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第五話 戯作者の生きる道

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 蔵之介が洲崎の先の船宿を訪ねたのは、それから三日後だった。

 夏の日射しが強い一日で、本所の屋敷を出た直後から蔵之介の額は汗で濡れていた。日影をねらって歩いても、暑さが身体がまとわりつく有様で、しんどかった。

 町の者もうんざりしているようで、棒手振は青い空を見あげてため息をついていたし、店頭で水を打つ小僧の顔もひどく暗かった。

 深川を抜けて洲崎に入った時には、陽光で頭を押さえつけられて、蔵之介は息も絶え絶えだった。

「今日は、お暑うございますね」

 やわらかい声が響いて、蔵之介は正面に座る女を見た。

 まだ三〇にはなっていまい。濃い紫の帷子に茶の帯で、髪は島田に結っている。

 小柄だが、背筋は伸びており、凛々しさすら感じる。

 顔立ちは整っており、細い目と小さな口が目を惹く。わずかに塗られた口紅が色気を感じさせる。

 宿屋の女将らしい、実に整ったいでたちだ。

「お客様もさんざんこぼしながら出かけていきました。せめて雲が出てくれればよいのと」
「それでも、海辺は涼しいですよ。ようやく落ち着きました」
「それは何よりで」

 そこで女は頭を下げた。

「申し遅れました。しずと申します。この船宿の女将を務めております」
「辻蔵之介です。以後、よろしく」

 二人はしばし、たわいのない雑談をした。そこから自然と話は船宿の話となった。

「屋号は『たいそう』と言うのですね。何かいわれでも」
「主人が水滸伝が好きでして、そこの登場人物からいただいたのです」
「ああ、神行太保ですか」

 神行太保戴宗しんこうたいほうたいそうは水滸伝の登場人物で、梁山泊で八面六臂の活躍をした。神行法という速歩の道術を使って唐の国を駆けめぐり、戦士の送り迎えや捕虜の救出、行方がわからなくなった人物の捜索をおこなった。人を説き伏せる能力にも長け、多くの英傑を梁山泊に導いている。

 宿の名前としてはおもしろい。あえて、皇帝に逆らった大罪人の名前を借りたのであるから、よほど思い入れがあるのだろう。

「私も水滸伝は読みました。よいですね、あれは」

 しばし二人は水滸伝について語り合った。といっても、喋るのはほとんどが蔵之介で、しずは聞き役に回っていた。

「詳しいのですね。夫が生きていたら、さぞ喜んだと思います」
「亡くなったのは、いつですか」
「五年前です。流行病であっという間に」

 それ以降は、しずが宿を営んでいる。大変だったが、夫の思いがこもった店を何としても残したいという思いがあったようだ。

「それで、もめ事とというのは」
「はい。実は、とあるお武家さまに嫌がらせをされておりまして。ひどく困っているのです」
「何があったのですか」
「お恥ずかしい話なのですが……」

 事のはじまりは、旗本の息子が馴染みの町民にからんだことだった。余りにもひどかったので、見かねて、『たいそう』の下男が助けた。

 下男は町道場に通って腕を磨いており、武家相手でも互角に戦うことができた。

 その旗本の息子が放蕩者だったこともあり、下男はたちまち叩きのめして町民を救い、『たいそう』に連れて帰った。

 しずは事情を訊いて、しばらく町民を宿に入れて怪我の手当てをした。落ち着いたところで家に帰したが、その時にも下男に送り迎えをさせた。

 町民側からすれば、これで一件落着だが、旗本にしてみれば叩きのめされた上に、町民を連れて行かれてしまったのだから、腹の虫が治まらない。

 間を置かず、旗本の息子は『たいそう』に押しかけ、下男を出すように居丈高に命じた。

 それをしずは突っぱねた。理は町民側にあり、無法な武家の要求に従うつもりはないと言い切ったようだ。正しいとはいえ、強気であることは間違いない。

「怖くなかったのですか」
「震えが止まりませんでした。ですが、ここで引いては、お客様を守ることはできません。一度、迎え入れたからには、最後まで面倒を見ませんと、夫に叱られてしまいます」

 しずの言葉に迷いはなかった。さすがに船宿の主だ。

「それで、その後で嫌がらせがはじまったと」
「店先に汚れ物がまかれたり、買い物に出かけた下女が襲われたりしました。納屋の屋根が壊されたこともあって、あの時は往生しました」
「女将さんは大丈夫だったのですか」
「実は、半月前に、その旗本の一党に取り囲まれて脅されました。幸い知り合いが見かけて声をかけてくれたので、大事には至りませんでしたが」
「うまくないですね。もめ事があったのはいつぐらいですか」
「一月前です。ちょうど梅雨の中休みで、陽が出ていました」
「なのに、まだあきらめていないとは。相当にしつこいですね」

 よほど叩きのめされたことを根に持っているのか。

「これ以上は、お客様の迷惑になります。大事になる前に終わりにしたいと思っていたところに、辻様の話を聞きまして。無理を言って来ていただきました」

 しずは手を突いて、頭を下げた。

「よろしくお願いします。『たいそう』を救ってください」
「手をあげてください。そんなことをされても困ります」

 それでも、しずは動かなかった。

 蔵之介は息をついた。これは、もう引くことはできまい。

「わかりました。できるだけのことはしましょう」
「あ、ありがとうございます。助かります」
「たいしたことはできませんが」
「かまいません。やってくださるだけでも救われます」

 本気でしずは感謝していて、蔵之介としてはこそばゆかった。例によって流されている気もするが、それはそれでやむを得まい。

「それで、相手はどこの家の者です」
「本所の山村主膳様です。私共にからんできたのは、嫡男の信一郎という方で」

 なんと、山村家が相手とは。妙な縁がある。

 かつて玄庵の騒動をかかわった時、からんできたのが山村家の次男であった。ひどい嫌がらせをしてきて、蔵之介は彼と直接対決して、手を引くように迫った。

 おかしいのは次男だけでなかったようだ。いや、家が迷惑を顧みないからこそ、あのような人物が出てくるのかもしれない。

「わかった。まずは相手の出方を探ろう」

 蔵之介のことが知られるまで、まだ時はかかるだろう。こちらの動きが知られる前に、敵味方の関係を把握しておきたい。

「孫子の兵法にもある。己を知り、敵を知れば、百戦あやうからずとな」

 蔵之介は立ちあがった。

 腹はくくった。後はやるべきことをやるだけだ。
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