、啼義ナギの身体は衝撃と共に海中に投げ出されていた。開いた口に、水が流れ込んでくる。わけがわからず無意識に身体をばたつかせたことが、かえって裏目に出た。
<息がっ……!>
 衣服が邪魔をして全く自由が利かない身体と、口を開けるたびに入り込む海水で、すっかり気が動転した。助けを呼ぶどころか、水に遮られて声が出せない。自ら立てた水飛沫が頭から降ってくる。どうにもならずに足掻いていると、上方にきらきらと、空からの光がちらついた。
<──綺麗だ>
 初めて見た輝きに目を奪われ、恐怖を忘れたのは一瞬で、海の底から容赦なく足を引っ張られるように、身体が沈み始めた。ごぼごぼした音がやたらにうるさい。目を開けていられず固く瞑ったものの、痛みが走って耐えられずに再び開けた。そこに──

 レキ……!
 
 揺らめく銀の髪が見えて、乞うように手を伸ばした。その手がしっかりと握られると、身体がふわりと持ち上がり、光の方へ上昇する。
 あっという間に、波の音が戻ってきた。水面に出たのだ。

「馬鹿野郎」
 自分を抱えているのは、イルギネスだった。唖然としている啼義をしっかりと抱えながらゆっくり泳ぎ、桟橋の横の陸に上がる階段へ着くと、啼義を腕に抱えたまま上陸した。引き上げられた身体に急に重力が加わり、啼義はすぐに立てずに地面に突っ伏す。その途端、喉に詰まった海水でせて激しく咳き込んだ。
「馬鹿野郎!」
 イルギネスが、今度こそはっきりと怒鳴った。答えることも出来ずにむせぶ啼義の背中をさすりながら、彼は息をつく。啼義はそこで初めて、イルギネスが半裸であることに気づいた。先ほど結えた髪もぐっしょり濡れて、ほどけかかっている。酷い姿だ。
「俺の目の前で、逝くな」
 その声は震えていた。顔を滴って落ちる水が、地面に溜まっていく──ふと視線を動かすと、彼は靴も履いていない上に、その片足には、微かに血が滲んでいた。どうしたのか聞こうとして口を開き、また咳き込む。ゲホゲホと海水を吐き出していると、イルギネスが言った。
「──もう、俺の前で逝かないでくれ」
 軋むような声と表情に、啼義の胸の奥が鷲掴みにされたように痛んだ。
<俺と同い年の弟を、亡くしてたんだっけ>
 思い出してしまったら、彼の顔を見ていられなくなった。身体を仰向けて、空を見上げる。
「逝こうと思ったわけじゃ……ねえよ」
 半分は本当で、半分は嘘だった。イルギネスは黙って啼義を見つめる。頬を伝った水が、また地面に落ちた。海水のせいか少し赤みを帯びた目に、複雑な感情が見え隠れしている。こんな──今にも泣きそうな彼の顔を、見たことがなかった。
「──ごめん」
 思わず、謝っていた。
「本当だ」イルギネスがやっと答えた。どこか拗ねたような表情になる。「本当だよ」まだ濡れている頬を乱暴に拭った。
 その時、頭上で声がした。
「おーい」
「誰か落ちたんじゃないか? 派手な水音がしたぞ」
 階段の上の方で、二人の男がうろうろしている。
「靴と服が散らかってる」
 イルギネスが立ち上がった。「それは俺のだ」思いのほか通る声で、彼は言った。男たちは二人に気づくと、階段の上から声をかけてきた。
「落っこちたのはそっちの小僧か? 大丈夫かい?」
「大丈夫だ。しっかりしているよ」啼義の代わりに、イルギネスが答えた。
「兄ちゃんも大丈夫かい?」
 言われてから、イルギネスも自分の姿を見下ろして苦笑する。と同時に、右足の裏の痛みが走った。咄嗟に靴を脱いで踏み出した矢先、何かを踏んだのだ。
「大丈夫だ」
 笑って手を振ると、男たちは安心したように頷き、階段を降りてきた。二人の助けを借りて、桟橋の上へと戻る。礼を言い、「あとは自分たちでなんとかします」と告げると「まあ、大事なくてよかったさ。気をつけろや」と、彼らは去っていった。
 啼義は急に寒気を覚え、くしゃみをした。全身濡れた状態で海風にあたるには、もう気温が低い。
「こんなところで、闇雲に走るんじゃねえよ」
 イルギネスはまだ不機嫌そうに言いながら、濡れた髪を完全に解いて、地面に放り投げていた肩掛けの布で身体を拭いた。
「下だけ濡れてるのも気持ち悪いがな。脱ぐわけにもいかんし」
 困ったように呟いてから、ぼんやりしている啼義の頭に、その肩掛けを被せる。
「お前はまず、マントと、服もとりあえず上だけ全部脱げ。着てる方が寒い。身体を拭いてから、これを着ろ」と、飛び込む前に脱ぎ捨てて無事だった自分の上着を差し出した。片や彼自身は、半裸のまま腰に剣を装備する。
「うん……へっくしょい!」
 またくしゃみが出た。身体から濡れた衣服を剥がすように脱いでいると、イルギネスの肩越しに、赤銅色の髪の──朝矢トモヤが走ってくるのが見えた。
「おーい! 大丈夫かー?」大きな声で叫んでいる。ほどなくして、彼は二人の前にたどり着いた。
「あっちで、溺れてた小僧がいて、銀髪の兄ちゃんが助けたらしいって……すれ違ったおっちゃん達に聞いて……まさかと思って……さ」
 息を切らしながら話すと、ふと思いついたように目を見張る。
「啼義、お前まさか──」
「違うんだよ」啼義は朝矢の言わんとしていることを察して、自ら否定した。
「イルギネスが来たの見たら、なんか……咄嗟に、走り出しちまって」
 どうしてそんな行動に出たのだろう。啼義は自分の心を探った。
「……その──これ以上、巻き込んじゃいけねえっていうか……」
 イルギネスにまで、背負わせてはいけない。そう思ったのだ。
「もう充分、巻き込まれてる」イルギネスが口を開いた。「言っただろう。巻き込み上等だって」
 すると、その後ろで朝矢が、安堵のため息を漏らした。
「二人ともさ、ちょっとひでぇ状態だから、とりあえず船まで行こうぜ。風邪ひいちまうよ」

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