3 / 12
第二話
しおりを挟む
結迦は、山の奥にある星莱の社の神呼で、宗埜はその社の頭であった。
だが約二年前、社は盗賊たちの襲撃に遭い、人からの攻撃など想定していない聖域ともいえる地は、成す術もなく陥落してしまった。
殺害と自害の地獄絵の果てに、宗埜と結迦のみが生き残り、社から少し離れた、修行や休憩の場として使っていた小屋に逃げ込んだものの、結迦はあまりの凄惨な経験に声を失い、神呼としての能力──森羅万象の声ならぬ声を捉えることも出来なくなった。
人に会うことを極端に恐れるようになった結迦を残すわけにもいかず、宗埜は頭の責任として、集落には下りずに、あの小屋で二人ひっそりと暮らしていたのだ。
そこへ、右前腕を失う大怪我をして倒れていたダリュスカインが加わったのが、秋の始まりのこと。
戦いに敗れ利き腕を失い、絶望と復讐の念に喘ぐダリュスカインの胸の内は、結迦にだけは隠し通すことができなかった。神呼としての能力をなくした彼女にすら感知できるほど、ダリュスカインの波動が強かったのだ。
自身も壮絶な経験をしている結迦が、触れた瞬間に思いがけず捉えてしまった心の悲痛な叫びを、看過できるはずがない。いつしか彼女は心身共に彼に傍に添い、腕を失ったばかりのダリュスカインの手助けをするようになった。彼もまた、声を失った彼女の心傷を思うと、無下に断れはしない。そうして互いの存在が、それぞれの拠り所になっていったのは自然なことだった。
さりとて、ダリュスカインの中に燻る、右腕を奪った相手への憎悪が消えることはなかった。彼はある程度動けるようになると、振り切れぬ執念に決着をつけるべく旅立ちを決めた。
自らも目を逸らしたくなるほどの闇の情念を抱え、無事に抜けた者はいないと言われる祠へ向かうからには、もう戻ってくることはないだろう。結迦はその覚悟すら感じ取っているようで、表面的には止める素振りを見せなかった。
しかし別れを迎えたあの日──結迦はついに、言葉を発したのだ。
ただ一言、「お帰りを、お待ちしています」と。
それが、ダリュスカインが結迦の声を初めて聞いた瞬間だった。
だが結果として、そのたった一言が闇を照らす道標となり、彼は奇跡的な生還を果たした。
再会を果たした結迦は、言葉をすっかり取り戻していた。再びその口から紡がれるようになった声は鈴の音のように耳心地が良く、二十歳という年頃も相まって、ふんわりとした可憐さすら纏うようになっていた。
それだけではない。人のいる場所に出ることへの恐れも克服し、今まで宗埜が担っていた砂來の集落の往来に同行し始めてもいた。その変わりようは、ダリュスカインをただただ驚かせた。
一時は死の淵を彷徨うほどの状況だった彼が、今や日常生活に支障がないほどまでに回復できたのも、結迦の献身的な看護があってこそだ。
年明け間近、ダリュスカインは誰に告げるでもなく生誕日を迎え二十八になったが、ほどなくして齢七十を超える宗埜が体調を崩した。
そうして先月初めて、ダリュスカインは結迦の護衛的な役割でこの集落へ同行することになったのだが──
「兄さん、ええと……カインだっけ?」
隼斗が、結迦が呼んでいた名を思い出すように呼びかけた。それは、彼が幼い頃の呼称であり、今は結迦のみが口にしている。ダリュスカインは本当に反射的に、「ダリュスカインだ」と訂正していた。
「じゃあ、ダリュスカイン。さっき話した雑貨屋に、結迦と二人で行ってもいいですか?」
彼は臆面もなく切り出した。ダリュスカインの紅い瞳が、隼斗の天真爛漫な瞳に向く。
「あ、いや。結迦に見せたい品があって」
ダリュスカインの無言の視線を受け、隼人は言葉を付け足した。
結迦と同い年の青年は、自分たちより八歳も上の自分を、結迦の何とも思っていないようだ。強いていうなら、護衛というだけか──間違ってはいないが。
結迦の目が、僅かな戸惑いを浮かべながらダリュスカインを捉えている。
<どうしろと言うのだ>
結迦が、何かあるごとに、それとなく確認のようにダリュスカインの目を見るのはいつものことだ。なのに、ダリュスカインは初めて、無意識に苛立ちを覚えた。しかし、それを態度に出すほど浅はかではない。
「俺は、近くで待っている」
努めて冷静に、彼は答えた。
だが約二年前、社は盗賊たちの襲撃に遭い、人からの攻撃など想定していない聖域ともいえる地は、成す術もなく陥落してしまった。
殺害と自害の地獄絵の果てに、宗埜と結迦のみが生き残り、社から少し離れた、修行や休憩の場として使っていた小屋に逃げ込んだものの、結迦はあまりの凄惨な経験に声を失い、神呼としての能力──森羅万象の声ならぬ声を捉えることも出来なくなった。
人に会うことを極端に恐れるようになった結迦を残すわけにもいかず、宗埜は頭の責任として、集落には下りずに、あの小屋で二人ひっそりと暮らしていたのだ。
そこへ、右前腕を失う大怪我をして倒れていたダリュスカインが加わったのが、秋の始まりのこと。
戦いに敗れ利き腕を失い、絶望と復讐の念に喘ぐダリュスカインの胸の内は、結迦にだけは隠し通すことができなかった。神呼としての能力をなくした彼女にすら感知できるほど、ダリュスカインの波動が強かったのだ。
自身も壮絶な経験をしている結迦が、触れた瞬間に思いがけず捉えてしまった心の悲痛な叫びを、看過できるはずがない。いつしか彼女は心身共に彼に傍に添い、腕を失ったばかりのダリュスカインの手助けをするようになった。彼もまた、声を失った彼女の心傷を思うと、無下に断れはしない。そうして互いの存在が、それぞれの拠り所になっていったのは自然なことだった。
さりとて、ダリュスカインの中に燻る、右腕を奪った相手への憎悪が消えることはなかった。彼はある程度動けるようになると、振り切れぬ執念に決着をつけるべく旅立ちを決めた。
自らも目を逸らしたくなるほどの闇の情念を抱え、無事に抜けた者はいないと言われる祠へ向かうからには、もう戻ってくることはないだろう。結迦はその覚悟すら感じ取っているようで、表面的には止める素振りを見せなかった。
しかし別れを迎えたあの日──結迦はついに、言葉を発したのだ。
ただ一言、「お帰りを、お待ちしています」と。
それが、ダリュスカインが結迦の声を初めて聞いた瞬間だった。
だが結果として、そのたった一言が闇を照らす道標となり、彼は奇跡的な生還を果たした。
再会を果たした結迦は、言葉をすっかり取り戻していた。再びその口から紡がれるようになった声は鈴の音のように耳心地が良く、二十歳という年頃も相まって、ふんわりとした可憐さすら纏うようになっていた。
それだけではない。人のいる場所に出ることへの恐れも克服し、今まで宗埜が担っていた砂來の集落の往来に同行し始めてもいた。その変わりようは、ダリュスカインをただただ驚かせた。
一時は死の淵を彷徨うほどの状況だった彼が、今や日常生活に支障がないほどまでに回復できたのも、結迦の献身的な看護があってこそだ。
年明け間近、ダリュスカインは誰に告げるでもなく生誕日を迎え二十八になったが、ほどなくして齢七十を超える宗埜が体調を崩した。
そうして先月初めて、ダリュスカインは結迦の護衛的な役割でこの集落へ同行することになったのだが──
「兄さん、ええと……カインだっけ?」
隼斗が、結迦が呼んでいた名を思い出すように呼びかけた。それは、彼が幼い頃の呼称であり、今は結迦のみが口にしている。ダリュスカインは本当に反射的に、「ダリュスカインだ」と訂正していた。
「じゃあ、ダリュスカイン。さっき話した雑貨屋に、結迦と二人で行ってもいいですか?」
彼は臆面もなく切り出した。ダリュスカインの紅い瞳が、隼斗の天真爛漫な瞳に向く。
「あ、いや。結迦に見せたい品があって」
ダリュスカインの無言の視線を受け、隼人は言葉を付け足した。
結迦と同い年の青年は、自分たちより八歳も上の自分を、結迦の何とも思っていないようだ。強いていうなら、護衛というだけか──間違ってはいないが。
結迦の目が、僅かな戸惑いを浮かべながらダリュスカインを捉えている。
<どうしろと言うのだ>
結迦が、何かあるごとに、それとなく確認のようにダリュスカインの目を見るのはいつものことだ。なのに、ダリュスカインは初めて、無意識に苛立ちを覚えた。しかし、それを態度に出すほど浅はかではない。
「俺は、近くで待っている」
努めて冷静に、彼は答えた。
1
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。


【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

三度目の嘘つき
豆狸
恋愛
「……本当に良かったのかい、エカテリナ。こんな嘘をついて……」
「……いいのよ。私に新しい相手が出来れば、周囲も殿下と男爵令嬢の仲を認めずにはいられなくなるわ」
なろう様でも公開中ですが、少し構成が違います。内容は同じです。

五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる