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第三部 新たな己への旅路
大森林のエルフ編 第一話
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その日は朝からやけに、森の木々が騒いでいた。
木々の声を聞くのに長けた白き森エルフの民ではなく、木々の声を聞くための力に代わり、戦うための力と技に長けたダークエルフの民であるシェズェーリアは、眉をひそめて森の声に耳を澄ませる。
だが、元々森の声を聞く能力の無い彼女の耳に、明確な意味が伝わることはなく、シェズは落ち着かない面もちで空を見上げるのだった。
そんな森の異変に、いっそ森エルフの巫女の元へ行った方がいいのだろうかと一瞬考えた。
だが、すぐに力なく首を振る。
彼女はかつて、その森エルフの巫女から疎まれ、それが原因で里を捨てたはぐれ。
もう長い間里へ戻ったことはなく、里の者と森で行き会っても言葉を交わすことは避けてきた。
そんな彼女がいきなり里の巫女を尋ねた所で、あってもらえるかどうかも分からない。
さらに言えば、当代の巫女は歴代の巫女よりも優秀だ。
きっと、はぐれ者の自分が言うまでもなく、この異変に気づいているに違いないーシェズは自嘲気味に笑い、そして、森のささやきに背を向けて自分の家へと入ろうとした。
だが、一歩家に足を踏み入れたところで足が止まる。
胸の奥からわき起こる焦燥感を、どうしても無視することが出来なくて。
(なにが出来るか分からない……)
彼女は思う。
(だが、取りあえず、森へ出てみよう。もしかしたら、何かつかめるかもしれないしな)
己に言い聞かせるように一つ頷き、彼女は家の扉を閉め直し、木々の間の道なき道へと分け入って行った。
朝から何となく、森の木々が騒がしい日だった。
大森林の奥にひっそりと存在しているエルフ族の里で唯一の巫女である可憐で美しい森エルフは、風になびく金糸の髪を片手でそっと押さえて、空を見上げた。
彼女は耳を澄ませるように目を閉じ、それから小さな吐息と共にゆるく首を振る。
いつもであれば雄弁に語りかけてくる森の木々が、今日はなぜか意味のある言葉を伝えてくることはなかった。
ただただ騒がしい。
森で、何かあったと言うのだろうか?彼女は淡い青の瞳で木々の奥を見通すように見つめる。
だが、その瞳に意味のあるものが映ることはなく、耳に届く音が意味を持つことも無かった。
彼女は再び吐息を漏らし、木々の声に耳を傾けることを諦めた。
その代わりに思う。
この里ではないどこか、広大な大森林のどこかでひっそりと暮らしている一人のエルフの事を。
そのエルフは、かつて巫女である彼女の筆頭護衛官であり、幼なじみでもあった。
褐色の肌に青銀の髪。瞳は左右色違いで、まるで宝石のように美しく、その際だった容貌に誰もが目を奪われるような娘。
ダークエルフである幼なじみは、森エルフである巫女と違い、その体型もメリハリが効いて魅力があり、男達の視線を集めた。
彼女はいつも、そんな幼なじみをうらやましく、時に恨めしく思ったものだった。
そんなある日、二人は一人の男に恋をした。
いや、恋をしたのは自分だけだったのかもしれない、と巫女は思う。
だが、彼女が恋うた相手は、彼女の幼なじみを求めた。彼女の幼なじみが、どれだけその求愛を断ろうとも。
それが、きっときっかけだったのだ。
その日から、誰よりも信頼していたはずの相手は、誰よりも憎い相手となった。
彼女はどうしても愛しい男が欲しかった。
だから。
疑うことなく信頼を向けてくる相手を、罠にかけたのだ。
罠にかけ、陥れ、もう二度とその顔を見なくて良いように遠くへ追いやったはずだった。
だが、上からの信任の厚い彼女を完全に排除するには、少々詰めが甘かったらしい。
長老会の中でも、特に彼女を買っていたダークエルフの長老の一人が、彼女を救い出し、連れ戻してしまったのだ。
その報告を受けた巫女は、余計な事をと笑顔の裏で舌打ちをした。
だが、そんな思いも、目の前に連れてこられた彼女を見た瞬間に霧散した。
