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第三章 重板(じゅうはん)
五
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蔵之介が桐文堂に赴いたのは、三左衛門と話をしてから三日ほど経ってからだった。それまでは家から出ず、ただ書庫の書籍を眺めていた。
「どうですか。辻様。悪党は捕まえられそうですか」
甚五郎とは桐文堂の店先で話をした。
ひどく湿気の強い日で、頭上には厚い雲がかかっていた。棒振りも不安げに空を見あげていた。
「尻尾らしきものはつかんだ。後は住み処を押さえればどうにかなろう」
「さすがですな。何とか書肆仲間には先んじたいところです」
甚五郎は、ほかの版元が共同で下手人を捜していると語った。荒っぽい連中に声をかけ、一気に引っ捕らえるつもりらしい。
株仲間はすでに解散になっていたが、会合は定期的におこなわれており、その場で追っ手をさし向けることに決めたようだ。
「うちに話がなかったのは、仲間だと思われていたからです。疑いを晴らすためにも、我らの手で押さえて、行司に突き出しませんと」
「そのことなのだがな、甚五郎」
「何ですか」
「奴らを見逃すことはできぬか」
甚五郎が蔵之介を見る。その眼光は途方もなく強い。
「奴らの作った本を見たであろう。素晴らしい出来だ。版木師も摺師も、相当の腕だ。筆耕にしても、流行をよく捉えて、読み安い字で板下を作っている。そこいらの版元よりも腕は確かだ。おそらく新作を作らせれば、もっとよいものを仕上げるだろう」
「何をおっしゃりたいのですか」
「奴らの気持ちは我らと同じだ。よい本を作ろうという気持ちであふれている」
「それで」
甚五郎の視線は鋭く、蔵之介は気圧された。うまく言葉をつむげない。
それを見てとって、甚五郎は言葉をつづける。
「奴らを許せなど言いたいのですか」
「そうは申さぬ。重板はやってはならぬこと。これは定めなのであるから、見逃せとは言わぬ。ただ、重い罰を科すことはなかろう。改心させて、江戸の版元に迎え、一から教えれば、よい仕事を……」
「駄目です。ありえません」
甚五郎はきっぱりと言い切った。
「辻様はわかっておられません。重板がどれだけ罪か。我らの生き死ににこれで決まるのです」
「わかっている。だから……」
「いいえ。わかっていません。わかっていれば、そんな話ができません」
甚五郎は店に戻り、書籍を手にして戻ってきた。
「これは、今年の春に出した高梅止水の『神州常山仇討奇譚』です。一五丁の大作で、桐文堂でも力を入れて出しました」
「読んだ。寝返った蛇女が挑みかかってくるところはよかったな」
「お褒めいただき、恐縮です。ですが、この本、儲かるかどうかはきわどいところです。もしやすると、損をするかもしれません」
「どれぐらい刷っているのか」
甚五郎は部数を語った。思いのほか少ない。
「買ってくださる方もおりますが、たいていは貸本です。我らも馴染みだけでなく、一見の貸本屋にも声をかけて引き取ってもらいました。その時には、うちの売れ筋の本も持たせています。かなり値引きして。それでも、ぎりぎり儲かるかどうかの数しか刷っていません」
甚五郎は目線を下げた。その手は強く握られている。
「『神州常山仇討奇譚』は三十文。儲けたいのあれば、もっと部数を刷ればよいのですが、実際に売ってみなければ、どれほどの数が出るかはわかりません。様子を見て、二刷、三刷とするのが、最もよいやり方です。『神州常山仇討奇譚』にしても、二刷りできるかどうかはきわどいところです」
基本的に、草双紙は春に刊行して、一年で売り切る。何回も刷りを重ねる作品は限られている。八犬伝は例外中の例外といっていい。
「開板には手間も金もかかります。それでいて、儲かるとは限らない。なのに、我らは書籍を刊行する。なぜだか、わかっていますか」
甚五郎は顔をあげて、蔵之介を見る。
「本が好きだからです。己が作った書籍が店頭に並び、お客様が手に取る。その時が楽しくて、我らは薄利の商売をやっているのです。本気で金を稼ぎたいと思うのであれば、他の仕事をやっています」
「……」
「そうして懸命に作りあげた版木を勝手に写して刊行する。そんなことあってはなりません。それは我ら版元に対する冒涜です。決して許してはならない罪です」
甚五郎の言葉は、かつてないほどの熱量がこもっていた。血を吐くような語りは、書物に対する思いそのものであろう。
甚五郎は長く書籍の世界にいて、そのいいところも悪いところも知っている。つらい目に会ったことも一度や二度ではないはすだ。
だからこそ、その言葉は胸を打つ。苦しくても踏みとどまった者だけが知る思いは確かにある。
「……すまなかった」
蔵之介は頭を下げた。
「勝手な思い込みで浅はかなことを言った。許してくれ」
「いえ。こちらこそ。戯れ事を申しました」
甚五郎も頭を下げた。顔をあげた時には、いつもの表情に戻っていた。
「では、辻様」
「下手人は取り押さえる。その後のことは、おぬしたちにまかせる」
蔵之介は視線を切って、足早に桐文堂から離れる。
その頬に水滴がつく。雨だ。
たちまち雨脚は強くなり、町の者は軒の下に身を隠す。
その中、蔵之介は、濡れて着物が重くなるのも気にせず、少し顔を下げただけで、ひたすら前に進んでいた。
「どうですか。辻様。悪党は捕まえられそうですか」
甚五郎とは桐文堂の店先で話をした。
ひどく湿気の強い日で、頭上には厚い雲がかかっていた。棒振りも不安げに空を見あげていた。
「尻尾らしきものはつかんだ。後は住み処を押さえればどうにかなろう」
「さすがですな。何とか書肆仲間には先んじたいところです」
甚五郎は、ほかの版元が共同で下手人を捜していると語った。荒っぽい連中に声をかけ、一気に引っ捕らえるつもりらしい。
株仲間はすでに解散になっていたが、会合は定期的におこなわれており、その場で追っ手をさし向けることに決めたようだ。
「うちに話がなかったのは、仲間だと思われていたからです。疑いを晴らすためにも、我らの手で押さえて、行司に突き出しませんと」
「そのことなのだがな、甚五郎」
「何ですか」
「奴らを見逃すことはできぬか」
甚五郎が蔵之介を見る。その眼光は途方もなく強い。
「奴らの作った本を見たであろう。素晴らしい出来だ。版木師も摺師も、相当の腕だ。筆耕にしても、流行をよく捉えて、読み安い字で板下を作っている。そこいらの版元よりも腕は確かだ。おそらく新作を作らせれば、もっとよいものを仕上げるだろう」
「何をおっしゃりたいのですか」
「奴らの気持ちは我らと同じだ。よい本を作ろうという気持ちであふれている」
「それで」
甚五郎の視線は鋭く、蔵之介は気圧された。うまく言葉をつむげない。
それを見てとって、甚五郎は言葉をつづける。
「奴らを許せなど言いたいのですか」
「そうは申さぬ。重板はやってはならぬこと。これは定めなのであるから、見逃せとは言わぬ。ただ、重い罰を科すことはなかろう。改心させて、江戸の版元に迎え、一から教えれば、よい仕事を……」
「駄目です。ありえません」
甚五郎はきっぱりと言い切った。
「辻様はわかっておられません。重板がどれだけ罪か。我らの生き死ににこれで決まるのです」
「わかっている。だから……」
「いいえ。わかっていません。わかっていれば、そんな話ができません」
甚五郎は店に戻り、書籍を手にして戻ってきた。
「これは、今年の春に出した高梅止水の『神州常山仇討奇譚』です。一五丁の大作で、桐文堂でも力を入れて出しました」
「読んだ。寝返った蛇女が挑みかかってくるところはよかったな」
「お褒めいただき、恐縮です。ですが、この本、儲かるかどうかはきわどいところです。もしやすると、損をするかもしれません」
「どれぐらい刷っているのか」
甚五郎は部数を語った。思いのほか少ない。
「買ってくださる方もおりますが、たいていは貸本です。我らも馴染みだけでなく、一見の貸本屋にも声をかけて引き取ってもらいました。その時には、うちの売れ筋の本も持たせています。かなり値引きして。それでも、ぎりぎり儲かるかどうかの数しか刷っていません」
甚五郎は目線を下げた。その手は強く握られている。
「『神州常山仇討奇譚』は三十文。儲けたいのあれば、もっと部数を刷ればよいのですが、実際に売ってみなければ、どれほどの数が出るかはわかりません。様子を見て、二刷、三刷とするのが、最もよいやり方です。『神州常山仇討奇譚』にしても、二刷りできるかどうかはきわどいところです」
基本的に、草双紙は春に刊行して、一年で売り切る。何回も刷りを重ねる作品は限られている。八犬伝は例外中の例外といっていい。
「開板には手間も金もかかります。それでいて、儲かるとは限らない。なのに、我らは書籍を刊行する。なぜだか、わかっていますか」
甚五郎は顔をあげて、蔵之介を見る。
「本が好きだからです。己が作った書籍が店頭に並び、お客様が手に取る。その時が楽しくて、我らは薄利の商売をやっているのです。本気で金を稼ぎたいと思うのであれば、他の仕事をやっています」
「……」
「そうして懸命に作りあげた版木を勝手に写して刊行する。そんなことあってはなりません。それは我ら版元に対する冒涜です。決して許してはならない罪です」
甚五郎の言葉は、かつてないほどの熱量がこもっていた。血を吐くような語りは、書物に対する思いそのものであろう。
甚五郎は長く書籍の世界にいて、そのいいところも悪いところも知っている。つらい目に会ったことも一度や二度ではないはすだ。
だからこそ、その言葉は胸を打つ。苦しくても踏みとどまった者だけが知る思いは確かにある。
「……すまなかった」
蔵之介は頭を下げた。
「勝手な思い込みで浅はかなことを言った。許してくれ」
「いえ。こちらこそ。戯れ事を申しました」
甚五郎も頭を下げた。顔をあげた時には、いつもの表情に戻っていた。
「では、辻様」
「下手人は取り押さえる。その後のことは、おぬしたちにまかせる」
蔵之介は視線を切って、足早に桐文堂から離れる。
その頬に水滴がつく。雨だ。
たちまち雨脚は強くなり、町の者は軒の下に身を隠す。
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