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プロローグ
来訪
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金曜日の夜の11時過ぎ、修一はそわそわと落ち着かない気分でリビングのソファに座っていた。妻の小百合はそんな彼の様子には気が付かず、テレビのバラエティ番組を見て声を上げて笑っている。
小百合に不審に思われぬよう、さりげなく手元のスマートフォンの画面に目を落とし、相手からの返信がないことに焦りが募った。
数十分前に送られてきた「今から行くね」というメッセージの後に続く真っ赤なハートマークが、条件反射のように修一の体温を上昇させる。つい先ほど風呂に入ったばかりなのに、肌がじっとりと汗で濡れていた。
インターフォンが鳴り響く。
小百合に合わせ、ちっとも内容の入ってこない芸人のコントに笑い声をあげていた修一の歪な笑顔は、一瞬にして凍り付いた。
「……誰? こんな遅い時間に」
小百合は眉をひそめ、モニターを確認するために立ち上がった。修一には来訪者が誰なのかわかっていたが、もちろん彼女に告げることはない。
〈やっほー、おねぇちゃん! 俺だよぉ~ん!〉
スピーカーから聞こえてきたのは、陽気な若者の声。そのテンションの高さには、機械越しでもアルコールの気配が感じられる。
「えっ、やだ。千紘? あんた、また来たの?」
〈えへへぇ~、来ちゃったぁ〉
「また酔っぱらってるし……」
小百合は呆れ顔でため息をつき、「ごめんね。また千紘が来ちゃったみたい」と修一に声をかけた。修一は内心冷や冷やしながら「いいじゃない。一人暮らしが寂しいんだよ」と返す。
ぶつくさと文句を言いながら小百合が玄関に向かうと、修一は肩を落として深い息を吐いた。鳴りやまない胸の鼓動には、緊張と不安……だけでなく、期待も入り混じっていることが彼の罪悪感を増幅させる。
千紘は小百合の8歳下の弟である。4人姉弟の末っ子で、修一とも旧知の仲だ。
修一が13歳まで過ごした地方の田舎で、小百合は同い年の幼馴染だった。家が隣で家族ぐるみで仲が良かったこともあり、修一が幼い千紘の遊び相手になってやることもよくあった。
3人の姉の影響か、いつも女児用の服を着せられていた千紘を、修一はずっと女の子であると勘違いしていたのだが。
小百合との結婚のきっかけは偶然の再会だった。修一が引っ越してから彼女との関係はぷっつりと途絶えていたが、社会人になってから東京で十数年ぶりにばったり出くわしたのだ。
ドラマのようなこともあるものだと感動を覚え、気持ちが盛り上がっていたのは小百合も同じだったのだろう。それから交際に発展するまで時間はかからなかった。
結婚してから2年、初々しかった新婚生活も過ぎ、今に至るまで順風満帆な夫婦関係を築くことができている――表向きには。
「修ちゃんいたー! 修ちゃぁんっ」
平穏をかき乱す張本人の登場に、修一は動揺を隠しきれなかった。小百合の目を気にしながら、子どものように飛びついてくる千紘を受け止める。
「もう、千紘! あんた、どんだけ飲んだのよ」
「うー……いっぱい飲んだよ」
「ごめんねぇ、修一。千紘、離れなさい」
「やだ」
千紘はソファに座る修一にまたがり、コアラのように抱き着いてくる。強いアルコールの香りが鼻腔に広がり、酒に弱い修一はくらりと眩暈を覚えた。
今日もまた、しこたま飲んだのだろう。覚えたての酒に浮かれる大学生とは言え、こうもよくベロベロになっているところを見れば千紘の学生生活が心配になる。
昨年、大学入学と同時に上京して一人暮らしを始めた千紘は、こうして頻繁に修一たちの家に押しかけて来る。
再会した千紘はあの頃とは違い、今時の男子の装いをするようになっていたが、甘え上手な末っ子気質は昔のままだ。
小百合もなんだかんだ言いつつ、可愛い弟の来訪を本気で嫌がっている訳ではない。修一にしたって、昔のように修ちゃん、修ちゃんと慕ってくる彼を無下には出来なかった。
「修ちゃん……」
「ち、ひろ、くん……」
含みを持った眼差しを向けてくる千紘に思わず魅入られそうになり、すぐにハッと我に返って目を逸らした。さりげなく密着した体を剥がそうと修一が身を捩れば、千紘はさらに身を寄せてくる。
「うぅ……気持ち悪……」
手で口を抑えた千紘は、そう言って修一にしな垂れかかった。
「だ、大丈夫か?」
「千紘、大丈夫? 水飲む?」
小百合の問いに、千紘は首を振る。
「……トイレ、行きたい」
「……俺が連れていくよ」
「ほんと、ごめんね修一。迷惑かけちゃって」
「気にしないで」
修一はぐったりした千紘の腕を肩に回し、トイレの前まで付き添った。自分も中に入って介抱するべきか逡巡していると、さっと手を引かれて中へ引き込まれる。
そしてそのまま、吸いつくように唇を奪われた。
小百合に不審に思われぬよう、さりげなく手元のスマートフォンの画面に目を落とし、相手からの返信がないことに焦りが募った。
数十分前に送られてきた「今から行くね」というメッセージの後に続く真っ赤なハートマークが、条件反射のように修一の体温を上昇させる。つい先ほど風呂に入ったばかりなのに、肌がじっとりと汗で濡れていた。
インターフォンが鳴り響く。
小百合に合わせ、ちっとも内容の入ってこない芸人のコントに笑い声をあげていた修一の歪な笑顔は、一瞬にして凍り付いた。
「……誰? こんな遅い時間に」
小百合は眉をひそめ、モニターを確認するために立ち上がった。修一には来訪者が誰なのかわかっていたが、もちろん彼女に告げることはない。
〈やっほー、おねぇちゃん! 俺だよぉ~ん!〉
スピーカーから聞こえてきたのは、陽気な若者の声。そのテンションの高さには、機械越しでもアルコールの気配が感じられる。
「えっ、やだ。千紘? あんた、また来たの?」
〈えへへぇ~、来ちゃったぁ〉
「また酔っぱらってるし……」
小百合は呆れ顔でため息をつき、「ごめんね。また千紘が来ちゃったみたい」と修一に声をかけた。修一は内心冷や冷やしながら「いいじゃない。一人暮らしが寂しいんだよ」と返す。
ぶつくさと文句を言いながら小百合が玄関に向かうと、修一は肩を落として深い息を吐いた。鳴りやまない胸の鼓動には、緊張と不安……だけでなく、期待も入り混じっていることが彼の罪悪感を増幅させる。
千紘は小百合の8歳下の弟である。4人姉弟の末っ子で、修一とも旧知の仲だ。
修一が13歳まで過ごした地方の田舎で、小百合は同い年の幼馴染だった。家が隣で家族ぐるみで仲が良かったこともあり、修一が幼い千紘の遊び相手になってやることもよくあった。
3人の姉の影響か、いつも女児用の服を着せられていた千紘を、修一はずっと女の子であると勘違いしていたのだが。
小百合との結婚のきっかけは偶然の再会だった。修一が引っ越してから彼女との関係はぷっつりと途絶えていたが、社会人になってから東京で十数年ぶりにばったり出くわしたのだ。
ドラマのようなこともあるものだと感動を覚え、気持ちが盛り上がっていたのは小百合も同じだったのだろう。それから交際に発展するまで時間はかからなかった。
結婚してから2年、初々しかった新婚生活も過ぎ、今に至るまで順風満帆な夫婦関係を築くことができている――表向きには。
「修ちゃんいたー! 修ちゃぁんっ」
平穏をかき乱す張本人の登場に、修一は動揺を隠しきれなかった。小百合の目を気にしながら、子どものように飛びついてくる千紘を受け止める。
「もう、千紘! あんた、どんだけ飲んだのよ」
「うー……いっぱい飲んだよ」
「ごめんねぇ、修一。千紘、離れなさい」
「やだ」
千紘はソファに座る修一にまたがり、コアラのように抱き着いてくる。強いアルコールの香りが鼻腔に広がり、酒に弱い修一はくらりと眩暈を覚えた。
今日もまた、しこたま飲んだのだろう。覚えたての酒に浮かれる大学生とは言え、こうもよくベロベロになっているところを見れば千紘の学生生活が心配になる。
昨年、大学入学と同時に上京して一人暮らしを始めた千紘は、こうして頻繁に修一たちの家に押しかけて来る。
再会した千紘はあの頃とは違い、今時の男子の装いをするようになっていたが、甘え上手な末っ子気質は昔のままだ。
小百合もなんだかんだ言いつつ、可愛い弟の来訪を本気で嫌がっている訳ではない。修一にしたって、昔のように修ちゃん、修ちゃんと慕ってくる彼を無下には出来なかった。
「修ちゃん……」
「ち、ひろ、くん……」
含みを持った眼差しを向けてくる千紘に思わず魅入られそうになり、すぐにハッと我に返って目を逸らした。さりげなく密着した体を剥がそうと修一が身を捩れば、千紘はさらに身を寄せてくる。
「うぅ……気持ち悪……」
手で口を抑えた千紘は、そう言って修一にしな垂れかかった。
「だ、大丈夫か?」
「千紘、大丈夫? 水飲む?」
小百合の問いに、千紘は首を振る。
「……トイレ、行きたい」
「……俺が連れていくよ」
「ほんと、ごめんね修一。迷惑かけちゃって」
「気にしないで」
修一はぐったりした千紘の腕を肩に回し、トイレの前まで付き添った。自分も中に入って介抱するべきか逡巡していると、さっと手を引かれて中へ引き込まれる。
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