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第七話
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雲行きが怪しくなってきて、結迦は心細さに震えた。
今、自分は何処にいるのだろう? だいぶ道を引き返して来たように思うが、未だに自分の居場所に見当がつかない。そんなに遠くまで、道を逸れて進んでいたのだろうか。
<境界線を、出てなければ良いのだけど>
星莱の社とその周辺は、社の奥にある慈源の祠の発する謎の気によって、魔物が立ち入ることはない。それを、境界線と呼んでいる。
結迦たちが暮らす小屋は、社から少し離れてはいるものの、その範囲内である。薬草を摘みに行くのも、境界線を超えぬよう、確実にその効果が働く場所に限定しているのだ。
少しでも覚えのある場所に出られれば安心できるのだが。せめてどの辺りにいるのか、心の拠り所が欲しい。こんな時、森羅万象の声が捕まえられたなら──呼吸するように自然に感じていた、声ならぬ声を。
結迦はしばし、意識を周囲の木々、そして風の流れに向けた。
どれくらいそうしていただろう。気づけば、微かに雪が舞っている。
<聴こえない──何も>
神呼としての能力は、もう完全に枯渇してしまったのだろうか。
雪を踏みしめて進んでいたので、さすがに足が疲れてきた。少し休みたい。
辺りを探ると、雪の中にぽっかり口を開けている洞を見つけた。
あの大きさなら、自分が入れそうだ。雪が積もっていて判別がつかないが、上に見える巨木の根本に開いているもののようだった。
ひとまずその中に身を屈めると、完全な外よりは幾分寒さがましになった。結迦は腰元に付けている巾着から豆を取り出し、何粒かを口に含む。さしたる味気はないが栄養素の高い豆は、旅人が持ち歩く食料の一つだ。次に、革を蝋で補強した水筒で喉を潤した。
ほんの少し休んだら、降る雪に足跡が埋まる前に、また歩こう。
不意に、結迦の頬を風が撫でた気がした。気配を感じて顔を上げると、雪が舞う中で久方ぶりに──聴こえた。
木々が、ざわめいている。
「何?」
森羅万象の声は、耳に届く音ではない。言語ですらないそれを、結迦はこめかみの辺りで捉えた。
<警告>
ざわめきは、結迦に危険を告げている。背中に緊張が走った。何処かに危険が潜んでいる。まさか──
振り向いた背後に、熟れた果実のような赤い目が三つ、光った。
「──!」
悲鳴すら上げられずに、瞬間的に洞から転がり出た。
雪を掻き分けて必死に距離を取ろうと進んだ先に──幾つものゆらめく水のような青い巨体が、人のように二本足で立って結迦を取り囲んでいる。その頭にあたるであろう部分には皆、やはり赤い目が三つ。
思考が止まった。成す術もなく硬直し立ちすくむ結迦に、一体が高く腕を振り上げて襲いかかる。
ズバッ──!
結迦の視界を、赤が、支配した。
思わず目を瞑った鼻先を、焦げたような匂いがつく。
「伏せろ結迦っ!」声が降ってきた。
視界に立ちはだかった赤が、ダリュスカインの外套だと気づいた結迦を振り向くことなく、彼は素早く左腕を水平に払い、炎を繰り出した。
炎の波が一列目の魔物たちを薙ぎ払って、焼けつく匂いが立ち込める。
瞬間移動で飛び込んだダリュスカインは、そこで初めて状況を把握して愕然とした。
集まる魔物は大きくはないが、十体以上が囲んでいる。
<埒があかない。一気に滅さねば増殖する>
咄嗟に、右手を失っていることを忘れ、彼は両の手で紋を切ろうとした。が、存在しない手で紋が切れるわけがない。
<しまっ──!>
己の失態を取り繕う間もなく、眼前には手を振り上げて反撃に出る数体の魔物が迫っていた。
間一髪、片腕を振りかざして火の粉を飛ばして退けたが、切り抜けた一体の手刀がダリュスカインの右頭部から肩までを裂いた。血の赤が、雪の白に鮮やかに散る。
「くっ!」
目が眩むような衝撃の中、ほとんど本能で、結迦を背に隠したまま再度掌から火の粉を撒き、魔物が怯んだ隙に数歩下がって距離を取ると、左腕を振り上げて大きく弧を描いた。すかさず、今度は左手だけで複雑な紋を素早く切る。
「炎舞環──!」
まさにすれすれのタイミングで、それは間に合った。
