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第0章
【0.0】 羽無き天使は、天使ならざる者。
しおりを挟むその子供は、空から降りて来た。
まだ12月に入ったばかりだというのに、既にクリスマスムードを演出しているショッピングモール。駐車場の入り口には、巨大な白いクリスマスツリーがそびえ立ち、まだ17時にもなっていないというのに既にそれには光が灯されていた。
目的のものを買うためだけにやって来た彼は、上下黒のスウェットに黒のサンダルという、なんとも冴えない出で立ちだった。髪の毛は短く刈り揃えられているが、明らかに自分でやったというような刈り残しがある。
彼、木嶋倫太郎は、自転車が並ぶその列に、同じように自分の自転車を止めると、慣れない手つきで鍵をかけた。久しぶりに乗った自転車に、最初はうまく乗れるかどうか不安があったが、意外にもすんなり乗れた。ただ母親の自転車だったため、鍵のかけ方がよくわからなかったのだ。
サンダルで来たのは、失敗だった。二階の自室に差し込む光は暖かく、外も暖かいものだと勝手に思い込んでいた。家の外に出た途端に後悔したのだが、履き替えに戻るのも面倒だったし、なにより自分の靴がどこにあるのかさえわからなかった。
ペタペタという足音に、緊張が増す。倫太郎が一人で買い物に来るなど、いつぶりのことだろうか。それでも来なければならなかった理由は、電気量販店がネットで行ったゲーム機の優先購入の抽選に当たったからだ。自宅から一番近い店舗を探したら、このショッピングモールの中にあることがわかり、購入にきたというわけだ。
当初、母親に車で連れて行ってくれと頼んでみたのだが、仕事の休みが取れないとにべもなく断られてしまった。母親の次の休みまで待つと、購入期限が切れてしまう。しかも、本人であることが確認できるなんらかの証明が必要で、自分の名前で抽選を申し込んでしまった手前、自分で行かざるをえなかった。
ゲームは、今の倫太郎にとって心の支えだ。それ以外にすることも、できることも、したいことも無い。適当に起きて、適当に何かを食べて、ひたすらゲームをする。そんな日々。
母親に泣かれ、父親には殴られたこともあるが、だからといって何かできるようになるわけでもなく、一度失ってしまった自信は取り戻せなかった。狭い自室の中、けれど情報だけは溢れていて、自分は情報弱者にだけはならないという変な自惚れで塗り固め、自分を守る。しかし、一歩部屋を出れば、家の中では既にその存在を忘れられてしまったかのような、そんな日々だ。
ところが、今回のことで急に話しかけられた母親は、息子とのまともな会話が数か月以上ぶりにも関わらず、想像以上にあっけらかんとしていた。それは、当選の連絡が来た昨晩のことだ。
「そんなん、無理、無理。仕事が休めん。」
首を横に振った母親は、少し楽しそうでもあった。観葉植物に水遣りをしていたらしいその手には、霧吹きが握られていて、目の前ではなんだかぷるんとした見た目の不思議な植物が、しっとりと濡れていた。
「明日、自転車で行ってきたら。鍵は、玄関の引き出しに入ってるから。」
何も言い返せないままさらっとそんなことを言われて、固まってしまった倫太郎だったが、母親は全く気にした様子も無く、それに追い打ちをかけるように「家の鍵、かけて行ってね。」と言った。
昨年できたばかりのショッピングモールの中は、外の煌びやかさとクリスマスの飾りなどで妙に賑やかな店内に似合わないほど、人がまばらだった。時間的な問題か、それとも景気が悪いせいか。
それでも、すれ違う人は皆それなりにこざっぱりとした格好をしていて、倫太郎は誰かとすれ違うその度に俯き、足元のサンダルを見てはひどく場違いな自分を恨んだ。ペタペタペタというなんともみっともない自分の足音に追われながら、それでも無事にゲーム機を手に入れた倫太郎は、それを脇に抱えるようにして、逃げるようにショッピングモールを後にしたのだった。
こんなみじめな思いをしてまで手に入れたいものだったのか、そんな疑問を抱えながら、自転車のかごにゲーム機の入った袋を突っ込んだ。それを見ながら、ペダルを漕ぐ。
途中、運動公園の中を通るのは、そこが近道だからだ。先ほどよりもずいぶんと暗くなってきているにも関わらず、マラソンコースを走っている人の姿が見える。何が楽しくて走るのか、今の倫太郎にその気持ちは全く想像できそうもない。
マラソンコースから離れ、テニスコートの裏側に出た時のことだ。キラリと一瞬、上の方で何かが光った気がした。自転車のライトにしては妙に眩しく、飛行機にしては随分と低い位置。
気にせずそのままペダルを漕げば、その光の位置から何かが下りて来る。倫太郎の位置からは、まだ随分と先だが、それでもそれが人間の形だと気が付いた。なぜか、その輪郭だけはよく見えたのだ。
しかもそれは、羽を使っているかのように、ゆっくりと下りてくる。そしてそれが、人間の形をした何かの後姿だと認識できるぐらいに倫太郎が近づいた頃、それは片足ずつ地面に足をつけた。
キッと音をさせて、自転車を止める。そのまま倫太郎は、呆然とその後ろ姿を見ていた。
今、間違いなく下りて来た。
ここには確かに大きな木はあるが、だからと言って「飛び下りた」という感じは一切無かった。「舞い下りた」に近い先ほどの映像を思い出す。
その後ろ姿は、どう見ても子供のそれだった。こちらを向いている背中に、羽らしきものは見えない。何かのパフォーマンスみたいなものだろうか。
その時だ。
目の前の子供が、振り向いた。ひどく綺麗な顔をしているそれは、何か光のようなものが身体から溢れていて、倫太郎の目を奪う。
銀色の髪、銀色の目。視界は暗く、距離もあり、よく見えないはずなのによく見える。いよいよ、おかしくなってしまったらしい。
『君、僕が見えるの?』
その子供が、口を動かしたのが見えた。まだずいぶん遠くにいるはずなのに、静かな声が聞こえてくる。そんな違和感。
『ああ、精霊がいるのか。珍しいな。』
彼が、少し眩しそうに目を細めると、その瞬間にふっと消えた。何が起きているのか全く理解できないまま、倫太郎が自転車に跨った状態でそこに立ち尽くしていると、急にぐらりと自転車が揺れた。ハンドルをぐっと握り、体勢を立て直す。重さを感じて後ろを振り返れば、自転車の後部座席に先ほどの子供が座っていた。
ニコニコと楽しそうに座席に跨り、倫太郎を見上げている。
「人間、お前は何者だ?」
初めて、その子供のような生き物の距離と言葉と口の動きが嵌まった気がした。嬉しそうに弧を描くその表情は、新しい玩具でも見つけたかのようだ。
「なぜ、精霊を連れている?」
意味がわからず固まったままの倫太郎に、それはひどく訝し気な顔をして、そして急に納得したような顔をした。
「なるほど。お前、見えていないのか。」
彼はそう言って、一人うんうんと頷いた。銀色の髪が、それに合わせて揺れる。
「…天使?」
なけなしの勇気を振り絞り、倫太郎がそう問えば、子供は腹を抱えそうなほどに笑って「本当にそんなこと言うんだな!聞いていた通りだ!」と言った。
「天使じゃ、ないのか?」
「人間の言う天使って奴が、神の遣いだって言うんなら、その答えはノーだ。」
子供は不敵に笑い、そして倫太郎の背中をとんとんと叩いた。
「まあ、良い。早く帰ろうぜ。」
そう言われ、倫太郎は訳もわからず「どこに?」と聞いた。
「お前の家に決まっているだろ?家、あるんだろ?」
天使らしくも、子供らしくもない言い方でそう言われ、倫太郎は何が何だかわからないままゆっくりとペダルを漕ぎだした。先ほどより重くなったそれに、後ろに誰かが乗っていることを嫌でも意識させられる。
これは、連れて帰っても良いやつなのだろうか。そんな不安が、湧き出してくる。振り返るのも怖い。こんなホラー映画が無かっただろうか?そんな時、主人公はどうするんだっけ?
嫌な汗が掌から噴き出して、ハンドルが妙に吸い付く。瞬きを忘れていた目が、開きすぎていたようで痛い。
「僕はギン。お前は?」
突然、名を名乗られて、倫太郎は咄嗟に「りんたろう。」と答えてしまった。偽名を使うことなど、考える余裕など全く無かった。
「りんたろうか。よろしくな。」
嬉しそうにそう言ったギンは、倫太郎の肩に手を乗せた。そしてどうやら後部座席に立ち上がったらしい。
「あ、二人乗りは違反で…」
「お前、ほんとバカだな!」
首だけ振り返ってそう言いかけた倫太郎に、ギンが容赦なく被せた。ケラケラと楽しそうに笑う声が聞こえる。
ああ、もうどうにでもなれだ。―――そんなやけっぱちな気持ちで、一度溜息をついた倫太郎は、ぐっと足に力を入れて母親の自転車のペダルを漕いだ。
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