風は遠き地に

香月 優希

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第三章 邂逅の街

再会 2

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 啼義ナギが二階の部屋に戻り、剣の手入れをしていると、やがて、洗いたての銀髪を下ろしたままのイルギネスが入ってきた。彼は鏡台に置いてあったブラシで髪を梳かしながら、おもむろに啼義の方を向き尋ねる。
「啼義、海を見たことはあるか?」
 なぜそんなことを聞くのだろうか。怪訝な顔でイルギネスを見返し、啼義は答えた。
「……ううん。ない」
「よし。見に行こう」
「え?」
 イルギネスは、いつもの屈託のない笑顔で言った。
「雨も止んできたし、せっかく海の近くまで来たんだ。散歩でも行こうじゃないか」
「散歩?」
 それどころではないような気もしたが、どのみち自分の考えもまとまっていない。ここにいて考えたところで、これ以上は鬱蒼とするだけだろう。少し気分を変えたくもあった。
「うん」啼義は承諾した。

 外に出ると、雨は止んでいた。雲間からは光が差し始めている。
 坂を下り、ざわつく街路を抜けて港に着く頃には、空はすっかり晴れていた。太陽の光が、水溜りに小さくきらきらと反射している。吹く風は少し強い。その風上、堤防の先に目を向け、啼義は目を見張った。
 
 海だ。

 青い青い水面が延々と広がり、それが緩やかなうねりを伴いながら絨毯のように彼方まで続いて、空との境目と合流している。水が溜まっている場所といえば湖の大きさまでしか見たことのない啼義には、その広がりは充分な衝撃だった。風はふんわり潮臭くて、空気にも微かな潮気が混じっている。そしてイルギネスの瞳の色が、穏やかな波を湛える海のそれと同じ色であることにも、初めて気づいたのだった。こんな遥かな景色を、彼の瞳は宿していたのだ。
「だから、そんなに大らかなのか」
 突然呟いた啼義を、イルギネスが海色の瞳で不思議そうに見つめた。まだ結わえていない銀の髪が、風になびく。
「え?」
「──いや。なんでもない」急に照れくさくなって、啼義は目を逸らした。
 二人はそのまま、波止場の方へと向かった。
 ミルファは港を拠点に外との繋がりがあるせいか、道ゆく人々も見慣れない肌や髪の色の者が多い。時に、知らない言葉も飛び交っている。外国と呼ばれる場所から来た人々だろうか。羅沙ラージャやしろから何度か出たことはあったが、こんなに様々な文化が交わる場所に来たことはなかった。啼義は世界の広さを、初めて体感していた。自分が見ていた世界は、なんと狭い範囲だったのだろう。
「広いだろう。これが海だ」
 イルギネスが誇らしげに言うと、啼義は言葉もなく、ただ素直に頷いた。イルギネスは続ける。
「俺は、この景色が好きなんだ。広い海原を眺めていると、悩みや不安が、どうってことない気がしてくる」
「うん」
 啼義も同意し、ふと思った。イルギネスは、過酷な状況に置かれている自分を元気づけたくて、海を見ようなどと言ったのかも知れない。
「あの向こうに、また違う大陸があるのか?」
 水平線を指差す。この青は、一体どこまで続いているんだろうか。
「ああ。俺もまだ、行ったことはないがな」
 啼義はあらためて辺りを見回した。この大陸の中ですら、行ったことのない場所だらけなのに、大陸の外など、想像がつかない。波止場には、また新しい船が着岸している。川などで見たことのある船よりも、よほど頑丈そうだ。
 悠然とした船が並ぶ光景に心を惹かれて、啼義はその一艘に近づいた。
「おい、啼義」
 イルギネスが呼びかけたが、もはや彼の耳に届いてはいない。そこに停泊しているがっちりした木造の船は、なかなか年季が入っているように見える。帆はしっかり畳まれていて、中の積荷を乗組員たちが次々に運び出していた。自分と対して変わらなそうな年頃の男たちも多く混じっている。皆、日に焼けて屈強そうだ。
 運ばれる荷に、見慣れた北部の東字あがりじを見つけ、無意識に足を踏み出したその時──
「おい!」
 背後から呼び止められた。何事かと振り返るとそこには、赤銅色の肩ほどまでの髪に羽根やら紐やら、やたら飾りを付けた、やはり日に焼けた肌の男が立っている。自分より少し背が高いその男は、いぶかしげな顔の啼義を頭から爪先までまじまじと見つめた。不審に思って一歩後ろに下がった時、その男がふいに白い歯を見せて、にかっと笑った。
「やっぱり! 啼義かっ?」
「──え?」
 いきなり名を言い当てられ、「あ、ああ」と思わず答えてしまってから、ただ驚いて相手を見返す。どこかで会っただろうか。すると彼は、深緑の目に陽気な光をちらつかせて、嬉しそうに口を開いた。その瞳には、確かに覚えがあった。
「俺だよ。朝矢トモヤだ。羅沙の社でずっと一緒だったじゃないか。いやあ、無事だったんだな!」
 それは、羅沙の社で啼義が十歳になるまで世話係をしていた女性の一人息子、朝矢だった。

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