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十五歳の夏の旅

クラウス①

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 車内には先客がいる。
 彼は腕を組んで寝ていたが、僕が中に入ると欠伸を噛み殺しながら目を開く。

「あっ、こんばんわ。君もベルリンへ旅をしているの?」僕と同い年ぐらいの少年は目尻をこすりながら言う。

 少年は人が良さそうな童顔だが、太り気味で、体格に合わない革の防具を身に着けているためちょっと滑稽に見える。

「――えっ、ええ。一応は」

 少年は嬉しそうに顔をほころばせる。「俺もそうなんだよ。ところで俺の名前はクラウスKlausミュラーMüller

 ドイツではファミリー・ネームとファースト・ネームの順番が日本とは正反対だから、クラウスが彼の名前なのだろう。

「僕は越前えちぜんヴィリバルドって言います。エチゼンって発音するのが難しかったら、レイでもいいですよ。レイはミドルネームです」

 ヴィリバルド越前・れい――両親は僕に日本の名前と別に、ミドルネームとしてドイツでも発音できる名前をつけた。

 ちなみに『越前』って変な下の名前をつけたのは言うまでもないが、ドイツ人のクソオヤジの方だ。
 ドラマの大岡越前の大ファンだから息子の名前は絶対『越前』って母がいくら止めても聞かなかったらしい。
 いや、それは完全に正確ではないかもしれない。
 父は終いには少しだけ折れて、『秀吉』って名前にしてよければ、『越前』は諦めると言った。
 だったら越前ね、と疲れ切った母は同意したらしい。
 少なくともミドルネームが和風ぽいのが唯一の救いだ。

「へんてこりんなところでレイは乗り込んできたね」走り出した馬車の窓から外を見てクラウスは言う。

「いきなり両親に置いてきぼりにされましたから」

「ふーん、俺も似たような感じなんだよ。ベルリンに行きたくないってパパに泣きついたんだけど、家から蹴り出された。でもニュルンベルクに向かっている人に拾ってもらってね。俺はラッキーだったと今は思っている」

 膨らんだほっぺたを赤くしてニコニコするクラウス。

 僕はできるだけ人懐こいクラウスからドイツのことを聞き出しておくべきだと思った。
 情報はできるだけあった方がいいし、『ツンフトZunft』のお姉さんのようにドイツ人は知らない相手に対して冷たそうな感じがする。
 これから誰もが親切にこの世界のことを説明してくれるとは限らない。

「――クラウスは魔術を使えるんですか?」下の名前で呼び捨てるのがドイツでは普通だと、土曜日に通わされた学校で教わったことを思い出しながら尋ねる。

「魔術? ああ、魔法ツァウバーゲゼッツのことね」クラウスは目を丸くする。「いやぁ~、僕には魔法の才能がないらしくてね。ベルリンには剣術シュヴェルトクンストを習いに行くんだ」

 恥ずかしそうにうつむくクラウスの体格を見て、剣術にも長けないんじゃないかな、と思う。

「でもさ、バイエルンとプロイセン復興派の戦争が始まる前に国境を越えたいよね」

 戦争という言葉を聞いて僕はぎょっとする。

(えっ? 戦争? バイエルンとプロイセンの? プロイセンは確か過去にドイツの北側をまとめあげた王国だったらしいけど、ヨーロッパではいまだに内戦があるってパパは一言も言ってなかったじゃないかっ!)

「せ、戦争って、ど、どんなふうに?」自分でも声が掠れているのがわかる。

 クラウスは目を丸くする。「さっきから思っていたんだけど、君さ、東洋人みたいな顔つきしているけど、もしかしてドイツ人じゃないの?」

「――こ、国籍は両方持っていますけど」

「ああ、レイはハーフなんだね」合点がいったようにクラウスは頷く。「じゃあ知らなくて当たり前か。説明するけどね、ドイツ全体で信仰されているのはキリスト教でも僕たちが今いるバイエルンはカトリック教派。俺もカトリックだ」

 クラウスはチュニックのような肌着の下から金色の十字架を取り出して、それにキスをする。

「一方、ベルリンの市議会が陰から操っているって言われている北ドイツの州はプロテスタント教派なんだ。だから数年ごとに州と州の間では戦争が始まる。今まで決着はついたことはないけどね。それに昨今、北ドイツではプロイセン――今はもうない王国だけど、昔からプロイセンとバイエルンは仲が悪かったんだ――とにかく、プロイセン王国をまた過去の栄光に戻そうって運動があって、めっちゃヤバイ状況なんだよ」とクラウスはコギャルみたいな口調で締めくくる。

 空腹以外の理由で凄まじい目眩に襲われる。人狼に内戦。こんな危ないところに我が子を一人にするなど親失格ではないか。なにを考えているんだ、パパとママは?

「し、しかし、戦争ってドイツではどんな感じなんですか? 戦車とか銃とかは――」

 クラウスは首を横に振る。

「銃は銀弾を込めると人狼に対して強い武器にはなるけど、人間には使えないよ。剣術や魔法で弾丸を跳ね返されちゃうからね。飛び道具は魔法で強化された矢じゃないと意味がない。乗り物も小回りが効かないから魔法を使える兵士の一人や二人にすぐ壊されてしまう。だからヨーロッパでの戦争で使われるのは主に剣や弓。それに馬と魔法。噂では、プロイセン復興派が吸血鬼とか巨人を戦場に送り込む計画を練っている――みたいなことも聞いたことがあるけど、それがどれだけ本当なのかは俺にはわからない」

 まさに中世ファンタジーだな、と僕は舌を巻いた。

 日本の同級生の中ではファンタジー作品に憧れていた友達が数人いて、そいつらにとって剣術だの魔法だの胸踊る状況なのかもしれないが、僕は正直、現代のフィクションは嫌いで、小説を読むとしたら、著作権が消滅した純文学ぐらいだった。

 中学生のくせにしてキザねぇ、ちゃんと読んでいる本のことを理解しているの? と母によく言われた。

 しかしとにかく、魔法なんて使えなくてもいいから、戦争がない平和な暮らしをしていたかった。

 また僕の腹が鳴る。するとクラウスは「お腹すいているの? ママが作ってくれたサンドイッチがあるんだけど――」

 どうせチーズやハムが挟んであるんだろ、と思って首を振ったが、クラウスは「遠慮しないで」とランチボックスを隣の座席に置いてあったリュックから取り出す。

「でもごめんね、ママは俺がダイエットするべきだって、野菜しか入っていないんだ。バターもつけてもらえなかった」クラウスはトーストの間からサラダとトマトがはみ出しているサンドイッチを差し出す。

(よ、よっしゃあ! サンクス、クラウスのママっ!)

 僕は感激してサンドイッチを受け取ろうとしたが、その瞬間、サラダに白い液体がついているのが見える。
 嫌な予感がして僕は凍りついた。
 まさか。まさか――
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