失明した右目、美しかった顔の右半分を台無しにした深い深い傷跡。
その損なわれた美貌に、巫女はただ笑みを深くした。
お帰りなさい、戻れて良かったわね、と微笑み伝えると、彼女は傷ついたまなざしで巫女を見つめ、それから黙って頭を下げた。
醜くなった彼女なら、お情けで里においてやっても良いし、元の護衛の仕事を回してやっても良い、そう思ったのだが、使いを差し向けた時にはもう、彼女の姿は里のどこを探しても見あたらなかった。
以来、彼女は里に戻ることなく、ただ一人、大森林の厳しい環境の中に身を置いている。
(あの子は、気づいているのかしらね?この、森のざわめきに)
そんなことを思い、巫女はわずかに遠い目をする。
脳裏に浮かぶのは、幼なじみだった娘の、ただまっすぐな眼差し。
その眼差しを思い出す度、胸の奥のどこかがチクンと痛む気がするのだった。
一座を離れ、セイラ達と別れてから数週間。
大分歩き慣れてきた大森林を歩き回りながら、雷砂はなんとなくいつもとは違う、森のざわめきのようなものを感じていた。
それが、何なのか分からない。
だが、妙に落ち着かない気分で、雷砂は周囲を警戒しながら歩く。
穏やかな木漏れ日の中、そうして歩いているとここが危険な場所であると言うことを思わず忘れてしまいそうになる。
だが、腐ってもここは天下に名の知れた大森林である。
ちょっと油断すれば、見上げるような大きな獣や、見たことも無い不思議な動物、生き物を補食しようとする動き回る植物など、危険は至る所に転がっていた。
しかも、道という道が無く、イルサーダにもらった大ざっぱな地図ではまるで役に立たないという状態で、雷砂は数週間を大森林をうろうろと歩き回る事で無駄にしていた。
まあ、イルサーダの地図を元にちまちまとメモを取りながらなるべく早く抜け出す努力は惜しんでは居なかったが。
(これは、大森林の住人を探し出して案内を頼んだ方がいいかも知れないな)
雷砂はイルサーダから教えられた大森林の住人達の情報を頭に思い浮かべながらそんなことを思った。
この大森林に人の集落は無い。
ここにあるのは、人以外の種族の集落だけだ。
しかも、排他的で偏屈な種族が多いらしく、協力を得るのは難しいだろうと言うのがイルサーダの見解である。
ただ、唯一、大森林の奥の奥に集落を構えるエルフ族は、龍神族との交流があり、ほかの種族に比べればいくらかましだろうとの事だった。
雷砂の中の、龍気を感じられるほどに力を持つエルフが居れば、話は簡単なんですけどねぇ、とイルサーダは言っていた。
昔は、力にあふれたエルフが多くいたようだが、最近は力なき者が増えてきているらしい。
(そうですねぇ。長老衆と呼ばれる、齢800年を優に越えるような高齢のエルフの中には、もしかしたら実力者がいるかも知れません。困ったら訪ねてみては?)
そう言っていたイルサーダの言葉を思い出しつつ、雷砂は木々の間をぬって歩いていく。
その足取りが、やけに重かった。
実の所、今朝目を覚ましたときから、体の調子がおかしかったのだ。
微熱があるのか、頭がぼーっとして重たくて、下腹部に時々刺すような痛みが感じられた。
我慢できない痛みではない。
だが、何とも不快な痛みで、雷砂はまたズキンと痛んだ下腹部を手のひらで押さえ、思わず顔をしかめていた。
特に、何か悪いものを食べた訳でもないと思う。
まあ、調達した素材はもちろん、この大森林でとれたものばかりだったが、元々薬草類の収集に長けた雷砂は、そういったものを見分けるのは得意だった。
毒があるかないかを確かめる方法ももちろん知っているし、はじめてみる採取物は必ず入念にチェックするようにしていた。
それに、何となく、今の体の状態は食べ物にあたった状態とも違う気がしていた。
じゃあ、どういう状態なのかと聞かれても、答えようはなかったが。
(冷たい水で顔を洗えば、少しは頭がすっきりするのかな)
ぼんやりする頭で考えながら、頭を振る。
そして、大森林ですごすうちに見つけ出した水場の一つに向かおうと足を踏み出そうとした時、雷砂はやっとそのことに気がついた。
自分が複数の、害意ある視線にさらされていると言うことに。
