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第一章 遥かな記憶
崩壊 1
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翌朝──まだ早く。
祭壇の奥に掲げられている、淵黒の竜が描かれた廟を見つめていた靂は、人の気配にゆったりと振り向いた。祈りを捧げる決まった時間以外で、普段ここまで入ってこられる人間は限られる。今はまだ、その時間ではない。入り口には、啼義が立っていた。既に、身なりをきちんと整えている。
「随分と早いな。どうした」靂は少しの戸惑いを押し隠し、いつもと同じ涼やかな口調で問うた。啼義は歩を進めて靂の前に立つと、口を開く。
「……もう、やめたい」
「──何をだ」聞かずとも分かる。だが、思わずそう返した。
「こんな変な力じゃなく、魔術とか剣術を、もっとしっかりやるべきだと思うんだ。その方が確実に役に立つ」
啼義はどこか切実な口調で訴えた。
「像を破壊して、怖くなったか」
「……そう思ってもらって構わない」
靂は僅かに目を細め、視線を廟に戻す。
「淵黒の竜を葬り去った、蒼空の竜の力を継承している神殿が、南にある」
「……蒼空の竜?」
なぜいきなりそんな話をするのかと、啼義は不思議な表情で靂を見つめた。そんな話を聞いたことはあるが、記憶には薄い。
「今現在、その力の継承者は、所在不明だそうだ。生死も分からぬ」
「継承者…」聞き覚えのある単語に、啼義は息を呑んだ。
「その力は、"竜の加護"と呼ばれているそうだ」
「──え?」
あの、記憶の中の声の言葉。一瞬──自分が身を強張らせたのに、靂は気付いただろうか。
「……お前は昔、竜の神に願ったと言っては、願いを叶えることがあったな」
何処か懐かしむように、靂は言った。そう言えばそんなこともあったと、啼義も思い返す。
振り返った靂の視線が、真っ直ぐに啼義を捉えた。靂は徐に口を開いた。
「あれは、どの竜だ?」
「どの……?」
そんなの、決まっているじゃないか。
そう答えようとして、言葉に詰まった。靂の背後で、廟の中の淵黒の竜が自分を見つめている。その、睨め付けるような瞳に、今まで感じたことのない深い憎悪を見た気がして、啼義は後退った。
「啼義」
靂が呼びかける声が、まるで遠くで聞こえる。
「俺は……"竜の加護"なんて知らない」
声が震えた。身体が冷えて、自分のものではないような感覚に陥りそうになる。無意識に足が踵を返した。
「啼義!」
珍しく声を荒げた靂を振り返らず、祭壇の間から逃げるように出たところで、開いた扉の影に佇むダリュスカインと目が合った。
「いつから……」
「入っていくのが見えたので」
ダリュスカインは静かに答えた。その瞳に、冷ややかな軽蔑の感情をちらつかせて。
──聞いていたのか。
啼義は胸の奥が押し潰されそうな息苦しさを覚え、言葉もなく身を翻し走り去った。
「どうなさるおつもりですか」
ダリュスカインは靂の前に進み出て、尋ねた。
靂は廟を見つめたまま、振り返らない。
「私が、始末いたしますか」
「……誰をだ」
「啼義様は、いけません」
靂は振り返り、ダリュスカインを見つめた。しばしの沈黙。
「もしそうなら──私がやろう」
腰に下げた刀の柄を握り、靂が抑揚のない声で答えた。
「まだ、"もし"とおっしゃるのですか」
臆することなく、ダリュスカインは言った。彼の赤い瞳と、靂の金の瞳の視線が真っ向から重なる。
「お前は案ずるな。目的は必ず達する」
まるで自分に言い聞かせているようだと、靂は内心思った。そうだ、忘れるはずがない。この二十年近く、追い続けてきた目的を。しかしその一方で、靂は指先に、自分にしか分からないほどの微かな震えを感じていた。
祭壇の奥に掲げられている、淵黒の竜が描かれた廟を見つめていた靂は、人の気配にゆったりと振り向いた。祈りを捧げる決まった時間以外で、普段ここまで入ってこられる人間は限られる。今はまだ、その時間ではない。入り口には、啼義が立っていた。既に、身なりをきちんと整えている。
「随分と早いな。どうした」靂は少しの戸惑いを押し隠し、いつもと同じ涼やかな口調で問うた。啼義は歩を進めて靂の前に立つと、口を開く。
「……もう、やめたい」
「──何をだ」聞かずとも分かる。だが、思わずそう返した。
「こんな変な力じゃなく、魔術とか剣術を、もっとしっかりやるべきだと思うんだ。その方が確実に役に立つ」
啼義はどこか切実な口調で訴えた。
「像を破壊して、怖くなったか」
「……そう思ってもらって構わない」
靂は僅かに目を細め、視線を廟に戻す。
「淵黒の竜を葬り去った、蒼空の竜の力を継承している神殿が、南にある」
「……蒼空の竜?」
なぜいきなりそんな話をするのかと、啼義は不思議な表情で靂を見つめた。そんな話を聞いたことはあるが、記憶には薄い。
「今現在、その力の継承者は、所在不明だそうだ。生死も分からぬ」
「継承者…」聞き覚えのある単語に、啼義は息を呑んだ。
「その力は、"竜の加護"と呼ばれているそうだ」
「──え?」
あの、記憶の中の声の言葉。一瞬──自分が身を強張らせたのに、靂は気付いただろうか。
「……お前は昔、竜の神に願ったと言っては、願いを叶えることがあったな」
何処か懐かしむように、靂は言った。そう言えばそんなこともあったと、啼義も思い返す。
振り返った靂の視線が、真っ直ぐに啼義を捉えた。靂は徐に口を開いた。
「あれは、どの竜だ?」
「どの……?」
そんなの、決まっているじゃないか。
そう答えようとして、言葉に詰まった。靂の背後で、廟の中の淵黒の竜が自分を見つめている。その、睨め付けるような瞳に、今まで感じたことのない深い憎悪を見た気がして、啼義は後退った。
「啼義」
靂が呼びかける声が、まるで遠くで聞こえる。
「俺は……"竜の加護"なんて知らない」
声が震えた。身体が冷えて、自分のものではないような感覚に陥りそうになる。無意識に足が踵を返した。
「啼義!」
珍しく声を荒げた靂を振り返らず、祭壇の間から逃げるように出たところで、開いた扉の影に佇むダリュスカインと目が合った。
「いつから……」
「入っていくのが見えたので」
ダリュスカインは静かに答えた。その瞳に、冷ややかな軽蔑の感情をちらつかせて。
──聞いていたのか。
啼義は胸の奥が押し潰されそうな息苦しさを覚え、言葉もなく身を翻し走り去った。
「どうなさるおつもりですか」
ダリュスカインは靂の前に進み出て、尋ねた。
靂は廟を見つめたまま、振り返らない。
「私が、始末いたしますか」
「……誰をだ」
「啼義様は、いけません」
靂は振り返り、ダリュスカインを見つめた。しばしの沈黙。
「もしそうなら──私がやろう」
腰に下げた刀の柄を握り、靂が抑揚のない声で答えた。
「まだ、"もし"とおっしゃるのですか」
臆することなく、ダリュスカインは言った。彼の赤い瞳と、靂の金の瞳の視線が真っ向から重なる。
「お前は案ずるな。目的は必ず達する」
まるで自分に言い聞かせているようだと、靂は内心思った。そうだ、忘れるはずがない。この二十年近く、追い続けてきた目的を。しかしその一方で、靂は指先に、自分にしか分からないほどの微かな震えを感じていた。
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