強烈な炎が、赤を通り越して白い火柱に変化し、寸でのところで魔物たちの踏み込みを遮った。火柱はダリュスカインと結迦を中心にして、大きな光の円型になって駆け抜ける。次にはそれを追いかけるように橙の火の手が周り、熱風が巻き起こった。
ブワッ!──と、爆発とも蒸発ともつかないくぐもった音を上げ、炎は自らの意志を持ったかのように魔物たちを次々と飲み込んで蠢いたあと、空へ巻き上がって掻き消えた。
立ち込めた熱気が、冬の風に吹かれて冷気に変わる。
結迦が恐る恐る目を開けて周囲を伺うと、半径五メートルほどに渡り、雪は消し飛び、木々もいくらか焼け、あちらこちらから煙が上がっていた。
目の前には、肩を大きく上下し、荒い息を吐きながらしゃがみこんでいるダリュスカインの背中がある。外套の右肩の部分は裂け、右頭部は──金の髪がべっとりとした血に染まっていた。
「カイン!」
ダリュスカインの前に周り、結迦は彼の伏せた顔を覗き込んだ。秀麗な顔は苦悶に歪み、頭部からの血が頬に伝って、足元に残った白い雪に赤い花のように落ちて広がる。
彼はなんとか顔を上げ、結迦の無事を確認すると、紅い瞳に安堵の色を浮かべ──左腕で彼女を抱き寄せた。
「怪我はないか?」
結迦は強く頭を振る。ダリュスカインは口元を緩めて息を吐き、右上腕で結迦の震える身体を包むように押さえ、左手で彼女の頭をそっと撫でた。だが次の瞬間、ハッと気づいてその身を離す。
「すまん。血が付くな」
血塗れの右半身を結迦から隠すように身体を捻ったダリュスカインだったが、痛みが走ったのか顔を顰めた。
「手当てをしないと。薬草がここに……」
慌てた結迦を手で制し、彼は気力を振り絞って立ち上がった。
「ひとまず、安全なところまで戻ろう。道は、雪を溶かしてきたから分かる」
今、自分は何処にいるのだろう? だいぶ道を引き返して来たように思うが、未だに自分の居場所に見当がつかない。そんなに遠くまで、道を逸れて進んでいたのだろうか。
<境界線を、出てなければ良いのだけど>
星莱の社とその周辺は、社の奥にある慈源の祠の発する謎の気によって、魔物が立ち入ることはない。それを、境界線と呼んでいる。
結迦たちが暮らす小屋は、社から少し離れてはいるものの、その範囲内である。薬草を摘みに行くのも、境界線を超えぬよう、確実にその効果が働く場所に限定しているのだ。
少しでも覚えのある場所に出られれば安心できるのだが。せめてどの辺りにいるのか、心の拠り所が欲しい。こんな時、森羅万象の声が捕まえられたなら──呼吸するように自然に感じていた、声ならぬ声を。
結迦はしばし、意識を周囲の木々、そして風の流れに向けた。
どれくらいそうしていただろう。気づけば、微かに雪が舞っている。
<聴こえない──何も>
神呼としての能力は、もう完全に枯渇してしまったのだろうか。
雪を踏みしめて進んでいたので、さすがに足が疲れてきた。少し休みたい。
辺りを探ると、雪の中にぽっかり口を開けている洞を見つけた。
あの大きさなら、自分が入れそうだ。雪が積もっていて判別がつかないが、上に見える巨木の根本に開いているもののようだった。
ひとまずその中に身を屈めると、完全な外よりは幾分寒さがましになった。結迦は腰元に付けている巾着から豆を取り出し、何粒かを口に含む。さしたる味気はないが栄養素の高い豆は、旅人が持ち歩く食料の一つだ。次に、革を蝋で補強した水筒で喉を潤した。
ほんの少し休んだら、降る雪に足跡が埋まる前に、また歩こう。
不意に、結迦の頬を風が撫でた気がした。気配を感じて顔を上げると、雪が舞う中で久方ぶりに──聴こえた。
木々が、ざわめいている。
「何?」
森羅万象の声は、耳に届く音ではない。言語ですらないそれを、結迦はこめかみの辺りで捉えた。
<警告>
ざわめきは、結迦に危険を告げている。背中に緊張が走った。何処かに危険が潜んでいる。まさか──
振り向いた背後に、熟れた果実のような赤い目が三つ、光った。
「──!」
悲鳴すら上げられずに、瞬間的に洞から転がり出た。
雪を掻き分けて必死に距離を取ろうと進んだ先に──幾つものゆらめく水のような青い巨体が、人のように二本足で立って結迦を取り囲んでいる。その頭にあたるであろう部分には皆、やはり赤い目が三つ。
思考が止まった。成す術もなく硬直し立ちすくむ結迦に、一体が高く腕を振り上げて襲いかかる。
ズバッ──!
