34 / 96
第三章 邂逅の街
再会 2
しおりを挟む
啼義が二階の部屋に戻り、剣の手入れをしていると、やがて、洗いたての銀髪を下ろしたままのイルギネスが入ってきた。彼は鏡台に置いてあったブラシで髪を梳かしながら、おもむろに啼義の方を向き尋ねる。
「啼義、海を見たことはあるか?」
なぜそんなことを聞くのだろうか。怪訝な顔でイルギネスを見返し、啼義は答えた。
「……ううん。ない」
「よし。見に行こう」
「え?」
イルギネスは、いつもの屈託のない笑顔で言った。
「雨も止んできたし、せっかく海の近くまで来たんだ。散歩でも行こうじゃないか」
「散歩?」
それどころではないような気もしたが、どのみち自分の考えもまとまっていない。ここにいて考えたところで、これ以上は鬱蒼とするだけだろう。少し気分を変えたくもあった。
「うん」啼義は承諾した。
外に出ると、雨は止んでいた。雲間からは光が差し始めている。
坂を下り、ざわつく街路を抜けて港に着く頃には、空はすっかり晴れていた。太陽の光が、水溜りに小さくきらきらと反射している。吹く風は少し強い。その風上、堤防の先に目を向け、啼義は目を見張った。
海だ。
青い青い水面が延々と広がり、それが緩やかなうねりを伴いながら絨毯のように彼方まで続いて、空との境目と合流している。水が溜まっている場所といえば湖の大きさまでしか見たことのない啼義には、その広がりは充分な衝撃だった。風はふんわり潮臭くて、空気にも微かな潮気が混じっている。そしてイルギネスの瞳の色が、穏やかな波を湛える海のそれと同じ色であることにも、初めて気づいたのだった。こんな遥かな景色を、彼の瞳は宿していたのだ。
「だから、そんなに大らかなのか」
突然呟いた啼義を、イルギネスが海色の瞳で不思議そうに見つめた。まだ結わえていない銀の髪が、風になびく。
「え?」
「──いや。なんでもない」急に照れくさくなって、啼義は目を逸らした。
二人はそのまま、波止場の方へと向かった。
ミルファは港を拠点に外との繋がりがあるせいか、道ゆく人々も見慣れない肌や髪の色の者が多い。時に、知らない言葉も飛び交っている。外国と呼ばれる場所から来た人々だろうか。羅沙の社から何度か出たことはあったが、こんなに様々な文化が交わる場所に来たことはなかった。啼義は世界の広さを、初めて体感していた。自分が見ていた世界は、なんと狭い範囲だったのだろう。
「広いだろう。これが海だ」
イルギネスが誇らしげに言うと、啼義は言葉もなく、ただ素直に頷いた。イルギネスは続ける。
「俺は、この景色が好きなんだ。広い海原を眺めていると、悩みや不安が、どうってことない気がしてくる」
「うん」
啼義も同意し、ふと思った。イルギネスは、過酷な状況に置かれている自分を元気づけたくて、海を見ようなどと言ったのかも知れない。
「あの向こうに、また違う大陸があるのか?」
水平線を指差す。この青は、一体どこまで続いているんだろうか。
「ああ。俺もまだ、行ったことはないがな」
啼義はあらためて辺りを見回した。この大陸の中ですら、行ったことのない場所だらけなのに、大陸の外など、想像がつかない。波止場には、また新しい船が着岸している。川などで見たことのある船よりも、よほど頑丈そうだ。
悠然とした船が並ぶ光景に心を惹かれて、啼義はその一艘に近づいた。
「おい、啼義」
イルギネスが呼びかけたが、もはや彼の耳に届いてはいない。そこに停泊しているがっちりした木造の船は、なかなか年季が入っているように見える。帆はしっかり畳まれていて、中の積荷を乗組員たちが次々に運び出していた。自分と対して変わらなそうな年頃の男たちも多く混じっている。皆、日に焼けて屈強そうだ。
運ばれる荷に、見慣れた北部の東字を見つけ、無意識に足を踏み出したその時──
「おい!」
背後から呼び止められた。何事かと振り返るとそこには、赤銅色の肩ほどまでの髪に羽根やら紐やら、やたら飾りを付けた、やはり日に焼けた肌の男が立っている。自分より少し背が高いその男は、訝しげな顔の啼義を頭から爪先までまじまじと見つめた。不審に思って一歩後ろに下がった時、その男がふいに白い歯を見せて、にかっと笑った。
「やっぱり! 啼義かっ?」
「──え?」
いきなり名を言い当てられ、「あ、ああ」と思わず答えてしまってから、ただ驚いて相手を見返す。どこかで会っただろうか。すると彼は、深緑の目に陽気な光をちらつかせて、嬉しそうに口を開いた。その瞳には、確かに覚えがあった。
「俺だよ。朝矢だ。羅沙の社でずっと一緒だったじゃないか。いやあ、無事だったんだな!」
それは、羅沙の社で啼義が十歳になるまで世話係をしていた女性の一人息子、朝矢だった。
「啼義、海を見たことはあるか?」
