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第12話 二百年前の聖女

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 転移魔法陣の設置に伴い、魔王研究施設の移動と拡張が行われ、その全てが完了したのは、ギュッターベルグの町にもいよいよ雪が積もった日のことだった。

 前日の夜から降り始めた雪は、朝になると町中をうっすらとではあるが銀世界に変えていた。朝起きた時に、窓から入る光がいつもより明るい気がして、カーテンを開けて曇った窓ガラスを掌で拭ったアルベルトは、その景色に固まった。
 先日も積もったが、アルベルトにとってはまだ見慣れない景色だ。

「レティ!また積もってる!」

 そう言って、ベッドでまだ眠そうにしている妻に声をかける。
 眠たそうに眼を擦りながら身体を起こしたレティは、ベッドの脇に置いた椅子に掛けておいた上着に手を伸ばし、それを肩にかけた。
「そろそろ本格的に積もり始めるのかしらね。」と、はしゃぐ子供に向けるような困った笑顔を向けながら、アルベルトの横に歩いてくると、先ほどアルベルトが拭った窓から外を覗く。そこは既にまた曇り始めていた。きっと外は凍えるような寒さだろう。

「ロベルトは大丈夫かな。」
「まあ、そろそろ帰ってくる頃じゃないかしら。ダメだと思ったら春まで滞在していればいい話よ。」

 妹らしいあっさりとした物言いにアルベルトは苦笑しながら、レティが冷えてしまわないように後ろから抱きしめた。
 レティは後ろから回されたアルベルトの腕に自分の手を重ねながら、「さっ!今日も忙しいんでしょう?あったかいスープでもどう?」と、アルベルトの顔を見上げて笑う。
 アルベルトはその手を緩めずに、「今日は、珍しい人が来るんだ。」とだけ言って、その唇に自分のそれをそっと重ねた。



 転移魔法陣が敷かれているアルベルトの執務室の地下は、元々魔王関連の研究室として使われており、ルディ・ドリオを中心とした数名の研究員によって調査が行われていた。しかし、魔法陣設置に伴い、ギュッターベルグ城の図書室近くに移動したのだが、部屋がかなり広くなったことと、王宮への移動が便利になったことにより、研究員の数も増え、聖女の魔法を研究するための魔術研究室からの人員も増えた。
 転移魔法陣の使用許可も、ルディと室長だけでは追い付かず、担当として推薦された数名が常時待機し、受付と転移を担当することになった。それにより、利用申請書を提出し、それへの許可があれば誰でも利用できる形に落ち着いた。それでも許可が下りるのは、まだ決まった人間ばかりではある。


「お久しぶりでございます。ギュッターベルグ伯様におかれましては、ご健勝のこととお慶び申し上げます。」

 前よりも少し茶色がかっただろうか、髪が頭を下げたことで顔にかかる。あれほどまでに目立っていたストロベリーブロンドの髪が、ストロベリー色の名残だけを残して、全体的には落ち着いた髪色になっているのを不思議な気持ちでアルベルトは見ていた。ウィルフレッドの表情は変わらないが、きっと彼もその色の変化に気が付いているだろう。

「息災か。」

 ウィルフレッドが伯爵然とした態度で声をかける。

「お陰様で、落ち着いた日々を過ごせております。」

 その可愛らしい笑顔は、あの時のリズにはなかったものだ。両親にとても愛されて育った貴族令嬢そのものの雰囲気で、シュナイダー嬢は緊張した面持ちながらもニコニコとしている。

「結婚されたそうだな。おめでとう。」

 ウィルフレッドの言葉に、シュナイダー嬢は少し驚きの表情を見せてから、うっすらと頬を染め「有り難きお言葉でございます。」と言った。

 魔王の研究室が本格的に始動し始めたことで、聖女に関する研究もこちらに全て移されることとなった。
 そして、その研究員の一人としてやって来たのが、魔王封印のためにこちらに転移したリズが依り代としていたシュナイダー男爵家令嬢リズ・シュナイダーだったのだ。彼女の婚約者も研究員の一人で、二人揃ってこちらに来ることになったため、急遽婚姻を早めたのだと彼女は言った。男爵家の一人娘である彼女は、幼い頃から付き合いのある男爵家の次男坊である婚約者を入り婿として迎えた。シュナイダー家を将来的には継ぐらしいが、シュナイダー男爵はまだまだご健在であり、爵位を継承するのはまだまだ先ということで、二人揃って研究員を続けているとのことだった。そして、これからは夫婦で聖女について、こちらで研究するらしい。

 綺麗な所作で退出する彼女を見送って、アルベルトはリズが入っていた時との違いにご両親はさぞかし心配だったことだろうと思う。魔王討伐に向かうリズを迎えに行った時に、その後ろで泣いていたご両親を思い出す。帰ってきた本当の娘に、きっと安堵したことだろう。
 ただ、本来のシナリオではウィルフレッドと結婚し、王妃となるはずだった彼女だ。彼女がウィルフレッドに近くに来たことで、何か起こったりするのだろうか?アルベルトは一抹の不安を隠せないでいた。

「いよいよ、俺も誰か見つけねばならん。」

 アルベルトの不安に気がついてか、ウィルフレッドがそう言って笑う。

「はは、そうだな。結婚は、良いぞ。」

 アルベルトも笑う。
 シナリオに振り回されるなというレティの言葉を思い出す。シュナイダー嬢は幸せなのだ。これで良いんだ。アルベルトは自分にそう言い聞かせた。

「今度、奥方に研究室に来てくれるよう頼んでおいてくれ。」

 ウィルフレッドの言葉に、首を傾げる。なぜ?と。

「二百年前の聖女も異世界の人間だろう?一度資料を見てもらいたい。」
「ああ、なるほど。」

 自分の嫁が異世界転生者であることは、嫌というほど理解しているが、それと聖女が全く結びつかないのは、彼女のあの性格のせいだろうか。アルベルトは思わず苦笑した。


 ―――――――――



「はじめまして?…と言うべき?…なのでしょうか?」

 レティが困ったように、段々と尻すぼみになりながらそう言った。目の前には、レティの友達だったはずのリズ・シュナイダー嬢が、こちらも少々バツの悪そうな表情で笑っている。

「お久しぶり、ですね。はっきりと憶えているわけではありませんが、それでも聖女様とお話しているのを見ていた気がします。私は、私の中にいる聖女様があなたのことを羨ましく思っていたのをずっと見ていました。」
「羨ましい?リズが?」

 思わず自分の名前が出て、シュナイダー嬢がふふっと笑う。

「あ、ごめんなさい。」

 レティが気が付いて謝るが、「気にしないでください。」とシュナイダー嬢は楽しそうだ。魔王封印の後、聖女の存在を知るダニーや護衛を務めた騎士など数は少ないのだが、同じように困ったような反応をされるので、どうやら慣れてしまったらしい。

 異世界からの転生者であるレティに、聖女に関する研究に協力してもらうため、その存在を知る数少ない研究員との顔合わせが行われた。研究者の一人であり、最も重要な人物とも言えるリズ・シュナイダー嬢との面会は顔合わせ後すぐに時間が設けられ、アルベルトとウィルフレッドが同席する中で、不思議な再会となったのだった。
 
「聖女様は、向こうの世界で居場所が無かったみたいで、帰りたくないとずっと思っていらっしゃいました。レティさんが同じ世界から来たのだと知って、その前向きな姿に自分を比べては落ち込まれたりされていたのです。クラスメイトと知ってからの聖女様は、それまでの暗さが嘘のように明るくなっていきましたが。」

 リズが魔王封印の後、笑顔で向こうに帰れるように、レティはそう願って彼女に手紙を書いた。前世で彼女が好きだったアニメの名セリフを絡めながら、向こうで死ぬ前の私が待っていると、すごく短い手紙になってしまったけれど。それでも、リズは待ちきれないとばかりに、魔王封印を終えてすぐに帰ってしまったのだった。帰りたくないと、あれほど思っていたはずの向こうに。
 そういえば、せっかちな奴だったなとレティは思い出して笑う。

「今は、聖女様について研究を?」
「はい。まずは自分の憶えていることを記録している段階ではありますが、こちらに来たことで、思い出せることも増えました。」

 リズの中で、ずっと夢を見ているような感覚だったというシュナイダー嬢は、リズと一緒に魔王を封印したようなものだ。彼女の記憶は大変貴重で、まずはその記憶を記録することから彼女の研究は始まったらしい。聖女の記憶を辿るために、王都のアルベルトの実家にも、その後レティと行ったカフェにも訪れたという。

「あっ!」と、レティが何かを思い出したように声を出した。

 皆がレティに視線を向ける。アルベルトは、嫌な予感を感じながらレティに目を向けた。

「聖女覚醒の場面は?覚えてらっしゃいますか?」

 レティが前のめりになる。目が輝いているかのようだ。彼女は一瞬驚いたようだったが、慣れているかのように笑って「もちろん憶えています。」と答えた。

「聖女様ってば、向こうに帰ったら絶対見に行こうって…他人事のようだったのです。」

 シュナイダー嬢もレティに答えるように前のめりになり、内緒話をするように小さな声で笑いながらそう言った。

「わかる!あのイベントシーンは秀逸だったもん!」

 いつものレティにアルベルトは一瞬焦るが、横の一人がけソファに座って傍観しているウィルフレッドは楽しそうに笑っていた。シュナイダー嬢も楽しそうにうんうんと頷いている。まあ、いいかとアルベルトは苦笑するしかない。

「二百年前の聖女様の記憶が頭の中に流れ込んできた時は、酔いそうになっておられましたが、そんな話あったなと思っておられるようでした。そして、…あ。」と、話の途中でシュナイダー嬢は何かを思い出したようだった。皆の視線が集まるが、彼女は気にせずに続けた。

「意味を教えていただきたかったのです。とは、どういう意味なのでしょう。二百年前の聖女様の記憶をご覧になった聖女様がおっしゃられたのです。一言だけ。えぐい、と。」

 レティが少し苦い表情になる。二百年前の聖女の記憶がということだ。

「ひどい、とか、あり得ない、とかそんな感じと言ったら良いかしら。制服と学生証が残っていたのでしょう?ということは、聖女様は生きたその身体のまま落ちてきたんだわ。まだ十代の女の子が…そう考えると、本当に恐ろしい。しかも、魔王と戦わなければならないなんて。」

 レティの話に、皆が言葉を失う。

 「スタートボタンを押してこの世界に来たリズも、人生を終えてからやってきた私も、まだましだったのね。」

 そう言って、レティは悲しそうに笑った。しばらく沈黙が続いた後、「ところで、」と暗い雰囲気を物ともせず話を変えたのは、レティだった。

「そんな話あったなって、リズは思ってたって?」

 さっきシュナイダー嬢が話の中で言っていた言葉だ。
 誰も気に留めなかったそれが、レティは気になっていたらしい。

「あ、はい。そうですね。聖女様の記憶を共有している時に、そう思っておられたと記憶しています。」

 それを聞いたレティが、「そう。」とだけ返事をして顎に手を当てて何かを考えているようだった。
 再び沈黙が流れたが、レティははっと思い出したように顔を上げる。

「あ、申し訳ございません。ちょっと考え事をしておりました。」と頭を下げたレティに、ウィルフレッドが「何かおもったことがあれば、話してほしいのだが。」と困ったように声をかけた。しかし、彼女は首を横に振って「まだ話せるような何かではございません。もう少し色々と見させていただいてもよろしいでしょうか。」と言っただけだった。

 これからレティは聖女の部屋と、残された資料を見ることになっている。
 ウィルフレッドは頷いて、「よろしく頼む。」と言った。


 レティはいよいよ、彼女の念願であった修道院跡地に足を踏み入れる。
 重い扉が開かれて、聖堂に光の筋が広がっていくと、少し斜めに伸びたその光の筋を辿るように、レティはゆっくりと歩みを進めて行った。アルベルトがその後ろを守るように続く。そして、シュナイダー嬢とルディ・ドリオがその後ろに続いた。 

 入り口の真正面に女神リリアの像が見えるが、聖堂らしい会衆席や朗読台といったものは無い、がらんとした空間だ。リリア像が無ければ、聖堂かどうかさえ疑ってしまいそうなほど簡素なものだとアルベルトが言っていたことを、レティは思い出して納得する。
 部屋の右脇に警備兵が立っているのが見える。その横に扉を抜けた先にある回廊に、聖女の部屋がある。

 四人はギュッターベルグの城から修道院跡地の地下に転移魔法陣で移動してきたのだが、レティの希望により、地下への階段がある中庭から、一度外に出て正面玄関から修道院跡地に入った。
 わざわざそうする理由を、「そういうものだから。」とレティは言う。
  
 足音だけが妙に響く。ステンドグラスから降り注ぐ光が、足下を照らしている。
 女神像の前まで来たレティが顔を上げ、白い瞳で見下ろす女神リリアの像を見つめた。

「あのイベントシーンと同じだわ。」

 レティはそう呟いてからしばらく動かずにいたが、アルベルトがそれを心配してその顔を覗こうとしたのと同時に、「アルベルトは見たんだもんね。いいな~。」と、身をよじった。いつものレティにアルベルトが苦笑する。シュナイダー嬢も笑っている。

「体からチラチラと光の粒が舞うのよね。そしてその内それが溢れ出して、光輝く聖女!くーっ!生で見たかったなー!」

 ははっと笑ったアルベルトが、「すごく綺麗だったぞ。」と追い打ちをかけると、レティは「良いなー!」とか「うわー!」としか言えなくなってしまったようだった。そんなレティを、シュナイダー嬢は微笑まし気に見ている。
「聖女の部屋もご覧になっていただけますか?」と、ルディが少し急かすように言うと、はっとしたレティが恥ずかしそうに「はしゃいじゃってごめんなさい。」と頭を下げた。

「いくつかの異世界の物と思われる物が残されているだけなのですが。」と、少し申し訳なさそうに言ったルディが、「こちらです。」と言って、警備兵の守る扉を開けた。その扉をくぐると小さな談話室があり、その窓から、雪の積もる小さな中庭を囲むようにして配置されている食堂や修道女の部屋がいくつか見えた。
 細い回廊を進む。何部屋か通り過ぎたところで、ルディは足を止めた。アルベルトも何度となく訪れている部屋だ。二百年も前に時を止めてしまったような部屋だが、何か聖女に関する手がかりになるのではないかと、皆が期待し、結局何も得られず落胆する部屋だ。
 エドワードは、ここで泣いていたらしい。
 
「こちらが、その部屋になります。」
 
 ルディがドアを開けると、そこには簡素な机とベッド、そして小さなワードローブだけがある小ぢんまりとした部屋だ。
 レティが見回しながら恐る恐る中に入る。アルベルトがその後ろから続いた。レティがゆっくりと窓際まで歩を進めた頃、アルベルトがワードローブの扉を開けた。

「これだ。」

 この部屋に残されているもので、唯一手がかりになるもの。残された不思議な衣装。男物のような、襟のあるシャツ。─元は白かったと思われるが、経年劣化でうっすらと黄色がかってしまっている。簡素な紺色のジャケット。そのポケットには、赤いチェック柄のリボンが入っている。そして、生地を折り重ねながら一周しているグレーのチェック柄のスカート。それは、この世界では考えられないほど短い。平民の女性でも、ここまで短いスカートははかないだろう。

「ああ、確かにこんな感じの制服だった気がするわ。」

 レティはそう言って、ジャケットの胸元に手を伸ばした。そして、刺繍されている紋章をじっと見る。そして、何かに気が付いたような表情をした後、そのまましばらく固まっていた。
 ゲームのイベントシーンというのを思い出しているのだろうか。

「そういえば、」

 ジャケットから手を離して、レティがこちらを向く。

「生徒手帳は?」
「生徒手帳?」
「皮っぽいカバーのついた小さな本みたいな物。」

 そう言って、レティが指で四角を作る。

「ああ、聖女様の日記か。」
「日記?」
「確かに生徒手帳って書いてあったな。そこに聖女様の日記が、少しなんだけど書かれていて、それでそう呼ばれているんだ。」

 アルベルトがそう説明すると、「ああ、なるほど。それで。」と、レティが何かに納得したようだった。
 そして、「それはここには無いの?」とレティが部屋をもう一度見回すと、シュナイダー嬢が「そちらはギュッターベルグ城の書庫に保管されています。」と答えた。
 元々王宮の禁書庫にあったものだが、半年前にここの聖堂でリズに見せてから、そのままこちらで保管するようになったらしい。聖女について先頭に立って調べていたのが、ウィルフレッドだったことも大きいようだ。

「それも、見させていただくことはできますか?」とレティが聞くと、「大丈夫です。」と頷いたのはルディだった。

「何かわかったのか?」とアルベルトがレティの顔を覗き込む。

「この校章、」

 レティが、手にしているジャケットの胸元を少し持ち上げて、アルベルトが見えるようにする。

「実家の近所の高校だわ。この制服も見たことがある。」

 そう言って、レティがアルベルトの顔を見上げる。
 そして、「だからと言って、知っている子とは限らないんだけど、それでもリズと私が転生したことと、何も関係が無ければ良いけど。」と不安気な目をしたのだった。



 レティは、目の前に置かれたその小さな表紙をしばらく見つめていた。 
 紺色のカバーがかけられた生徒手帳は、二百年も前の物だけあって、さすがに角が切れてしまっていた。それでもかなり丁寧に保管されていたのだろう。経年劣化らしい黄ばみは見えるが、紙がよれたりすることもなく、とても綺麗な状態だった。
 
 修道院跡地から転移魔法陣を使って戻った四人は、ルディが一度ウィルフレッドに報告に行くということで、アルベルトの執務室を出た所で別れた。
 レティとアルベルトはシュナイダー嬢案内の元、ギュッターベルグの城内にある魔王関連の研究室に向かう。少し歩いて向かった研究室は、新しく整えられたばかりということもあり、すっきりとした印象だった。研究員の人数が限られているせいで机の数が少ないということも、そう見える一因かもしれない。いくつかの机と、たくさんの引き出しと本棚が並ぶそこは、会議ができるような場所もあり、そこではちょうどギュッターベルグ常駐の数名の研究員と、アルベルトの知る王宮の魔術研究室の研究員による話し合いが行われているようだった。資料を広げて、何やら話し合っている。

 レティは、そちらに興味がある様子を隠しもせずにジロジロと見ていたが、呆れたアルベルトに然り気無く誘導されて、少し離れた場所にある二人掛けのソファーにアルベルトと並んで座らされ、ようやく諦めたようだった。
 そこに、シュナイダー嬢が聖女様の日記、レティの言う生徒手帳を持って来て、レティの前にそっと置いた。レティがそれに目を向けて、もう一度シュナイダー嬢を見る。シュナイダー嬢は「こちらが、聖女様の日記と言われているものです。」と説明した。

「中を見させていただいても?」
「もちろんです。」

 シュナイダー嬢が頷く。

「…失礼します。」

 そう言って、レティがそれに手を伸ばした。

 そこに描かれたレティが校章と呼ぶ不思議な絵と、「生徒手帳」とだけ書かれている外側を、レティはしばらく眺めていたが、覚悟を決めたかのように、ゆっくりとその表紙をめくった。
 レティが俯き気味にその一ページ目を見る。そして、徐にパタッとその表紙を閉じた。

「どうした?」

 異様な雰囲気を感じて、アルベルトがレティの顔を覗き込む。

「ごめん、…ちょっと待って。」

 レティが俯いたままそう言った。アルベルトが顔を起こせば、正面に座っているシュナイダー嬢も心配そうに見ている。
 そのページは確か、聖女様の名前や生年月日といった情報が書かれているページのはずだ。
 レティはしばらく何かを考えているかのようでもあったし、ただただ驚いているだけのようでもあった。しかし、彼女の纏う空気から、何かただならない何かに気が付いたということだけは間違いない。顔色も心持ち良くないような気がする。
 アルベルトは、不安な気持ちでレティからの言葉を待った。

 レティが再びその表紙を開いたのは、部屋の反対側に集まっていた研究員達が解散し出した頃だった。
 部屋から出て行こうとしていた数名が、出入り口の所で立ち止まり、並んで頭を下げている。アルベルトはそれを見て、ウィルフレッドが来たのだと気が付いたが、レティはそれに全く気が付かない様子で、そのページを見ている。そして、何かに踏ん切りをつけたかのように、そのページを丁寧に一枚一枚めくっていった。途中、可愛らしい手書きの字が見えて、レティはその手を止めた。
 

 4月15日
 ここは、現実? 


「ボールペンだわ。」

 レティがボソッと呟いた言葉が聞きづらくて、「ボール…?」とアルベルトは聞き返した。

「異世界でよく使われるペンなの。インクがペンの中に入っていて、インクボトルの要らない便利なペンよ。街中では宣伝として配るぐらい溢れていたし、誰でも持っていたわ。」

 しかし、たった一行の文章から始まった日記は、ただのメモ書きのようにも見えた。この日記を書いた時代は、書く物も、書かれる物も、ほとんど無いような時代だったはずだ。ボールペンで書かれた少ない文字が、そのインクの貴重さを物語っているような気がした。
 
 
 7月23日
 目の前で男の子が魔物に襲われた。怖かった。
 自分には魔物を祓う力があるらしい。
  
 
 
 レティは、それをゆっくりと静かに読み進めていく。
 その間にウィルフレッドがこちらにやって来て、挨拶のために立ち上がろうとしたシュナイダー嬢を片手をそっと挙げて止めた。レティが何かに囚われていることに気が付いているようで、彼は静かに空いている一人掛けのソファーに座った。
 レティはそれに全く気が付いた様子もなく、また一つページをめくる。

 魔物が増加し、祓う度に彼女は聖女と崇められていく。それに戸惑う聖女。
 魔王が誕生し、討伐部隊が結成されたことを知る。
 聖女の噂を聞きつけ、王宮より遣いが来る。
 そして、国王陛下より魔王討伐への協力を要請されたと書いてあった。
 
 そこで日記は終わっている。

「…討伐に、向かったのね。」

 レティがボソッと呟いた。それはひどく寂しそうな、悲しそうな声だった。

「聖女様の、その後の記録は?」
「ありません。」

 シュナイダー嬢がそう答えると、レティは俯いたまま、その小さな本をそっと閉じた。そして、もう一度反対側、最初に見たページを開く。アルベルトもそのページを覗く。

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 まさか、という気持ちでアルベルトはレティを見た。
 ウィルフレッドは、そんな二人をじっと見ていた。

「知って、いるのか?」
「…たぶん。」

 レティは、不安を隠さない表情でアルベルトを見上げる。そして、「皇太子殿下に会うべきなのは、リズでは無くて、私の方かもしれないわ。」と言った。







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