(しまった!!頭がぼーっとしてて……)
自分がどうやら、複数の獣に囲まれつつあることに気がついて、雷砂は表情を引き締める。
それほど大きな気配ではない。だが、数が多い。
体調は良くはないが、戦って勝てない数ではないと思い、腰の剣に手をかける。
だが、この大森林を甘く見るのは良くないとすぐに思い直し、雷砂は逃げることを選択した。
戦闘で流れる血が、さらに大きな獣を呼び寄せることを警戒したのだ。
もしそうなったとしても、おそらく切り抜けることは出来る。
だが、森の生き物を意味もなく殺す事は出来れば避けたかった。相手を殺さねばならない、理由を作る事も。
雷砂は相手をなるべく刺激しないように静かに移動をはじめた。
だが、獣達もまた、雷砂の追跡をやめる気配は無かった。
(オレのなにがそんなに奴らを引きつけるんだか……)
内心、苦笑混じりに思いながら、とにかく駆ける。足の遅い獣なら引き離す自信があるのだが、どうやら相手もそれなりに俊足のようだ。
つかず離れず、しっかりとついてくる。
いや、その距離は徐々に詰められて居るような気さえする。
(まずいな……)
少し乱れてきた呼吸に顔をしかめながら思う。
体調が悪いせいか、息が切れるのが早いし、体の動きも悪い。
このままでは獣の群れに飲み込まれるのも時間の問題だろうと思われた。
(相手をするのにちょうどいい場所を見つけて、ちょっと数でも減らすか……?)
そう思った時、不意に視界が開けた。
木々が途切れ、雷砂の目の前には大地に大胆な切り込みを入れたような、深い谷が現れた。
見渡す限り、橋のようなものは見あたらず、かといって飛び越えるには幅が広すぎる。
背後から迫る気配に気を配りながら、雷砂は谷のぎりぎりまで進み出て下を見下ろした。
ちょっと飛び込むには勇気のいる高さだ。
降りるにしても、斜面が急すぎて、道具なしでは少しきつい。
(仕方ない……迂回、するか?)
そう思い、踵を返そうとした瞬間、雷砂の視界にそれは飛び込んできた。
斜面の中程より少し上の辺りにちょうど人一人乗れるほどの出っ張りがあった。
更に上には、太くはないが細すぎもしない木が生えているだけの小さな岩棚があり、その木の枝を上手く使えば、その下の出っ張りに飛び移ることは出来そうに思えた。
更に、その出っ張りの辺りまで行けば、斜面の傾斜もやや緩やかになり、谷底の川まで、何とか下ることも出来そうだ。
ちらりと後ろを振り返り、心を決める。
どちらにしろ、迷っている時間はない。冒険するか、更に逃げるか、選択肢は二つに一つ。
背後から押し寄せる気配に押し出されるように、雷砂は駆けだした。
深く切り立った谷に向かって。
そしてそのまま思い切りよく大地を蹴り、体を宙に舞わせながらふと思う。そういえば、戦うって選択肢もあったか、と。
だが、深く考える間もなく、雷砂は近づいてきた木の太く張り出した枝へと手を伸ばす。
その枝を問題なくつかみ、ほっとしたその時、下腹部を一際鋭い痛みが襲った。
突き刺されるような痛みと、ぬめり気のある液体が、足の間を流れ落ちるような感触。
その不快感に顔をしかめながら、しかし冷静に己の体を操って、当面の目的地である岩の出っ張りへちゃんとたどり着くように、タイミングを計って枝から手を離した。
雷砂の小さな体は、そのまま問題なく、予定の場所へと向かうはずだった。そのまま、何事も起きなかったのならば。
運命が悪戯を仕掛けてきたかのような絶妙のタイミングで、ごう、と風が吹いた。谷間を抜ける、強い風が。
その風は、雷砂の体をふわりと押し上げ、そして、本当なら危なげなく着地できるはずだった出っ張りから、その小さな体を遠ざけた。
必死になって、手を伸ばす。
だが、その指先が岩の端に届くことは無く、雷砂の体はなすすべもなく、下へ下へと落ちていった。
(上手い事、川の深みに落ちる事が出来れば……)
そうすれば、何とかなるはずだと、雷砂は諦めることなく、次に自分がなすべきことを考える。
考えながらふと、雷砂は視線を己が落ちてきたがけの上へとさまよわせた。
なにか、聞こえたような気がしたのだ。獣の声ではない何かが。
だが、それを確かめる暇もなく、その小さな体は重力に引かれ、暗い谷底へと吸い込まれて、見えなくなった。
木々の声を聞くのに長けた白き森エルフの民ではなく、木々の声を聞くための力に代わり、戦うための力と技に長けたダークエルフの民であるシェズェーリアは、眉をひそめて森の声に耳を澄ませる。
だが、元々森の声を聞く能力の無い彼女の耳に、明確な意味が伝わることはなく、シェズは落ち着かない面もちで空を見上げるのだった。
そんな森の異変に、いっそ森エルフの巫女の元へ行った方がいいのだろうかと一瞬考えた。
だが、すぐに力なく首を振る。
彼女はかつて、その森エルフの巫女から疎まれ、それが原因で里を捨てたはぐれ。
もう長い間里へ戻ったことはなく、里の者と森で行き会っても言葉を交わすことは避けてきた。
そんな彼女がいきなり里の巫女を尋ねた所で、あってもらえるかどうかも分からない。
さらに言えば、当代の巫女は歴代の巫女よりも優秀だ。
きっと、はぐれ者の自分が言うまでもなく、この異変に気づいているに違いないーシェズは自嘲気味に笑い、そして、森のささやきに背を向けて自分の家へと入ろうとした。
だが、一歩家に足を踏み入れたところで足が止まる。
胸の奥からわき起こる焦燥感を、どうしても無視することが出来なくて。
(なにが出来るか分からない……)
彼女は思う。
(だが、取りあえず、森へ出てみよう。もしかしたら、何かつかめるかもしれないしな)
己に言い聞かせるように一つ頷き、彼女は家の扉を閉め直し、木々の間の道なき道へと分け入って行った。
朝から何となく、森の木々が騒がしい日だった。
大森林の奥にひっそりと存在しているエルフ族の里で唯一の巫女である可憐で美しい森エルフは、風になびく金糸の髪を片手でそっと押さえて、空を見上げた。
彼女は耳を澄ませるように目を閉じ、それから小さな吐息と共にゆるく首を振る。
いつもであれば雄弁に語りかけてくる森の木々が、今日はなぜか意味のある言葉を伝えてくることはなかった。
ただただ騒がしい。
森で、何かあったと言うのだろうか?彼女は淡い青の瞳で木々の奥を見通すように見つめる。
だが、その瞳に意味のあるものが映ることはなく、耳に届く音が意味を持つことも無かった。
彼女は再び吐息を漏らし、木々の声に耳を傾けることを諦めた。
その代わりに思う。
この里ではないどこか、広大な大森林のどこかでひっそりと暮らしている一人のエルフの事を。
そのエルフは、かつて巫女である彼女の筆頭護衛官であり、幼なじみでもあった。
褐色の肌に青銀の髪。瞳は左右色違いで、まるで宝石のように美しく、その際だった容貌に誰もが目を奪われるような娘。
ダークエルフである幼なじみは、森エルフである巫女と違い、その体型もメリハリが効いて魅力があり、男達の視線を集めた。
彼女はいつも、そんな幼なじみをうらやましく、時に恨めしく思ったものだった。
そんなある日、二人は一人の男に恋をした。
いや、恋をしたのは自分だけだったのかもしれない、と巫女は思う。
だが、彼女が恋うた相手は、彼女の幼なじみを求めた。彼女の幼なじみが、どれだけその求愛を断ろうとも。
それが、きっときっかけだったのだ。
その日から、誰よりも信頼していたはずの相手は、誰よりも憎い相手となった。
彼女はどうしても愛しい男が欲しかった。
だから。
疑うことなく信頼を向けてくる相手を、罠にかけたのだ。
罠にかけ、陥れ、もう二度とその顔を見なくて良いように遠くへ追いやったはずだった。
だが、上からの信任の厚い彼女を完全に排除するには、少々詰めが甘かったらしい。
長老会の中でも、特に彼女を買っていたダークエルフの長老の一人が、彼女を救い出し、連れ戻してしまったのだ。
その報告を受けた巫女は、余計な事をと笑顔の裏で舌打ちをした。
だが、そんな思いも、目の前に連れてこられた彼女を見た瞬間に霧散した。
失明した右目、美しかった顔の右半分を台無しにした深い深い傷跡。
その損なわれた美貌に、巫女はただ笑みを深くした。
お帰りなさい、戻れて良かったわね、と微笑み伝えると、彼女は傷ついたまなざしで巫女を見つめ、それから黙って頭を下げた。
醜くなった彼女なら、お情けで里においてやっても良いし、元の護衛の仕事を回してやっても良い、そう思ったのだが、使いを差し向けた時にはもう、彼女の姿は里のどこを探しても見あたらなかった。
以来、彼女は里に戻ることなく、ただ一人、大森林の厳しい環境の中に身を置いている。
(あの子は、気づいているのかしらね?この、森のざわめきに)
そんなことを思い、巫女はわずかに遠い目をする。
脳裏に浮かぶのは、幼なじみだった娘の、ただまっすぐな眼差し。
その眼差しを思い出す度、胸の奥のどこかがチクンと痛む気がするのだった。
一座を離れ、セイラ達と別れてから数週間。
大分歩き慣れてきた大森林を歩き回りながら、雷砂はなんとなくいつもとは違う、森のざわめきのようなものを感じていた。
それが、何なのか分からない。
だが、妙に落ち着かない気分で、雷砂は周囲を警戒しながら歩く。
穏やかな木漏れ日の中、そうして歩いているとここが危険な場所であると言うことを思わず忘れてしまいそうになる。
だが、腐ってもここは天下に名の知れた大森林である。
ちょっと油断すれば、見上げるような大きな獣や、見たことも無い不思議な動物、生き物を補食しようとする動き回る植物など、危険は至る所に転がっていた。
しかも、道という道が無く、イルサーダにもらった大ざっぱな地図ではまるで役に立たないという状態で、雷砂は数週間を大森林をうろうろと歩き回る事で無駄にしていた。
まあ、イルサーダの地図を元にちまちまとメモを取りながらなるべく早く抜け出す努力は惜しんでは居なかったが。
(これは、大森林の住人を探し出して案内を頼んだ方がいいかも知れないな)
雷砂はイルサーダから教えられた大森林の住人達の情報を頭に思い浮かべながらそんなことを思った。
この大森林に人の集落は無い。
ここにあるのは、人以外の種族の集落だけだ。
しかも、排他的で偏屈な種族が多いらしく、協力を得るのは難しいだろうと言うのがイルサーダの見解である。
ただ、唯一、大森林の奥の奥に集落を構えるエルフ族は、龍神族との交流があり、ほかの種族に比べればいくらかましだろうとの事だった。
雷砂の中の、龍気を感じられるほどに力を持つエルフが居れば、話は簡単なんですけどねぇ、とイルサーダは言っていた。
昔は、力にあふれたエルフが多くいたようだが、最近は力なき者が増えてきているらしい。
(そうですねぇ。長老衆と呼ばれる、齢800年を優に越えるような高齢のエルフの中には、もしかしたら実力者がいるかも知れません。困ったら訪ねてみては?)
そう言っていたイルサーダの言葉を思い出しつつ、雷砂は木々の間をぬって歩いていく。
その足取りが、やけに重かった。
実の所、今朝目を覚ましたときから、体の調子がおかしかったのだ。
微熱があるのか、頭がぼーっとして重たくて、下腹部に時々刺すような痛みが感じられた。
我慢できない痛みではない。
だが、何とも不快な痛みで、雷砂はまたズキンと痛んだ下腹部を手のひらで押さえ、思わず顔をしかめていた。
特に、何か悪いものを食べた訳でもないと思う。
まあ、調達した素材はもちろん、この大森林でとれたものばかりだったが、元々薬草類の収集に長けた雷砂は、そういったものを見分けるのは得意だった。
毒があるかないかを確かめる方法ももちろん知っているし、はじめてみる採取物は必ず入念にチェックするようにしていた。
それに、何となく、今の体の状態は食べ物にあたった状態とも違う気がしていた。
じゃあ、どういう状態なのかと聞かれても、答えようはなかったが。
(冷たい水で顔を洗えば、少しは頭がすっきりするのかな)
ぼんやりする頭で考えながら、頭を振る。
そして、大森林ですごすうちに見つけ出した水場の一つに向かおうと足を踏み出そうとした時、雷砂はやっとそのことに気がついた。
自分が複数の、害意ある視線にさらされていると言うことに。
(しまった!!頭がぼーっとしてて……)
自分がどうやら、複数の獣に囲まれつつあることに気がついて、雷砂は表情を引き締める。
それほど大きな気配ではない。だが、数が多い。
体調は良くはないが、戦って勝てない数ではないと思い、腰の剣に手をかける。
だが、この大森林を甘く見るのは良くないとすぐに思い直し、雷砂は逃げることを選択した。
戦闘で流れる血が、さらに大きな獣を呼び寄せることを警戒したのだ。
もしそうなったとしても、おそらく切り抜けることは出来る。
だが、森の生き物を意味もなく殺す事は出来れば避けたかった。相手を殺さねばならない、理由を作る事も。
雷砂は相手をなるべく刺激しないように静かに移動をはじめた。
だが、獣達もまた、雷砂の追跡をやめる気配は無かった。
(オレのなにがそんなに奴らを引きつけるんだか……)
内心、苦笑混じりに思いながら、とにかく駆ける。足の遅い獣なら引き離す自信があるのだが、どうやら相手もそれなりに俊足のようだ。
つかず離れず、しっかりとついてくる。
いや、その距離は徐々に詰められて居るような気さえする。
(まずいな……)
少し乱れてきた呼吸に顔をしかめながら思う。
体調が悪いせいか、息が切れるのが早いし、体の動きも悪い。
このままでは獣の群れに飲み込まれるのも時間の問題だろうと思われた。
(相手をするのにちょうどいい場所を見つけて、ちょっと数でも減らすか……?)
そう思った時、不意に視界が開けた。
木々が途切れ、雷砂の目の前には大地に大胆な切り込みを入れたような、深い谷が現れた。
見渡す限り、橋のようなものは見あたらず、かといって飛び越えるには幅が広すぎる。
背後から迫る気配に気を配りながら、雷砂は谷のぎりぎりまで進み出て下を見下ろした。
ちょっと飛び込むには勇気のいる高さだ。
降りるにしても、斜面が急すぎて、道具なしでは少しきつい。
(仕方ない……迂回、するか?)
そう思い、踵を返そうとした瞬間、雷砂の視界にそれは飛び込んできた。
斜面の中程より少し上の辺りにちょうど人一人乗れるほどの出っ張りがあった。
更に上には、太くはないが細すぎもしない木が生えているだけの小さな岩棚があり、その木の枝を上手く使えば、その下の出っ張りに飛び移ることは出来そうに思えた。
更に、その出っ張りの辺りまで行けば、斜面の傾斜もやや緩やかになり、谷底の川まで、何とか下ることも出来そうだ。
ちらりと後ろを振り返り、心を決める。
どちらにしろ、迷っている時間はない。冒険するか、更に逃げるか、選択肢は二つに一つ。
背後から押し寄せる気配に押し出されるように、雷砂は駆けだした。
深く切り立った谷に向かって。
そしてそのまま思い切りよく大地を蹴り、体を宙に舞わせながらふと思う。そういえば、戦うって選択肢もあったか、と。
だが、深く考える間もなく、雷砂は近づいてきた木の太く張り出した枝へと手を伸ばす。
その枝を問題なくつかみ、ほっとしたその時、下腹部を一際鋭い痛みが襲った。
突き刺されるような痛みと、ぬめり気のある液体が、足の間を流れ落ちるような感触。
その不快感に顔をしかめながら、しかし冷静に己の体を操って、当面の目的地である岩の出っ張りへちゃんとたどり着くように、タイミングを計って枝から手を離した。
雷砂の小さな体は、そのまま問題なく、予定の場所へと向かうはずだった。そのまま、何事も起きなかったのならば。
運命が悪戯を仕掛けてきたかのような絶妙のタイミングで、ごう、と風が吹いた。谷間を抜ける、強い風が。
その風は、雷砂の体をふわりと押し上げ、そして、本当なら危なげなく着地できるはずだった出っ張りから、その小さな体を遠ざけた。
必死になって、手を伸ばす。
だが、その指先が岩の端に届くことは無く、雷砂の体はなすすべもなく、下へ下へと落ちていった。
(上手い事、川の深みに落ちる事が出来れば……)
そうすれば、何とかなるはずだと、雷砂は諦めることなく、次に自分がなすべきことを考える。
考えながらふと、雷砂は視線を己が落ちてきたがけの上へとさまよわせた。
なにか、聞こえたような気がしたのだ。獣の声ではない何かが。
だが、それを確かめる暇もなく、その小さな体は重力に引かれ、暗い谷底へと吸い込まれて、見えなくなった。
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