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第二章 己の居場所
四(上)
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みよの話を受けて、蔵之介は後をつけて様子を見ることにした。近江屋の向かい側にある飯屋に朝から貼りついて、出てくると、距離を取って背後につけた。
みよは思いのほか出歩くことが多く、しかも上野や小石川、浅草といった店からかなり離れた場所まで赴くことが多かった。
一度は品川まで行き、帰ってくるのは日暮れ寸前ということもあった。
男の手代もいるだろうに、なぜこれほど遠くに行かせるのか。蔵之介には気になった。
「店の用事なんです。おかみさんに言われて」
その日、蔵之介はみよと深川に向かっていた。
怪しい人物はいないと見て、いつも違って横に並んで話しかけた。
「品川のお客様は旅籠のおかみさんで、前に仕立てた留め袖が気に入らなかったみたいで、話を聞きに行ったんです」
「なら、文句を言われただろう」
「はい。けれど、それは仕立てでおかしな所があったからでした。謝って直したら許してくれました」
「直したというのは、その場でか」
「たいした手間ではなかったので」
そんな簡単なものなのか。蔵之介は首をひねった。
「あたしは、作った着物を着て楽しんでいただけば、それでいいんです。気に入って、どこへでも着てくだされば、それだけで幸せです」
「おぬしは針子の仕事が好きなのだな」
「はい。着物を作っている間だけは、自分を忘れていられます」
そのあたりの思いは、蔵之介と同じらしい。そう思うと、みよに親近感が湧く。
「実はな……」
蔵之介は、戯作を書いていることをみよに告げた。
苦しい時間でもあるが、それでも心弾む情景を紙に書き写すのはたまらなく心地よいと。
みよは目を見開いたが、それは単純な驚きで、書いていることを馬鹿にするようなところはなかった。
しばし、二人は流行の草双紙について語り合った。
今川町の一軒家にたどり着いたのは、半刻ほど経ってからだった。
「おや、今日だったかい。これはすまなかったねえ」
顔を出したのは、島田に結った芸者だった。年の頃は三〇といったところだろうか。黒の振り袖が実によく似合っている。
ふるまいは落ち着いており、わずかな仕草にも色気をおぼえる。
「こんにちは、達蔵姐さん」
「久しぶりだね、みよ坊。いよ、もう坊という年でもないか」
達蔵は笑った。清々しい笑みで、見ているだけで心地よくなる。
「例の振り袖の話だよね。悪いね、明日だと思っていたんで、客を呼んじまったんだよ。いいかい」
「かまいませんよ」
「あら、もしかして、みよかい」
襖が開いて、若い芸者が顔を見せた。五吉で、だらしなく横になっている。
「久しぶりって……どうして、蔵之介様がいっしょなのさ」
「何を言っている。みよのを押しつけたのは、おぬしであろう」
「いっしょにいるとは思わなかった。いったい、どういうことさね」
「あ、達蔵姐さん。裾にほつれが」
そこで、みよが割って入った。顔は右の袖に向けられている。
「あら、いやだ。どこかで引っ掛けたかしらね。困ったわね」
「直しますよ。こちらへ」
いいのかいという達蔵を引っぱって、みよは奥へ入った。
残された蔵之介は仕方なく座敷に入って、五吉と向かい合うようにして座った
「仲がよくて、ようございますね。ああいう娘が好みですか」
「そういうわけではない。そもそも、話を持ってきたのはおぬしではないか」
「でも、ずっといっしょとは思いませんでした。これだから、男は……」
「何だ、その言い草は、何も悪いことはしていないぞ」
「どうだか」
「いいか、私は武家につけられているというから様子を見ているだけだ」
蔵之介がみよの話を伝えると、五吉の表情が変わった。ちらりとみよが消えた先を見て、声をひそめて話をつづける。
「そのことですか。何か妙ですよね」
「心あたりはあるのか」
「うちに来た時、変な男が後をつけてきたのを見ましたよ。一度だけですけれど」
「いつだ」
「蔵之介様に話をする三日ほど前のことですね」
「最近ではないか。顔は見なかったか」
「残念ですが、細かいところまでは。その後も気をつけてはいるんですが、そんなにあの娘と顔をあわせる機会もないので」
