扉〜とびら〜

直哉

文字の大きさ
上 下
4 / 5
コウゾウ

扉〜とびら〜

しおりを挟む
 掛かりつけの東京駅の近くにある病院から、広尾の、この病院まで救急車で運ばれた。
 ここ最近、呼吸をするときに、胸のあたりが、苦しく思う日々が続いていた。また、就寝するとき、やはり横になると呼吸しづらいことから、ソファーで横になっていた。
 東京駅近くの病院の担当医は、飲み薬の処方で、数日たっても苦しいようなら、また再診しましょうと言ったが、コウゾウが、苦しいことをさらに訴えると、担当医も、念のためということで、レントゲンを撮ったところ、肺に水が溜まっていることがわかった。そして、この病院には、呼吸器科が無かったため、急遽、広尾にある総合病院に運ばれていた。
 それから、まもなくして、コウゾウが「肺がん」であることが、診断された。
 肺に溜まっていた水は、局部麻酔後、管から体外に放出できるよう、簡単な手術がされた。それにより、ずいぶん呼吸が楽になっていた。コウゾウは、数々の病を経験してきたが、病名と年齢から、長くはないこと悟っていた。
 消灯時間を過ぎて、アイボリーの壁の色が、薄いグレーになった病院の個室で、眼を閉じていると、どこからともなく、軍歌が聞こえた。コウゾウは、ラジオだろうかと、考えたが聞こえかたが、不自然だった。病室のドアは開いているとはいえ、明らかに、ひとりきりであるこの部屋の内から、聞こえていた。
 そして、次の夜は、天井が回りだし、地震と間違えるほどだった。
 それらが、医師から投与された薬によるものなのかどうかは、わからないが。コウゾウは、夜間何度も、ナースコールで、看護士達を呼んだ。
 体力の消耗は、点滴でかろうじて補っていた。口のなかの「苦味」が、ほとんどの食べ物を不味く感じさせ、病院の食事をとることができなくなっていた。
 コウゾウは、自分がこの病院に入院してから、毎日見舞いに来ている、妻のリョウコや、ほぼ毎日、仕事の帰りに来てくれるトモヤの体の心配をしていた。自分も辛いが、「肺がん」の診断に、彼らが、精神的にも体力的にも、参ってしまわなければいいのだが。と思っていた。見舞いに来てくれると、ありがたいと思う感謝の気持ちのあとに、それらの心配が込み上げてきた。今までは、家族を自分が中心となって守ってきたが、今回は、自分では、どうすることもできないことが、コウゾウには、もどかしくもあった。
 コウゾウは、ベッドに横になり、アイボリーの天井を見つめていると、人生で起きた、いろいろなことが、思い浮かんできた。
 コウゾウの母、タエは、トモヤの実父が、兄弟の末っ子ということもあり、たいそう気に留めていた。トモヤの実父の事業の失敗でできた借金を、千代田区九段下の住まいを売却。そして、都落ちするような、悔しい気持ちのなか、今の住まいに移ったこと。郊外の奇麗な家だが、コウゾウは、それ以上に、区民から市民になることが、やるせなかった。しかも、自分の失敗ではなく、もともとは自分の弟による失敗になのだ。
 腕利きの宮大工であったタエの夫が亡くなると、不動産などの名義はタエが相続した。そして、ヤマザキ家のなかで、実権を握っていた。そのような状態のなか、いつも渋々、家族はタエの決定に従うほかなかった。それでも、コウゾウにとって、タエは、母親であり、敬う存在だった。
 このころ、弟夫婦は、育児放棄に近い状態だったことと、リョウコとの間に、子供ができなかったことから、トモヤを引き取ることになった。
 もちろん、事の発端となった弟の子供だったが、子供には罪は無く、トモヤの小さく弱々しい姿に、「どうにかしてあげなくては・・・。」という思いのほうが、勝っていた。
 幸い、リョウコもトモヤのことを、自分の子供の様・・・いや、自分の子供として育ててくれたことにも感謝していた。きっと、リョウコも、トモヤが山崎家にきてくれたおかげで、跡取りのことで、タエから受ける無言のプレッシャーから、少しは逃れることができたのだろう。
 リョウコは、富山の氷見市にある、寺の住職の娘で、コウゾウとリョウコは、縁あって、見合いで結婚した。リョウコは、寺の娘だけあり、無口で温厚であり、人の悪口を一切言わない性格だった。 
 近所に住む主婦のなかには、ごく少人数だが、リョウコのことを、信頼できる存在として、一目置くものもいた。
 コウゾウは、そんなリョウコだからこそ、ヤマザキ家の嫁として、文句も言わず、やり遂げることができるのだと、心のなかで、感謝していた。

