臭いモノには花

植澄 紗

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第二章【再開】

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 翌日、私たちは駅へ続く河原の道を歩いていた。

 鍵の使い方を知らない、まして人の家の机で突発的に手紙を書く、そんな常識外れの行動を繰り返す彼女にまさかと思い隣室を訪ねると、家具家電など何一つ置いてはいなかったのである。引っ越してきた裸の部屋のまま。
 けれども引っ越しの時と大きく異なるのは段ボールの山など、つまりは人が動いた痕跡がまるで無いのだ。カーテンを持たない窓は日の光を、フローリングにこれでもかという程照らしていた。『ヒトの生活』とやらを求めているのに、これでどうやって生活しようとしていたのか。山の上で山羊と共に生活していたという情報しか持たない彼女が、持って下りてきたものは現在身にまとっている服と下着。それ以外には手紙、封筒、それから鉛筆のみであった。さらには金も無いというものだから、私はほとほと呆れていた。「その有り金の無さでどうしてアパートに入居出来たのか」と問えば、やれ父様がやれ鼠様がというものだから私の中で彼女は自称山育ち自称山羊暮らしの女となっていた。第一そのようなおとぎ話を突き付けられ信じることが出来るほうがどうかしている。

 兎も角冷蔵庫や電子レンジ、エアコンに、食器、そういったものは私の家に来ればある程度は賄えるだろう。テレビ、ラジオ、ソファなど娯楽の物は生きるうえでは無くても彼女の今までの生活を想像するに困らないと考える。そのように二人で決めたのは良いものの、今後隣を歩く事が多くなるであろう私としては譲れないものがひとつだけあった。

 服だ。

 こんなフリルとリボンが数え切れぬ程ついた、まるで童話から飛び出してきたような衣類。彼女には確かに似合っているが、こんな場所では違和感しか与えない。どうにか馴染む服を買わなくては私の気が済みそうに無かった。

 キラキラと光る水の流れに逆らいながら、私たちは歩を進める。突拍子も無い出来事が降りかかってきた私とは反対に、川はいつも通りに水を運んでいた。

「なぁ、ロシェ。君はどの山から来たんだい。」

 この得体の知れない少女に少しでも歩み寄るため、出来るだけ会話をしようと試みた。

「あの山ですよ。此処よりはもう少し寒いのですが、とっても素敵な場所なのですよ。」

 彼女が指した山は近くと言っても可也の距離がある。この地はまともな交通機関として駅しか通っていない。そして電車を乗るにしても彼女の常識の無さは既に痛い程判っていた。

 恐らくは不可能だろう。

 それに山の下には電車が通れる為のトンネルを開通させたようだが、その穴は電車が通り過ぎるだけの場所に過ぎない。乗る場所、降りる場所は山に居る限り全くもって無いのである。

 彼女の人間性を計ることを忘れ、どのように此処まで移動したのか、移動手段に興味が沸いていた。

「なぁ、どうやってここまで来たんだい?」

 この場合最も有効的手段は車での移動であるが、誰が運転すると言うのだ。恐らく少女は車を運転出来る年齢では無いだろう。そもそも偏見ではあるが車の仕組みすら知らないと言われても今の私であれば容易に受け入れられそうだ。では彼女が両親だと主張する山羊が?いやいや、そんな馬鹿な。そんな器用な山羊が居るものか。車を運転出来るものなら逆に見てみたいものだ。だとするとヒッチハイクだろうか。悔しいが彼女の容姿であれば難しいとされるその手段も成功するように思える。


 けれども出てきた正解はどの選択肢でも無かった。

「歩いて参りましたよ。」

 己の耳を疑う。

「は?…まさか。この距離をかい?」

「ええ。」

 そんな馬鹿な。

 この距離を人間が歩けるはずが無い。

 まして彼女は小さな子どもだ。大の大人が困難を極めるであろう徒歩という手段を彼女が出来るとは考えづらいのだ。

 様々な考えが飛び交う中私は一つの結論を出した。最も道理が通る結論を。矢張り山育ち、山羊育ちは彼女の虚言なのであろう。私は嘘話に騙される程やわでは無い。甘く見られては困る。だがそれも含め彼女の新しい一面を知ることが出来た。大人は大人らしく、子どもの言うことに付き合ってあげるとするか。身体能力は並みの人間とは桁違い、そういうことにしておこう。してあげようじゃないか。

 そんな会話を続けていればあっという間に駅が見えた。駅に隣接した商業施設へ、なるべく人の目を掻い潜るように一階の女児用衣類店に駆け込んだ。

「さ!好きな服を一着選んでくるんだ。なんでも良い、買ってやるから。」

 財布から数枚の千円札を押し付け、背中を押す。私だって恥ずかしいのだ。こんな店に入ったことも無ければ、少女を連れた男性なんて間違われると通報されそうだ。いや、傍から見れば親子に間違われそうではあるが。

 しかし当の少女はその場から一歩も動かずにいた。

「おい、ロシェ。ロシェったら。」

 顔を除くと神妙な表情を浮かべていた。

「どうした?ロシェ。」
「…あのぅ、双橋様。」
「なんだい。」

「これ、何ですか?」

 少女の目線の先は、例の洋服店。そして不安げに渡された千円札にも目線を落とす。
 
 
 そうか。

 どうして気が付かなかったんだ。

 彼女はアパートに入居するためのお金すら理解していないようだった。そうすると服を買うという売買の仕組みも、洋服を試着するというシステムも、そもそも山育ちが本当であるならば店という概念すら何一つ知識が無いことも考え得るのだ。失念していた。

 彼女と出会ってから何度目かの溜息をつき、隣の店へズカズカと入った。流石に女児用衣類店へ一人入る勇気は未だ出なかったため、大人用も子供用も揃えてある衣類店の方へ足を踏み入れる。この際気にすることも考えなかった。もうこれ以上気を遣えるものか。その店の中で誰にでも合いそうな無難な子ども服を手に取る。白い長袖Tシャツに長めのジーンズだ。彼女の背丈に合いそうなものを適当に見繕い、乱雑に押し付けた。

「きっと君の好みや今まで着てきた服とは違うと思うが、これを着なさい。」

「はぁ。これがヒトの服ですか?」

 彼女の今来ているロリータ服も立派な人間の洋服だ。だけども何とか理由をつけようと肯定の意を示した。

「ああ。君の望む『ヒトの生活』の一部さ。」

 そうすると少女は途端に目を輝かせ、私から受け取ったショッピングバッグをこれでもかと握り締めた。大切に、大切にするようにぎゅっと包み込む。

「嬉しい、嬉しいです。でもどうして?」 

「私からの贈り物だよ。」

 これまた、此処ではその服は悪目立ちするなどと真実を口にせず少女に円滑に着てもらうための口実を建てた。

「双橋様、ありがとうございます!」

 その真意には気が付いていないだろう。それでもかみしめるようにくしゃりと笑うものだから。逃げはしないショッピングバッグを宝物のように抱えるものだから。
「…ああ。」

 なぜだろう。悪い気はしなかった。



「…で、どうやって着るのです?」
 


 前言は撤回しよう。




 * * *




 私たちはまたあの古びたアパートへ戻っていた。
  
 今度は川の流れと同じように。私が服選びだけでクタクタになってしまったため、今日のところはこれで帰宅する運びとなったのだ。世の子どもを持つ父母に尊敬の意を示したい。

 対する彼女はまだ体力が有り余っているように元気にはしゃいでいた。とてもじゃないがこの年齢の子どもはもっと昼寝をする、座ることを要求するなど一日の限界というものがあるのでは?こういうものなのか?少女曰く山からここまで降りてきたというのだ。信じがたいが私には段々と本当のようにも思い始めていた。この無限のように感じる体力は老いの差かもしれない。だとしてもこの年齢にしては体力が在り過ぎる。加えてこれ程人間の常識を知らないのだ。知らないことが多い人や常識から多少逸している人に出会ったことはあったが、あれ程の無知さは流石の私にも手に負えなかった。
 
 更には元々来ていた服が厚手だとは言え、あの軽装で山へ居たと言う。山の寒さは高校生の友人との登山時によく覚えていた。それが彼女の虚言であればそれだけのことなのだが、山に劣るとはいえこの寒さでも長袖Tシャツ一枚で平然としているのだ。追加で何枚も買おうとしたがこれ以上は暑くなるのでこれで充分であると。それが気を遣っている訳でもやせ我慢のようにも思えなかった。私は三枚もの服を重ね着、その上から一枚のアウターを羽織っているというのに。言葉が目に見える形として現実性を帯び始めていた。


 隣の扉が閉じる直前、私は咄嗟に彼女を引き止めた。

「ロシェ、」

「はい。なんですか、双橋様。」

「君は山羊に育てられた、と言っていたね。」

「ええ。それが何か?」

「…若しこれから此処で生活して行きたいのであれば、人間の常識が判らないことが大きな障害になるだろう。きっと誰しもがその点を怪しむ。だからそのことを決して周りの人間に言ってはならないよ。」

「えっと、どうしてですか?」

 人によっては面白半分にからかわれるだろう。信じられず馬鹿にされるだろう。私だって同じだ。今後彼女を友人探しに同行したとして、各方面に山羊と過ごしていたなんて言っていけば間違いなく恥をかくのは私自身なのだ。


「…私と、君の、二人だけの【秘密】だからだ。」


 その場しのぎの偽りの言葉。

 それでも彼女は喜んで信じた。ぴょんぴょんとその場で跳ねる。

「はい。【秘密】ですね!双橋様と私だけの【秘密】、何て素敵な響き!双橋様。私、早速この服に着替えてきますね。」

 バタンと勢いよく閉じた扉を見つめる。少女のあの容姿だ。きっと似合うだろう。その後にまた扉から音が聞こえ、彼女が鍵をかけたことを確認する。
 鍵のかけ方も覚えた。どんどん人間らしく成長する様はまるで小さな妹が出来たような気分で。



この感覚も悪くは無かった。

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