結迦の視界を、赤が、支配した。
思わず目を瞑った鼻先を、焦げたような匂いがつく。
「伏せろ結迦っ!」声が降ってきた。
視界に立ちはだかった赤が、ダリュスカインの外套だと気づいた結迦を振り向くことなく、彼は素早く左腕を水平に払い、炎を繰り出した。
炎の波が一列目の魔物たちを薙ぎ払って、焼けつく匂いが立ち込める。
瞬間移動で飛び込んだダリュスカインは、そこで初めて状況を把握して愕然とした。
集まる魔物は大きくはないが、十体以上が囲んでいる。
<埒があかない。一気に滅さねば増殖する>
咄嗟に、右手を失っていることを忘れ、彼は両の手で紋を切ろうとした。が、存在しない手で紋が切れるわけがない。
<しまっ──!>
己の失態を取り繕う間もなく、眼前には手を振り上げて反撃に出る数体の魔物が迫っていた。
間一髪、片腕を振りかざして火の粉を飛ばして退けたが、切り抜けた一体の手刀がダリュスカインの右頭部から肩までを裂いた。血の赤が、雪の白に鮮やかに散る。
「くっ!」
目が眩むような衝撃の中、ほとんど本能で、結迦を背に隠したまま再度掌から火の粉を撒き、魔物が怯んだ隙に数歩下がって距離を取ると、左腕を振り上げて大きく弧を描いた。すかさず、今度は左手だけで複雑な紋を素早く切る。
「炎舞環──!」
まさにすれすれのタイミングで、それは間に合った。
強烈な炎が、赤を通り越して白い火柱に変化し、寸でのところで魔物たちの踏み込みを遮った。火柱はダリュスカインと結迦を中心にして、大きな光の円型になって駆け抜ける。次にはそれを追いかけるように橙の火の手が周り、熱風が巻き起こった。
ブワッ!──と、爆発とも蒸発ともつかないくぐもった音を上げ、炎は自らの意志を持ったかのように魔物たちを次々と飲み込んで蠢いたあと、空へ巻き上がって掻き消えた。
立ち込めた熱気が、冬の風に吹かれて冷気に変わる。
結迦が恐る恐る目を開けて周囲を伺うと、半径五メートルほどに渡り、雪は消し飛び、木々もいくらか焼け、あちらこちらから煙が上がっていた。
目の前には、肩を大きく上下し、荒い息を吐きながらしゃがみこんでいるダリュスカインの背中がある。外套の右肩の部分は裂け、右頭部は──金の髪がべっとりとした血に染まっていた。
「カイン!」
ダリュスカインの前に周り、結迦は彼の伏せた顔を覗き込んだ。秀麗な顔は苦悶に歪み、頭部からの血が頬に伝って、足元に残った白い雪に赤い花のように落ちて広がる。
彼はなんとか顔を上げ、結迦の無事を確認すると、紅い瞳に安堵の色を浮かべ──左腕で彼女を抱き寄せた。
「怪我はないか?」
結迦は強く頭を振る。ダリュスカインは口元を緩めて息を吐き、右上腕で結迦の震える身体を包むように押さえ、左手で彼女の頭をそっと撫でた。だが次の瞬間、ハッと気づいてその身を離す。
「すまん。血が付くな」
血塗れの右半身を結迦から隠すように身体を捻ったダリュスカインだったが、痛みが走ったのか顔を顰めた。
「手当てをしないと。薬草がここに……」
慌てた結迦を手で制し、彼は気力を振り絞って立ち上がった。
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