なぜそんなことを聞くのだろうか。怪訝な顔でイルギネスを見返し、啼義は答えた。
「……ううん。ない」
「よし。見に行こう」
「え?」
イルギネスは、いつもの屈託のない笑顔で言った。
「雨も止んできたし、せっかく海の近くまで来たんだ。散歩でも行こうじゃないか」
「散歩?」
それどころではないような気もしたが、どのみち自分の考えもまとまっていない。ここにいて考えたところで、これ以上は鬱蒼とするだけだろう。少し気分を変えたくもあった。
「うん」啼義は承諾した。
外に出ると、雨は止んでいた。雲間からは光が差し始めている。
坂を下り、ざわつく街路を抜けて港に着く頃には、空はすっかり晴れていた。太陽の光が、水溜りに小さくきらきらと反射している。吹く風は少し強い。その風上、堤防の先に目を向け、啼義は目を見張った。
海だ。
青い青い水面が延々と広がり、それが緩やかなうねりを伴いながら絨毯のように彼方まで続いて、空との境目と合流している。水が溜まっている場所といえば湖の大きさまでしか見たことのない啼義には、その広がりは充分な衝撃だった。風はふんわり潮臭くて、空気にも微かな潮気が混じっている。そしてイルギネスの瞳の色が、穏やかな波を湛える海のそれと同じ色であることにも、初めて気づいたのだった。こんな遥かな景色を、彼の瞳は宿していたのだ。
「だから、そんなに大らかなのか」
突然呟いた啼義を、イルギネスが海色の瞳で不思議そうに見つめた。まだ結わえていない銀の髪が、風になびく。
「え?」
「──いや。なんでもない」急に照れくさくなって、啼義は目を逸らした。
二人はそのまま、波止場の方へと向かった。
ミルファは港を拠点に外との繋がりがあるせいか、道ゆく人々も見慣れない肌や髪の色の者が多い。時に、知らない言葉も飛び交っている。外国と呼ばれる場所から来た人々だろうか。羅沙の社から何度か出たことはあったが、こんなに様々な文化が交わる場所に来たことはなかった。啼義は世界の広さを、初めて体感していた。自分が見ていた世界は、なんと狭い範囲だったのだろう。
「広いだろう。これが海だ」
イルギネスが誇らしげに言うと、啼義は言葉もなく、ただ素直に頷いた。イルギネスは続ける。
「俺は、この景色が好きなんだ。広い海原を眺めていると、悩みや不安が、どうってことない気がしてくる」
「うん」
啼義も同意し、ふと思った。イルギネスは、過酷な状況に置かれている自分を元気づけたくて、海を見ようなどと言ったのかも知れない。
「あの向こうに、また違う大陸があるのか?」
水平線を指差す。この青は、一体どこまで続いているんだろうか。
「ああ。俺もまだ、行ったことはないがな」
啼義はあらためて辺りを見回した。この大陸の中ですら、行ったことのない場所だらけなのに、大陸の外など、想像がつかない。波止場には、また新しい船が着岸している。川などで見たことのある船よりも、よほど頑丈そうだ。
悠然とした船が並ぶ光景に心を惹かれて、啼義はその一艘に近づいた。
「おい、啼義」
イルギネスが呼びかけたが、もはや彼の耳に届いてはいない。そこに停泊しているがっちりした木造の船は、なかなか年季が入っているように見える。帆はしっかり畳まれていて、中の積荷を乗組員たちが次々に運び出していた。自分と対して変わらなそうな年頃の男たちも多く混じっている。皆、日に焼けて屈強そうだ。
運ばれる荷に、見慣れた北部の東字を見つけ、無意識に足を踏み出したその時──
「おい!」
背後から呼び止められた。何事かと振り返るとそこには、赤銅色の肩ほどまでの髪に羽根やら紐やら、やたら飾りを付けた、やはり日に焼けた肌の男が立っている。自分より少し背が高いその男は、訝しげな顔の啼義を頭から爪先までまじまじと見つめた。不審に思って一歩後ろに下がった時、その男がふいに白い歯を見せて、にかっと笑った。
「やっぱり! 啼義かっ?」
「──え?」
いきなり名を言い当てられ、「あ、ああ」と思わず答えてしまってから、ただ驚いて相手を見返す。どこかで会っただろうか。すると彼は、深緑の目に陽気な光をちらつかせて、嬉しそうに口を開いた。その瞳には、確かに覚えがあった。
「俺だよ。朝矢だ。羅沙の社でずっと一緒だったじゃないか。いやあ、無事だったんだな!」
それは、羅沙の社で啼義が十歳になるまで世話係をしていた女性の一人息子、朝矢だった。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
地獄の手違いで殺されてしまったが、閻魔大王が愛猫と一緒にネット環境付きで異世界転生させてくれました。
克全
ファンタジー
「第3回次世代ファンタジーカップ」参加作、面白いと感じましたらお気に入り登録と感想をくださると作者の励みになります!