 狭い病室のかなで、リョウコが、小さな冷蔵庫に、コウゾウに頼まれた、一口大のクラッシュアイスやら、ミネラルウォーターを、丁寧に収めていた。
 視野に入る、リョウコの姿に、ふと、自分の妻で幸せだったのか、本人に聞きたくなった。自分には、もうそのことを聞く機会が、限られている。しかし、コウゾウは、それは愚問だと思い留まった。  
 鼻に通されたチューブに、もうだいぶ慣れたとはいえ、少しの違和感を感じつつ、軽く瞼を閉じた。
 

 広大な自然の中から吹いてくる風は、木々を軽やかに揺らした。ヤコブセンの鮮やかな緑色のチェアーに座る、コウゾウの頬もかすめた。
 那須の十一月は、日中でも、少し肌寒かった。宿泊している部屋のテラスに繋がる、大きな木枠のガラス戸を閉めた。
 コーヒーミルで、豆を挽いていると、敷地内の森へ、散歩に出かけていたリョウコとトモヤが帰ってきた。トモヤが、「この扉に慣れたことには、帰るんだよな」と呟いた。
 部屋から、外へ出る木製の扉は、ただでさえ重いうえ。ことさら、周りの森から受ける湿気により、開閉の際、開けづらくなった。そのことは、チェックインのときに、ホテルのスタッフより、教えてもらえるのだが、見るのと、実際にするのでは違いがあり、慣れるまでには、時間が掛かった。
 それは、ルームキーを差し込みながら、少し上に押し上げるようにすると開くのだが。
 施設は、小川の流れる広大な森のなかに、点在して佇んでいた。そこには、レセプションとレストランが入る建物。宿泊棟があった。 宿泊棟は二部屋ごとに、コテージのようになっていた。建物の外壁は、すべてコンクリートなのだが、ドアや窓、各部屋のテラスが木製だった。また、部屋のインテリアは、有名インテリアショップによりコーディネートされていた。華美ではないが、落ち着いた雰囲気の洗練されたリゾートホテルだ。
 コウゾウは建築だけでなく、インテリアにも拘りが強かった。このホテルの内装をコーディネートした、インテリアショップも、頻繁に利用している店のひとつだった。
 ここ数年、ヤマザキ家では、一年に一回の旅行で、このホテルを訪れることが、恒例となっていた。
 それまでは、いろいろな問題が沸き起こっていたため、リョウコとは、泊まりがけの旅行どころか、新婚旅行も行ったことがなかった。お互い歳をとり、リョウコに対して、せめてもの罪滅ぼしでもあった。勿論、リョウコが、今まで一度も、旅行に行けなかったことで、コウゾウを責めたことは一度も無かった。
 コウゾウが、二人にそれとなく眼を向けると、いつもよりリラックスした、柔らかい表情のように思えた。
 そして、コーヒーミルにさらに二人分の豆を追加した。それを、ゆっくりと確実に、豆がミルから、飛び出さぬように挽きだした。
 リョウコは、無言で三人分のカップとソーサーを、コウゾウのもとへ運んだ。 

