龍は暁に啼く

高嶺 蒼

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第三部 新たな己への旅路

SS 雷砂とシンファ②

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 暖かなお布団の中で、温かで優しい人の腕に抱かれて。
 雷砂はゆっくりと眠りの淵から意識を浮上させる。

 聞こえてくるのは、朝を知らせる小鳥の鳴き声。
 その声がいつもよりも、たくさん、しかも大きく聞こえるような気がするのは気のせいだろうか。
 母親のこだわりで、頻繁に太陽にさらされているお布団は、いつもは太陽の匂いがするのに、今日はなんだか少し獣臭い。
 そんな些細な違いに首を傾げながら、雷砂は慣れない匂いから逃げるように自分を守るように抱いてくれる人の胸へ顔を埋めた。
 すると代わりに感じるのは甘酸っぱいような汗の匂い。

 雷砂は鼻先に触れる瑞々しい肌の感触に、再び首を傾げる。
 夜は肌触りのいい寝間着を着込んで寝るのが習慣の母親が、今日に限ってそれを身につけていないのは何でだろう、と。

 だが、そんなこと、今の雷砂にとってはどうでもいいことだった。
 冷たくなったはずの母親がここにいる。
 いつもと変わらないぬくもりで自分を抱きしめてくれている。
 それ以上に重要な事など、今の雷砂にはなく、心地よいまどろみの中でその幸せを噛みしめる。

 そんな気持ちのまま、雷砂は妙に甘えたい気分で、母親の胸元を探った。
 もうおっぱいを離れてずいぶん立つし、母親から叱られると分かってはいたけど。
 五歳にもなって恥ずかしいわよ?と母親の甘い叱責の声が落ちるのを待ちながら、雷砂は三度首を傾げた。
 あれ?お母さんのおっぱい、大きくなった??……と。


 「ん……う……?」


 耳元で聞こえるかすれた声。
 その声は雷砂の耳に残る母親の声よりも少し低い。


 (だ、れ……だろう?)


 急にこみ上げてきた不安に、すうっと背筋が寒くなる。
 雷砂は、顔を埋めていた知らない胸から顔を離して、おそるおそる上を見上げた。

 最初に目に飛び込んできたのは長い黒髪。
 母親と同じ色に思わずほっと息を吐き出す雷砂。
 だが、落ち着いてよく見てみれば、雷砂の見慣れた母親のものよりも長くて艶やかで、明らかに母親とは違っていた。

 雷砂の母親の髪の毛は少し猫っ毛で柔らかな癖があり、日に透けると少し茶色に見えるのだ。
 しかし、今雷砂が見ている髪の毛は、太く真っ直ぐでしっかりしていて、光に透かしてみても茶色には見えそうにないし、母親がいつも嘆いていた芸術的な寝癖など、どう頑張ってもつきそうになかった。

 ということは、やっぱりこの人はお母さんじゃないんだ……とかなり落胆しつつも、雷砂は小さな手を伸ばしてその人の顔を隠している髪の毛をそっと横に避けてみる。
 黒い髪の毛の下から現れたのは、とてもきれいな女の人の顔だった。
 雷砂の母親も綺麗な人だったが、それに負けないくらいに。

 髪をどかされてまぶしいのだろう。
 目をぎゅーっとして眉を寄せ、口もへの字になっている。
 そんな彼女の顔を見て、雷砂は思わずくすりと笑い、その笑いと共に昨夜の出来事を思い出していた。
 母の死と、見知らぬ土地での恐ろしい獣との遭遇、そしてそこから助け出してくれた人のことを。

 彼女は黒く美しい獣で、それと同時に美しく優しい人でもあった。
 獣でもあり、人でもある。
 そんな人、雷砂は今まで見たことがなかった。

 といっても、雷砂が今まで知る世界はとても狭い。
 小さな古いアパートと、近所の公園。
 そんな狭い狭い世界で、母親と二人で体を寄せ合ってひっそりと生きてきた。

 もちろん、たまに訪ねてくる人はいた。
 母親を怒る人、母親を心配する人、そして……雷砂を気味悪そうに見つめる人。

 雷砂を愛してくれたのは、母親だけ。
 いや、それでも雷砂を可愛がってくれた人がいないわけでは無かったが、それでも幼い雷砂にとっては母親が世界の全てだった。

 その母親にはもう二度と会うことは出来ず、雷砂はどこともしれない場所へ放り出されてしまった。
 元の場所……母親と一緒に住んでいたアパートに戻れるのかすらも分からない。

 でも、あの場所へ戻りたいとも、もう思えなかった。
 だって、あの場所には一番大好きな人がいない。
 愛して、愛して、愛して、雷砂の世界の全てだった人は、もう二度と会えない場所へ行ってしまったのだから。

 もうあの場所に、雷砂を愛して必要としてくれる人はいないのだ。
 なら、どこにいたって同じ事だ。

 もそもそと、温かな寝床から出て座り込んだまま、まぶしそうな顔でしぶとく眠る人の顔を見下ろす。
 う~、と唸るその人の眉間のしわはますます険しい。
 そんなにまぶしいのかなと思って、彼女の顔が影になるように体の位置をずらすと、その表情がほわっと緩んだ。
 その様子が可愛くて、思わず口元がふわりと緩む。

 でも、その瞬間、幸せそうな彼女の頬にぽたりと水滴が落ちた。
 どこから水が落ちたんだろうと思いながら、手を伸ばして彼女の頬を拭う。
 だが、水滴は次から次へと落ちてきた。

 どうして……と戸惑っていたら、眠っていた人の目がぱちっと開いて。
 青みがかった黒い瞳が、自分を上からのぞき込んでいる雷砂を認め、驚いたように見開かれる。

 そしてその表情はすぐに慌てたような困ったようなものに変わって。
 彼女は急いで起きあがると、その両手で雷砂の頬をごしごしと擦った。
 きょとんとして彼女の顔を見上げれば、その黒い瞳は心配そうに雷砂を見つめ、


 「どうした?雷砂。なにか、悲しいことでも思い出したのか??」


 そんな問いかけと共に、おずおずと伸びてきた手が雷砂の頭を壊れ物を扱うようにそっと撫でてくれる。
 大丈夫、と答えようとして、言葉が通じないことを思い出した雷砂は、ただ黙って首を横に振る。

 しかし、それでも彼女の雷砂を見つめる瞳は心配そうで。
 どうしたらいいんだろう、と思っていると、ためらいがちに伸びてきた彼女の手が雷砂を抱き上げて、その胸に優しく抱きしめてくれた。


 「い、いやじゃないか?いやだったら、ちゃんと言うんだぞ?」


 その言葉からも、ぎこちなく背中を撫でてくれる手からも、心の底から雷砂を思いやってくれている事が伝わってきて、雷砂はイヤじゃないと首を振り、抵抗することなくそっと彼女の体に身を寄せた。


 「そ、そうか……イヤじゃないか。な、ならいいんだが」


 ほっとしたような声が、雷砂の耳朶を打つ。
 雷砂は目を閉じ、その温もりに身を任せてみた。

 彼女からの悪意は全く感じられず、ただ雷砂を案じる気持ちだけが伝わってくる。
 まるで母親の腕に抱かれているときのような安心感を感じながら、雷砂は自分の頬を彼女の肩に預けた。

 腕の中の存在が、体の力を抜いて警戒心を解いたのが分かったのだろう。
 彼女もまた安堵した様に吐息を漏らし、小さな体を抱く手にそっと力を込めた。


 「雷砂……」


 そうして抱きしめたまま、小さな声で呼びかける。
 返事はない。
 だが、雷砂がきちんと聞いていることは分かっていた。

 名前を呼ばれた小さな体がぴくんと反応し、それからちゃんと聞いているよという風に、肩に乗せられた顔の向きが自分の方へと向けられたから。
 彼女……シンファは口元に柔らかな笑みを浮かべ言葉を続ける。


 「雷砂がどこか行きたい場所が出来るまで……お前が一人で生きていけるようになるまで……」


 抱きしめたまま、少しだけ体を離し、シンファは雷砂の瞳を真っ直ぐにのぞき込んだ。
 稀有な宝石のような、二つの色の違う輝きを。


 「ここで一緒に暮らそう?私を、お前の側にいさせて欲しい」


 じわじわと、その言葉の意味が染み込むように。
 雷砂の可愛らしい瞳が大きく見開かれ、その内心の驚きを隠そうともせずにシンファを見上げてくる。
 シンファは、胸の奥底からこみ上げる雷砂に対する言いようのない愛しさに、自分でも驚きながらも言葉を続けた。


 「イヤだと思ったら遠慮なく言ってくれていい。私とお前は、まだ出会ったばかりだからな。その時は、ちゃんと面倒を見てくれる別の相手をちゃんと紹介する。けど、お前が今、私のことをイヤだと思ってないなら、この先、私をイヤだと思うその時まで、一緒に、いてみないか?」


 そんな選択肢を提示して、雷砂の様子をそっと伺う。
 シンファがちょっと不安そうに見つめる前で、雷砂は一生懸命に首を振る。
 いやじゃない、とシンファに伝えるように。

 だが、それだけでは不十分だと思ったのだろう。
 両方の手をシンファにそっと押し当て、彼女の顔を真っ直ぐに見上げて、唯一知っている言葉で答えた。


 「しんふぁ……」


 たどたどしく、彼女の名を呼ぶ声が愛しくて。
 シンファは目を細めて微笑んだ。


 「それは、私と一緒でいいってことだな?」


 問えば、即座に雷砂の頭が上下に動く。
 そして再びおずおずとシンファの顔を見上げ、


 「しんふぁ」


 とさっきよりしっかりとした声で彼女を呼んだ。
 控えめだけれども可愛らしい笑みを、浮かべて。

 柔らかな金色の髪を撫でて、雷砂のまあるいおでこに自分の額をコツンと押し当て、シンファは笑う。
 目の前の小さな存在に選ばれたこと。
 そのことが、純粋に嬉しくて、ただただ雷砂を愛おしいと感じた。

 わずかに差し込む朝日の中、二人は寄り添いあう。
 それは大切な者を失った雷砂の人生に、新たな家族が生まれた瞬間だった。
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