高橋翔は地獄の官吏のミスで寿命でもないのに殺されてしまった。だが流石に地獄の十王達だった。配下の失敗にいち早く気付き、本来なら地獄の泰広王(不動明王)だけが初七日に審理する場に、十王全員が勢揃いして善後策を協議する事になった。だが、流石の十王達でも、配下の失敗に気がつくのに六日掛かっていた、高橋翔の身体は既に焼かれて灰となっていた。高橋翔は閻魔大王たちを相手に交渉した。現世で残されていた寿命を異世界で全うさせてくれる事。どのような異世界であろうと、異世界間ネットスーパーを利用して元の生活水準を保証してくれる事。死ぬまでに得ていた貯金と家屋敷、死亡保険金を保証して異世界で使えるようにする事。更には異世界に行く前に地獄で鍛錬させてもらう事まで要求し、権利を勝ち取った。そのお陰で異世界では楽々に生きる事ができた。
異世界で穴掘ってます!
KeyBow
ファンタジー
修学旅行中のバスにいた筈が、異世界召喚にバスの全員が突如されてしまう。主人公の聡太が得たスキルは穴掘り。外れスキルとされ、屑の外れ者として抹殺されそうになるもしぶとく生き残り、救ってくれた少女と成り上がって行く。不遇といわれるギフトを駆使して日の目を見ようとする物語
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活
昼寝部
ファンタジー
この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。
しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。
そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。
しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。
そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。
これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。
テンプレな異世界を楽しんでね♪~元おっさんの異世界生活~【加筆修正版】
永倉伊織
ファンタジー
神の力によって異世界に転生した長倉真八(39歳)、転生した世界は彼のよく知る「異世界小説」のような世界だった。
転生した彼の身体は20歳の若者になったが、精神は何故か39歳のおっさんのままだった。
こうして元おっさんとして第2の人生を歩む事になった彼は異世界小説でよくある展開、いわゆるテンプレな出来事に巻き込まれながらも、出逢いや別れ、時には仲間とゆる~い冒険の旅に出たり
授かった能力を使いつつも普通に生きていこうとする、おっさんの物語である。
◇ ◇ ◇
本作は主人公が異世界で「生活」していく事がメインのお話しなので、派手な出来事は起こりません。
序盤は1話あたりの文字数が少なめですが
全体的には1話2000文字前後でサクッと読める内容を目指してます。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
俺だけに効くエリクサー。飲んで戦って気が付けば異世界最強に⁉
まるせい
ファンタジー
異世界に召喚された熱海 湊(あたみ みなと)が得たのは(自分だけにしか効果のない)エリクサーを作り出す能力だった。『外れ異世界人』認定された湊は神殿から追放されてしまう。
貰った手切れ金を元手に装備を整え、湊はこの世界で生きることを決意する。
異世界召喚に条件を付けたのに、女神様に呼ばれた
りゅう
ファンタジー
異世界召喚。サラリーマンだって、そんな空想をする。
いや、さすがに大人なので空想する内容も大人だ。少年の心が残っていても、現実社会でもまれた人間はまた別の空想をするのだ。
その日の神岡龍二も、日々の生活から離れ異世界を想像して遊んでいるだけのハズだった。そこには何の問題もないハズだった。だが、そんなお気楽な日々は、この日が最後となってしまった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる