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第四章 なすりつけ

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「わざわざ来てもらって悪かったな」
「とんでもありません。戸田様。あれだけ世話になっておりながら、ここのところ無沙汰で、申しわけありません」

 蔵之介が頭を下げると、軽やかな声が振ってきた。

「何を他人行儀な。前と同じ一之新でいい。とりあえず顔をあげてくれ」
「はい」

 蔵之介は顔をあげると、青白い顔をした武家が座っていた。

 明らかに痩せた。頬の肉はそげ落ち、目も深くくぼんでいる。かつては広かった胸板も薄くなっており、藍色の小袖が異様なほど大きく見えてしまう。

 顔色は青とも黒ともつかぬ色で、見ていて痛々しい。

 さながら病人のようだ。道場で疲れ知らずだった時代を知っているだけに、蔵之介は哀しくなった。
「忙しいとは聞いておりました」
「まあ、そこそこににな。役所と屋敷を行ったり来たりの日々がつづいていた」

 一之新は笑う。それもどこか痛々しい。

 戸田家は八代将軍吉宗とともに紀州から江戸に来た一族で、代々、御勘定所に勤めた。石高は一〇〇〇石で、父親の代に三〇〇石の加増を受けた。

 一之新の父は、普請役、支配勘定を経て、御勘定組頭を勤めた役人で、勘定奉行への就任も打診されたのであるが、体調が悪さを理由に断っている。

 一之新自身も俊才として評判で、元服するとすぐに奉行のお声掛かりで、御勘定所に入った。勘定として頭角をあらわし、すぐにでも吟味方に進むとみられていたが、今はその手前で足踏みしていた。

「あいかわらず、戯作者を目指しているのか」
「他にやることがございませんので」
「まったく、その気になれば、どんな役目でも務まろうに」
「力のある者はいくらでもおりますから」
「どこかに声をかけてやろうか」
「遠慮しておきます。力不足ですし、何より先立つものがありませんので」

 役目に就くには、上役や同僚に金を積まねばならず、それは五両や一〇両ではすまない。困窮しているのに、それ以上の金を出すことなんてできない。

 まったく、この世は世知辛い。

「それより一之新様、いったい何があったのですか。ひどい目にあったと聞きましたが」

 蔵之介が玄庵から聞いた話を語ると、一之新は大きく息をついた。

「やはり、その話であったか。心配させたようだな」
「いえ、たいしたことでは」
「玄庵殿の話は正しい。私は年貢の取り立てをしくじり、役目を解かれる寸前だ。下手をすれば、戸田家は取りつぶしとなろう」
「いったい、どうして」
「こうなっては、きちんと話をするべきであろうな」
 一之新は背筋を伸ばした。誰が相手でも礼を尽くして話をするのは、以前とまったく変わりがない。
「私が御勘定所で帳面方を務めていることは知っているな」
「はい」
「知ってのとおり、勘定方では年貢の勘定をおこない、それが正しいかどうか調べる。間違うと、お上の実入りだけでなく、その土地を差配している代官や領主様にも迷惑がかかる。細かい気をつかうところだが、やりがいも感じていた」
「数をあわせるのは、昔から得意でしたね。ささっと計算するのを見て、驚かされました」
「向いていると思ったから、一生懸命にやった。だが、三月みつきほど前に、下野利根川沿いの天領で、年貢の徴収に間違いがあることに気づいた。数年前から過少になっており、江戸に運ばれる米が少なくなっていたのだ。何度も見直したが、間違いは間違いだった」
「そんなことがあるのですか」
「めったにない。いや、あってはならぬことだ」

 年貢徴収は幕府財政の根幹であり、間違いは許されない。事実だとすれば、勘定方の責任が問われる。

「御奉行は厳しく叱責された。我らも咎を受けることになろう」
「どうして、そんなことが」
「はっきりしたことはわからぬ。だが、調べを進めると、下り米問屋の大和屋がかかわっていることがわかった。やたらと代官所に出向いて、話をしているようだった。さらに詳しく調べようとしたら、横槍が入って手を引くように言われた。放っておいて勝手に調べを進めると、今度は上役から帳面の不備を指し示され、御役目から外されてしまった。悪いのはすべて私というのが、上役の見立てのようだ」
「そんな」
「申し開きはしたが、聞き入れてはもらえなかった。どうやら、私は触れてはならぬ所に触れたらしい」

 一之新は苦い笑みを浮かべた。

「この先、どうなるかはわからぬ。あちこちにかみついたこともあって、私の評判は悪いからな」
「かみついたというのは、株仲間の件ですか」
「そうだ。よく知っているな」
「三左衛門から聞きました」

 屋敷を訪ねる前、蔵之介は三左衛門と会って、一之新の近況を聞いていた。

 彼の話によれば、一之新は株仲間の再興に積極的だった。

 株仲間は文政の頃に同業の問屋が集まって結成されたが、物品高騰の元凶とされて、水野忠邦の改革で強制的に解散となっていた。おかげで酒問屋であっても、薬種問屋であっても、自由に商いをはじめることができたが、あまりにも変化が急激だったため、統制が乱れて、日々の商いに大きな影響が出るようになった。

 ろくに品物もないままに商いをするので、買った品物が届かず、もめることが目立った。

 必ずしも株仲間は悪ではないとの見立てから、早いうちに復活させて、商いの統制を取り戻そうという動きも出ており、一之新はそれに加わっていたようだ。

「勘定方は、株仲間には冷たい。御奉行も再興には気乗りがしないようで、町奉行との話し合いも進めていなかった。だが、今のままでは、町の者はもちろん、お上のためにもよろしくない。そのあたりが気になって、建白書を出したのだが、それがかえってよくなかったようだ。上役だけでなく、御奉行からもにらまれることになった」
「変わりませんね。そういうところは」

 一之新は、昔から正しいと思えば、余計な小細工はせずに、正面から押し通すところがあった。道理の正しさで相手を論破するやり方だ。

 そういったふるまいに蔵之介は好感をおぼえたが、一方で恨みを持つ者も増えることは想像がついた。

「株仲間の件でにらまれているところに、今度の話だ。風当たりが強くなるのは当たり前よ」
「ですが、年貢の件は心あたりがないのでしょう」
「ああ、役目はきちんと果たしていた」
「ならば、文句を言われる謂れはありませんな」

 蔵之介は決断を下した。

「わかりました。話を聞くかぎり、一之新殿はつまらぬ罪をきせられている様子。ならば、ここは一肌脱ぎましょう」
「いや、しかし、それは」
「やらせてください。一之新殿には何かと世話になりましたから」
「……よいのか。手を貸せば、何か言われるぞ」
「罵られるのは慣れております。小普請で役立たずと思われていますから。ここで一つや二つ、増えたところでどうということはございませぬ」
「わかった。手間をかけてすまぬが、よろしく頼む」

 一之新が頭を下げた。

 たとえ年下であっても礼を尽くす。それが変わっていなかったのも、蔵之介にはうれしかった。
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