 夕方六時のディナーの予約時間に間に合うように、部屋からレンストランがある建物まで、三人は歩いていた。レストランはカジュアルフレンチ。コウゾウとトモヤは、ラフなジャケットを、羽織っていた。リョウコは、二人に比べると、畏まった白いジャケットを着ていた。
 辺りはもう暗く、ダークブルーのバックに、星が厳かに輝きを放っていた。
 レセプションの建物の、大きな扉を開け、暖炉の脇で、コウゾウらは、スタッフと軽く挨拶を交わした。さらに奥のレストランに向けて進んだ。今度は大きく重い扉を、先ほど挨拶を交わしたスタッフが開けた。
「六時に予約している、ヤマザキですが」
とコウゾウが告げると、レストランスタッフが、
「お待ちいたしておりました、どうぞ、こちらへ」
と、窓際の席に通された。
 メニューを、持って来たスタッフが、本日お勧めのワインや、料理を告げたのち、軽く頭を下げて、厨房のほうへ戻っていった。
 コウゾウとリョウコは、ペリエ。トモヤは、食前酒に、グラッパを頼んだ。さらに、その後、トモヤは、カルベネソービニヨンの赤をグラスで三杯頼んだ。
 コウゾウは、このフレンチを箸で食した。

 この建物は傾斜した場所にあり、レストランからは、辺りを見渡せる高台の景色が楽しめた。窓の外は、ダークブルーで覆われていたが、通路の外灯が、黄色くコンクリートと、植栽を照らしていた。
 また、ときたま、このレストラン施設の下階にあるスパに、ホテルが用意した、綿の入ったアウターを着用した客が、出入りしていた。
 コウゾウは、日頃から無口だった。そして、食事中もいつも無口だ。また、リョウコも食事中は、あまり話すほうではなかった。
 そのなか、ほどよく酔いがまわったトモヤが、グリルを用いた、ダイナミックかつ繊細な味わいに、至極満足した感想を話した。
 そして、二人に同意を求めた。
 コウゾウは、那須北和牛のステーキを刻み、箸で口に運びながら、静かに頷いた。
 リョウコは、ホテルの敷地内で獲れた、有機野菜のカボチャを、繊細な盛りつけを慈しむように、フォークで刺しながら、頷いた。
 リョウコが、家にいるときよりも、食が進んでいるように思い、コウゾウは、今年もこのホテルに一緒に来られたことが良かったと、思った。さらに、このホテルに来ると、家族の絆がより一層強く感じられた。
 トモヤを養子として迎え入れ、実の子のように育ててきたつもりだった。だが、そのことを無意識のうちに意識してしまい、トモヤが言う事をきかないときは、「お前なんか出て行け、うちの子供じゃない。実の父親にところに行け!」と叱咤するつもりが、罵声になり、トモヤに浴びせてしまったことが度々あった。
 そして、トモヤの思春期の頃は、親子喧嘩が絶えなかった。思春期の子供を持つ家庭なら、多かれ少なかれ、家庭環境が難しくなることに加えて、ヤマザキ家の場合は、家庭環境が複雑だったことで、さらに難しく、解けない知恵の輪のようになっていた。
 コウゾウは、言葉では、度々酷いことを言ってしまった。だが、幼いころ、トモヤが受けた、実の母親からの虐待や、離婚を期に、実の父が、安易にトモヤを手放してしまったことを考えると、これからの彼の人生は、幸せになってほしいと、心底思っていた。だから、彼が困らぬように、選択肢を少しでも増やすためにも、良い学校で学んでほしかったのだ。学歴が社会に対するパスポートのようなものだと思っていたからこそ、勉強するよう、常日頃から厳しく言った。
 高校卒業後の進路についても、激しく衝突した。
 トモヤは、高校生活三年間の夏休みに、ホームステイで渡米していたことから、海外に留学し、グラフィックデザインをアメリカの大学で学ぶことを希望していた。ところが、コウゾウは、ヤマザキ家のひとり息子を、海外に長期間、行かせることに不安を抱き、強く反対した。
 コウゾウは、トモヤに、国内の美術大学を勧めたのだが、トモヤは、首を縦には振らなかった。それ以降、二人は、必要以上の会話をしなくなった。
  
 二年後、トモヤが二十歳。
 コウゾウは、トモヤに、BMWを買い与えた。トモヤは、一年ほど、モデルだかフリーターのような生活をしたが、次の年には、グラフィックデザインの専門学校に、入学していた。
 コウゾウは、自分が望んだ道とは、違うと思ったが、国内で学んでもらえるなら、しかたがないと思った。
 この頃には、インテリアや、デザインの知識が豊富なコウゾウと、共通の話題も増え。トモヤから、話かけるようになっていた。  
 コウゾウは、自動車の免許を持っていなかった。
 だが昨年、自動車免許を取ったトモヤは、子供のころから大のクルマ好きだということも、コウゾウは理解していた。
 もし、家に自動車があったら、便利だという思いもめぐり、それを買い与えたのだった。
 また、トモヤが数年かけて、準備していた留学へ、行かせてやれなかったことに対しての、自責の念でもあった。
 BMWのセダンが納車された日、久しぶりに、コウゾウは、トモヤの素直で無邪気な顔を見た。
 そのクルマは、ヤマザキ家の自宅駐車場で、ダークブルーだが、光があたるエッジの部分が、少しパープルがかったブルーに輝いていた。
 それからは、コウゾウ、リョウコ、トモヤ(たまに、カズエ)は、買い物、墓参りと、久しぶりに、一緒に出かけることが多くなった。
 もちろん、トモヤがひとりで、乗っていくことが、一番多いのだが。
 その後、買い替える度、BMWの内装と、外装のカラーコーディネートを、トモヤが相談してくれることが嬉しかった。それを、コウゾウも楽しんだ。
 なにしろ、コウゾウは、仕事でも、色に携わり、自宅の家具も拘りが強く、知識が豊富だった。
 パンフレットの、四角い色見本を見ただけで、革と外装色の完成図が、頭のなかで想像できた。また、トモヤも、子供のころから見ていた、自動車雑誌から得た知識で、コウゾウと同じ様に、完成図を容易に想像することができた。
 運転するのは、トモヤだけだが、納車された時は、お互いの共同作業の作品のような気持ちになっていた。

 コウゾウは、淡いピンクの無花果のシャーベットを、スプーンですくい、口に運んだ。ミントの葉が、少し邪魔に思った。スプーンで、プレートの脇によけた。
 コーヒーを一口すすり、今度は、濃いピンクのフランボワーズのシャーベットをすくった。
 このあと、トモヤは、ホテルのバーカウンターに行くのだろう。
 昔、コウゾウは、病を煩い、胃を半分摘出したとき、医師から酒もタバコを止められてからは、以来きっぱり止めた。
 そして、会社も五十七歳で、早期退職していた。

 那須の夜は、寒かった。コウゾウ達は、大きな窓側の席ということもあり、背中がやや肌寒く感じた。
「そろそろ、戻ろうか」というコウゾウの言葉に、二人も立ち上がった。
 トモヤが、レストランスタッフに、「美味しかったです。おやすみなさい。」と、軽い挨拶をしていた。
 トモヤは、そのまま、バーがある建物へと、向かった。
 コウゾウとリョウコは、寒空の星が輝くなか、二人で帰り路を歩いた。結婚当初のころに戻ったような気持ちになっていた。これまで、いろいろなことが、二人に困惑と喜びをもたらしたが、この夜空を見上げると、すべて許せるような気になった。
「あと、何回ここを、訪れることができるだろう」と、ふとコウゾウは思いながら、重い木製の扉に、鍵を差し込み、回しながら、少し上に持ちあげるようにして、扉を開けた。
 
 朝。コウゾウは、朝食までの、少しの時間、ホテルの敷地内の森を、散策していた。去年ここを訪れたときは、九月だった。まだ、暑く、森の緑が若々しく、青々と活力に満ちていた。そして、蜂達も、勢いずいた様子で、飛び回っていた。三人で、危うく蜂達のテリトリーに侵入しそうになり、慌ててその場を立ち去った。  
 眼の前にある。木製の板を、ロープで吊るしただけのブランコを見て、そのことを思い出した。もう、この季節には、彼らはいないだろう。もう、春までの眠りに、ついているだろう。葉をほとんど落とし、紅葉のジュータンを広げた森の木々を見て思った。
 サクサクと落ち葉を踏みならしながら、小川に近づいた。とても小さな小川だった。川底には、たくさんの紅葉した葉や、もう既に褐色になった葉が、ゼリー寄せのように、清々しく積もっていた。
 片手で、水をすくってみた。キリリとした、冷たさが指先や手の腹を刺激した。

 辺りの山が鳴っていた。ビュービューと。
 
 うしろから、サクサク、サクサクと複数の少し足早な音が聞こえてきた。
 振返ると、三十代後半の男と二十代後半くらいの女がいた。
 コウゾウと宿泊客の男女はお互いに、
「おはようございます」と挨拶を交わしたのち、コウゾウは森のなかの小高い丘を上り、部屋まで戻った。

 コウゾウ達は、澄み渡った空の下、レストランがある建物まで、鳥達のさえずりを聞きながら歩いた。少し肌寒いが、太陽の光が、温もりを与えてくれていた。
 昨夜のように、重い扉を、ホテルのスタッフが開けると、
「おはようございます」
 レストランのスタッフが言い、それに対して、
「おやようございます」
 トモヤが言った。
 案内されたのは、やはり、窓側の席だったが、昨夜とは違う席だった。
 窓の外は、奥にそびえる遠くの山並みが、近くにあるような、錯覚をするほど、クッキリしていた。それは輪郭や山肌に、斑に描かれた積雪さえ見てとれた。
「昨日は、何時まで飲んでいたんだ」
 と、フレッシュトマトジュースのグラスを、テーブルに置きながら、コウゾウが言った。
「一時くらいかな。都内のバーと同じくらい、酒の種類が揃っているから、ついいつも深酒になる」
 と、トモヤが、ムカイザケの、シャンパングラスを片手に、言った。
 取り分けてもらった野菜を、食べ終えたのち、焼き魚や、高野豆腐などがお重に入ったものが、三人の前に置かれた。同時に黒く艶がある各自の土鍋釜で、炊かれたご飯を、スタッフが茶碗によそいで置いた。
 トモヤは、やや二日酔いからお粥を頼んだ。
「カズエさんは、今年は一緒に来るって言っていらしたのに、なんで、いらっしゃらなかったのかしら」お重のなかの、御用邸献上の肉厚な原木椎茸を箸でつかみながら、リョウコが言った。
「カズエは、あの年になっても、気分屋だからな。旅行なら友達と行ったほうがいいって言っていたぞ」
「家族旅行だからって、気を遣ってくれたような気もするけど」
 トモヤが言った。
「去年みたいに、宮内庁時代の同僚を、家に呼んで、楽しくやっているぞ。きっと」
 珍しく、コウゾウが冗談を言った。 
 リョウコと、トモヤはそれとなく、椎茸を見て微笑んだ。
 
 今日は、風が強くなりそうだ。木々が揺らいでいるのが見えた。 
 ビュービューと、山が鳴っていたのを思い出した。


 右手の人差し指の先を、洗濯バサミのようなものが挟みこんでいた。さらにテープで固定されている。そこから、ベッドの上に置かれた小さな機器にコードでつながっている。
 病室の目の前のナースステーションや廊下から、看護士たちが、忙しそうに動き回り、どこかの病室に、医療機器を引いて行く音。入院中の患者に、元気でハッキリした声で、具合を伺う様が聞こえてきた。
 この病院に、入院して三ヶ月。
 抗がん剤治療をはじめてからは、二ヶ月が経過していた。最近では肺に水が溜まりにくくなったおかげで、呼吸も楽になり、血液中の酸素量も、だいぶ回復してきた。だが、爪やひげが以前より固くなったように感じていた。因果関係は、実際のところわからないが、体の異変は、当の本人が一番わかっていた。
 ベッドの脇にあるリモコンを使い、背中から頭にかけて、ベッドを起こした。自分でテーブルを引き寄せ、固くなった白い髭を電気シェーバーで剃った。 
 コウゾウは、剃る音を聞いていると、もはや削っているように思った。
「どう。具合は」
 と、トモヤが入ってきた。
「ああ。いつも通りだ。ただ薬のおかげで、少しずつ食べられるになった」
「それは、良かった。治療した甲斐があったね。そういえば、今日は日曜日だから、母さんと叔母さんが一緒に来るって言っていたよ」
「あの二人に、日曜日とか、休日は関係ないだろ」
「それもそうか」
 その後も、二人の談笑は続いた。
 トモヤは、日に日に元気になっている、コウゾウを見て安心した。ほぼ毎日、仕事の都合がつく限り、会社の帰りに見舞いに来ていた。治療の経過が良好なのが嬉しかった。
「これから、ちょっと用事あるから、あと一時間くらいで帰るよ。母さん達とは、入れ違いになるけど大丈夫かな」
「ああ。問題ないよ。それより、毎日来てくれるのは、嬉しいけど、おまえの仕事はちゃんとできているのか」
「なんとかなっているよ。心配しなくて大丈夫だから」
 病室の窓側に置かれた横長の椅子の上に、コウゾウから頼まれた品々が入ったレジ袋を置いた。
 トモヤは、レジ袋からウェットティッシュや、ティッシュ。そして経済雑誌を取り出した。雑誌はコウゾウから頼まれたものだった。それを、コウゾウに手渡した。
 今回の特集は、「相続」だった。
 しばらくすると、リョウコ達が病室に入ってきた。カズエとは、顔を会わすのは、久しぶりだった。
「あら、だいぶ顔色もよくなったじゃない」
 カズエが、いつものようなすました口調で言った。
 昔から、同じ家に住む者同士。カズエとは、兄弟ということもあり、ずいぶんと喧嘩が耐えなかった。
 コウゾウは、カズエのことを、正直疎ましく思っていた。しかし、残り僅かとなった、このような状況になると、久しぶりに会うカズエに、懐かしい感情が満ちていた。やはり、兄弟なのだ。
 子供の頃のことや、九段下の家での出来事まで、思い出された。
 

 初夏の朝、病室はひんやりとしていた。
 
 朝から検査が続くことを、昨晩回診した担当医がコウゾウに伝えた。だから今日は、あえてリョウコに見舞いに来させなかった。
 看護士が、熱を計り、ベッドの脇に置かれた計測機器の数値を、用紙に書き込んでいた。
 今日も、髭を削るような音をたてて、剃った。
 しばらくして、看護士が、ぺしゃんこになった車いすを押してきた。
「ヤマザキさーん。行きますよー」
 と、看護士が明るく声をかけてきた。
 すでに車いすが、人が座れるような形になっていた。そして、足がのせられるように、看護士が、手でステップを、下のほうへ倒した。
 CTスキャンや、レントゲンと、次から次へと、病院のいろいろな部屋へ運ばれ検査された。経過が良好でもやはり病人には、いささか辛かった。
 どの部屋でも、マスクをして青白い白衣を着用した人物達。みな同じ人物に見える。疲労のため朦朧とした意識のなか、コウゾウは画一的な、この場所と人物達に恐怖感を覚えながら、眠りに落ちていた。
 
 夕飯を食べていると、トモヤが見舞いにきた。
「これ、喜ぶと思って」
 トモヤが手にしているのは、コウゾウが贔屓にしている、海外のインテリアショップから出版された写真集だった。
「おお。ありがとう。楽しみに見させてもらうよ」
 コウゾウは、嬉しかった。写真集もそうだが、トモヤが自分のことを心配して、こんなにも一生懸命にしてくれるとは、思っていなかったからだ。
 写真集は、昨日トモヤが用事の後に、新宿のインテリアショップで、購入されたものだった。
 その表紙写真に印刷された字体や、とりまとめたかた、大きく分厚くしっかりした装丁は、明らかに、日本ものではなく、海外の香りがするものだった。
 トモヤがページをめくりながら、
「こういうの、父さんの好みでしょ」
 現代的なコンクリート住宅の一室には、バウハウス時代の名残である、ブロイヤーの白いソファーが鎮座している。クッションは暖色系。テーブルはブルーのペンキで、あえて斑になるよう塗られた、木製だった。
 大きな窓の向こうには、海が見える。
 そして、そのなかで使われている小物達。テーブルや、ラグマットの上に無造作に置かれた本達は、トモヤが、父コウゾウの為にめくっている、この写真集に似ていた。

