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十五歳の夏の旅

サシャの城④

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 次に目を覚ますとサシャが鉄格子の後ろに立っている。
 彼女は動きやすそうな黒い皮鎧を身につけ、腰の左側には細い剣を吊るしている。
 レイピアと呼ばれる武器だっけ? 武器のことはよくわからない。

 サシャは鉄格子を軽くブーツのつま先で蹴り、僕の注意を引く。
 僕は顔を上げる。

 同い年ぐらいの、ボーイッシュな金髪と凛とした深い空色の目を見ると、一瞬――悪夢から目覚めたほんの一瞬だけ――胸がドキンとする。
 しかし僕はすぐに顔の下半分をクラウスの血で染めた彼女の形相を思い出し、悲鳴を上げながら後ずさる。

「ふふふ、まだレイが死ぬ時ではない」サシャはにっこりする。それが一見優しそうなのが、とても気味悪い。「下僕たちから貴様がここに来てからなにも食べてないと聞いてな、私は心配になったのだ」

 サシャは鉄格子の扉を開け、僕に向かって手招きをする。
 その手の指は長く、爪は鋭くとがっている。

「……い、嫌だっ」僕はブルッと震える。

「一旦この地下牢から出して、新鮮な空気を吸わせてやると言っているのだ。それに文句はなかろう」サシャは言う。「どうしてもこのカビ臭い場所にいると言いはるのなら、私は無理強いはせぬぞ」

 僕はどうすればいいのか迷う。
 どれだけ僕は陽の光を見ていないのだろう?
 外の空気の味さえ忘れてしまっている。
 しかしサシャが本当に僕を地下牢から出すという保証もない。
 牢屋を出たらすぐに噛み殺されるかもしれない。

「……おぬし、安心しなさい」斜向かいの牢屋から老人が言う。「吸血鬼の始祖ヴァンピア・アーデルは嘘をつけない。彼女が新鮮な空気を吸わせてやると言えば、それは真実だ」

 サシャは舌打ちをする。「余計なことを喋りすぎる老いぼれだな。貴様が知る情報に価値がなければ、貴様の舌を抜き取っているところだ」

 僕は頭を上げて、歯ぎしりをしているサシャを見ると、ちょっと唇が緩んでしまう。

「本当に嘘をつけないのか?」

 サシャは黙ったまま、答えようとしない。
 つまり老人が言ったことは本当なのだ、と僕は思う。
 もしサシャが嘘をつけないのなら、嘘をつけるとは言えないのだから。

「ああ、あの老いぼれの言うとおりだ。私は嘘をつけぬ」やがてサシャは沈黙していても意味がないと悟ったのか、苦虫を噛み潰したような顔で認める。「さて、貴様はどうするのか、早く決めろ」

 僕は渋々腰を上げる。
 空腹感はすでに引いていたが、立ち上がる時に少しよろける。
 冷たい壁に手をやって、バランスを取りながら僕は牢屋から出る。

 クラウスの声がしないことにふと気づく。
 ずっと小さく石の壁に反響していたのに。
 要約サシャは彼のとどめを刺したのだろうか?
 その方がいい、と僕は思ったが、するとサシャは振り返り吸血鬼の鋭い犬歯をむき出した冷笑を浮かべる。

「貴様の友達は死んだと思っているのだな? それは違う。彼の懇願を聞いていては貴様の食欲も減ると思って、喉笛を切り取ったのだ」

 僕は青ざめる。
 やってはいけないと自分に言い聞かせるのに、自然に耳を済ましてしまう。
 さっきまで静寂だった地下牢に微かに喉笛を切り取られたクラウスの呻き声が聞こえるような気がして、僕は両耳を塞ぐ。
 サシャはくすくすと目を三日月にして笑う。

 地下牢から階段を上がり、僕は二階のバルコニーに連れて行かれる。
 外は夜で、太陽の光は一筋もなかったが、夏の乾いた空気は美味しく、僕は思わず咳き込む。

 バルコニーには白いガーデン・テーブルとお揃いのチェアが用意されている。
 テーブルの上には様々なケーキが置かれている。

「私は食べないが、貴様はなんでも食べていいのだぞ」サシャは僕がテーブルにつくことを促した後、自分でも向かい側の席に座る。

 ほとんどのケーキに牛乳や卵、または蜂蜜が入っていると僕はヴィーガンの第六感を通して察知する。
 しかし、ケーキの間には無地の黒パンもある。
 僕は一瞬パンに手を伸ばしたが、どうせなら断食して死ぬほうが苦痛なく死ねるのではないかと思い、また手を引っ込める。
 数日ぐらいなにも食べていないので、腹はもう痛まないのだから。

「おやおや、貴様の断食する決意は揺るがぬか」はあ、と大げさにサシャはため息を吐き出す。「まさに私の失態よ。レイがそれほど強い意思の持ち主だと知っていたのなら、最初に貴様を殺していたのに」

 僕はサシャを睨む。「……なぜおまえはそう簡単に人を殺すとか言えるんだ?」

 サシャは不思議そうに首を横に倒す。「貴様ら人間とて動物を眉一つ動かさずに殺し、食うではないか。私が人を殺すのもそれと同じこと。違うとは言わせぬぞ」

 つと胸が絞めつけられる。
 サシャが言うことは間違っていない。
 だから僕はヴィーガンになったのだ。

(クソっ)と心の中で悪態をつく。(サシャに同情している場合じゃない)

 どうしたら生き延びることができるのか考えなければ。
 しかし、今ここで逃げ出してもすぐにまた捕まってしまうだろう。
 どうしたら――

 セットされたテーブルに長いナイフが置かれているのが目に入る。
 ケーキを切るためには鋭すぎるナイフ。
 それは燻製の鹿ハムの隣にあった。
 僕が座る場所からは少し遠い。
 立ち上がって身を乗り出せばやっと取れる範囲にある。
 そのナイフでサシャに切りつけたら、ドサクサに紛れて逃げ切れるのではないか、と思う。

(と、とにかくサシャの気を引かなければ)

 可愛っ子ぶりをして、興味津々な視線を向ける吸血鬼の方を見る。

「……おまえは嘘をつけないんだよな」

「ああ、そうだ」

「じゃあ一つ教えてくれ。どうしておまえはあの老人の目をくり抜いて、手も切ったんだ? 僕たち人間はそんな野蛮なことはしない」

「目から出る血は私が美味しいと思っているからくり抜いた」サシャは上唇を舐める。「手を切ったのは、あの老いぼれが魔法を使えるからだ。魔法で牢屋を破られては面倒であろう? そんなことも貴様は知らぬのか?」

「……手をなくすと魔法が使えなくなるのか?」

 サシャは頷く。

「だったらなぜおまえはクラウスと僕の手を取らなかったんだ?」僕はそう言って、少しだけ前に屈み、ナイフに数センチ近づく。

「質問は一つだけではなかったのか? しかしよかろう。東からやってきた貴様はヨーロッパのことをなにも知らぬらしいからな」

 サシャは僕がやろうとしていることに気づいていない。
 どことなく自慢げに――まるで親に褒めてもらいたい子供のように――鼻穴を膨らまして説明する。

「黒魔法で貴様ら二人の魔法歴を調べたのだ。クラウスは魔法が使えぬと言えるほど才能がない。レイはそもそも魔法を使ったことがない。だから手を切る必要がなかったのだ」

 額を手で支える振りをして、肘をナイフの方向に向ける。
 こうすれば一瞬で立ち上がり、ナイフを掴める。

(あ、後はサシャがちょっとだけスキを見せれば――)

「じゃあ最後に一つだけ。僕が助かる見込みはあるのか?」

 ナインいいえ――と微笑んだサシャの唇は紡ぐが、声は出てこない。
 どういうことだろう、と鹿のハムを切るためのナイフを視界の端に入れながら彼女のことを見る。

 サシャは肩をすくめる。「貴様に助かる見込みはない――と、言いたいが、それは嘘であるらしい。確かに希望は絶息するまであるのだ」

「……そ、そうか」と僕はほっと安心したような振りをする。

「しかし確率がゼロでないからと言っても、私には貴様がどう助かるかなどわからぬぞ」サシャは目を閉じて笑う。「ほぼ確実に私は貴様を殺すというのは真実なのだからな――」

 チャンスだと僕は思う。素早く腰を浮かして、ナイフに手を伸ばす。

「確率はゼロじゃないんだな」と叫んで、手に取ったナイフをサシャの顔面目掛けて振り下ろす。

 グサッ!

 ナイフの刃はサシャの額に刺さる。
 すっとマーガリンを刻むような柔らかい感触だった。
 僕は突き刺さったナイフの柄から手を放す。

「えっ?」と額から血を流すサシャは呟き、テーブルに倒れた。
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