 コウゾウは、そんなトモヤの姿をみて、いつの間にか、立派に成長したと、感慨深く思っていた。
 家に連れて来られたときは、あんなに小さく、弱々しかったのに。
いろいろ、あったが、トモヤを養子にできたことに感謝した。
 もし、高齢のリョウコやカズエしかいなかったら、病院に見舞いに来るだけでもひと仕事だったに違いない。もしかしたら、過労で倒れてしまうこともあっただろう。しかし、トモヤがいてくれた。 
 ヤマザキ家の長男として、頑張ってくれているから、リョウコの負担も軽減されているのだろうと思った。やはりトモヤは、自分とリョウコの息子なのだと、改めて強く感じた。
 それを、トモヤも強く感じてくれていることも、わかっていた。
 
 九月だというのに、まだ蝉が鳴り止まない。窓をあけると、熱気と蝉の声に包まれた。ここは渋谷区だというのに、どこにそんな数の蝉達が居るのだろうと、コウゾウは不思議に思っていた。郊外にある自宅と、蝉の音量が変わらないからだ。
 蝉の音が、愛おしく思えた。

 昼過ぎになり、リョウコが手に袋を提げて、入ってきた。
「外は、暑いわよ。寝てなくて大丈夫ですか」
「なにか、家で変わったことはないか」
 コウゾウが言った。
「なにもないですよ。トモヤは、ほぼ毎日来ていますし。私もできるだけ来ていますから。何かあったら、言いますよ」
「そうだな」
 リョウコが、黄色い包装紙を丁寧に剥がした。ふたを開き、眼鏡をかけたままのコウゾウの目の前に、静かに置いた。
「おまえも、少し食べないか。昼ご飯まだだろう」
 九段下に住んでいた頃、母タエが近くの小川町で、神田志乃多寿司の稲荷ずしをよく買ってきた。コウゾウは、頻繁に食卓にあがる稲荷ずしにうんざりしたこともあった。ところが、東京の郊外に引っ越してからは、なかなか買いに行くこともできなかった。今では、九段下に住んでいた頃を、思い出すことができる懐かしい味となっていた。
 稲荷ずしではなく、神田志乃多寿司の稲荷ずしが、無性に食べたい思い。リョウコにリクエストしていた。
 いましがた、リョウコが剥がして、畳んだ黄色い包装紙に、懐かしさを覚えていた。
 コウゾウの前に並ぶそれは、お揚げが照り、甘酸っぱい香りを放って病室を満たした。病室に居ることを一瞬忘れさせた。
 リョウコが箱の蓋に、自分が食べる分を、いくつか取り分けた。
 この病気のせいか、抗がん剤のせいか、味覚が苦く感じられ食べ物が美味しく感じなかった。だが、リョウコが買ってきてくれたこれは、昔と同じで懐かしい味だった。
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

仕事ができる子は騎乗位も上手い

冲令子
BL
うっかりマッチングしてしまった会社の先輩後輩が、付き合うまでの話です。 後輩×先輩。

年越しチン玉蕎麦!!

ミクリ21
BL
チン玉……もちろん、ナニのことです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

親友の息子と恋愛中です

すいかちゃん
BL
親友の息子である高校生の透と、秘密の恋愛しているピアニストの俊輔。キスから先へ進みたい透は、あれこれと誘惑してくる。 誘惑に負けそうになりながらも、大切過ぎてなかなか最後までできない俊輔。だが、あるスキャンダルが透を不安にさせ・・・。 第一話は俊輔目線。第二話は透目線です。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない

すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。 実の親子による禁断の関係です。

離したくない、離して欲しくない

mahiro
BL
自宅と家の往復を繰り返していた所に飲み会の誘いが入った。 久しぶりに友達や学生の頃の先輩方とも会いたかったが、その日も仕事が夜中まで入っていたため断った。 そんなある日、社内で女性社員が芸能人が来ると話しているのを耳にした。 テレビなんて観ていないからどうせ名前を聞いたところで誰か分からないだろ、と思いあまり気にしなかった。 翌日の夜、外での仕事を終えて社内に戻って来るといつものように誰もいなかった。 そんな所に『すみません』と言う声が聞こえた。

処理中です...