「だから、私に話を持ってきたのか」
「ええ、まあ」
五吉は、みよがいじめを受けていることを知っており、そのあおりで妙な連中にねらわれているのではないかと告げた。
「いじめなんて、馬鹿のやることですよ。お粗末もいいところです」
「みよは、自分が下手だから仕方ないと言っていた」
「はあ? 冗談でしょう」
五吉は目を吊り上げた。
「あの娘は、とんでもないお針子ですよ。手が早くて、それでうまい。人の倍で縫って、しかも間違いがない。手間のかかる振り袖だって、あの娘にかかったら、あっという間ですよ」
五吉がまくしたてので、蔵之介は驚いた。
「そうなのか」
「お武家様の打掛だとか、大店の娘さんの晴れ着とか、手がかかるような品物はすべてあの娘が作っているんですよ。口うるさい娘さんも、あの娘が作った服なら何の文句も言いません。それだけの着心地なんですよ」
「そういえば、品川の旅籠でもそんな話をしていたな」
「あ、もしかして、ゆきやの女将でしょう。そうか、あの人まで得心させてしまうのかあ。ああ、あたしにも作ってほしいなあ」
「やればよかろう」
「お金がないんですよ。こんな甲斐性なしに貢いだおかげでね」
五吉は顔をしかめたが、それはわずかの間だけで、すぐに不安げな表情を浮かべる。
「それなのに、あの娘は自分は全然、駄目だって言って、いつも煮え切らない態度を取ってばかりで。本当は、越後屋で針子を務めていてもおかしくないのに」
「だから、つけ込まれるか」
「うるさい、こんな所、出て行ってやるって言って飛びだしちまえばいいんですよ。あの娘ならば、どこでも雇ってくれますよ」
五吉は顔を真っ赤にして吠えた。
まっすぐな気性で、一目置かれているだけのことはある。理不尽は許さないという姿勢が明快だ。
「しかし、それほどの腕ならば、近江屋としても手元に置いておきたかろう。いじめで店を辞めてしまったら、どうするつもりだ」
「さあ、そんなこと考えていないんじゃないですか。針子がどうなろうと関係ないと。縁の下を大切にしないようじゃ、先は長くありませんね」
「そうかな」
彼が聞いた話とはいささか違うようだが……。
なおも先をつづけようとした時、達蔵とみよが戻ってきた。
「すまなかったね。待たせてしまって。おかげで、ほら、このとおりだよ」
達蔵が振った袖は綺麗に直っており、ほつれていた所はまったくわからなかった。
「ありがとうね。みよ」
褒められると、みよは照れくさそうにうつむいた。
「さて、お茶にしようかね。そちらのお武家さまもいいかい」
「もちろん」
蔵之介がうなずくと、さっと五吉が立ちあがって、土瓶を手に取った。その仕草には美しく、思わず蔵之介は息を呑むほどだった。
さすがに見ているだけでは埒があかぬとみて、蔵之介は一歩、前に出る決断を下した。
みよは思いのほか出歩くことが多く、しかも上野や小石川、浅草といった店からかなり離れた場所まで赴くことが多かった。
一度は品川まで行き、帰ってくるのは日暮れ寸前ということもあった。
男の手代もいるだろうに、なぜこれほど遠くに行かせるのか。蔵之介には気になった。
「店の用事なんです。おかみさんに言われて」
その日、蔵之介はみよと深川に向かっていた。
怪しい人物はいないと見て、いつも違って横に並んで話しかけた。
「品川のお客様は旅籠のおかみさんで、前に仕立てた留め袖が気に入らなかったみたいで、話を聞きに行ったんです」
「なら、文句を言われただろう」
「はい。けれど、それは仕立てでおかしな所があったからでした。謝って直したら許してくれました」
「直したというのは、その場でか」
「たいした手間ではなかったので」
そんな簡単なものなのか。蔵之介は首をひねった。
「あたしは、作った着物を着て楽しんでいただけば、それでいいんです。気に入って、どこへでも着てくだされば、それだけで幸せです」
「おぬしは針子の仕事が好きなのだな」
「はい。着物を作っている間だけは、自分を忘れていられます」
そのあたりの思いは、蔵之介と同じらしい。そう思うと、みよに親近感が湧く。
「実はな……」
蔵之介は、戯作を書いていることをみよに告げた。
苦しい時間でもあるが、それでも心弾む情景を紙に書き写すのはたまらなく心地よいと。
みよは目を見開いたが、それは単純な驚きで、書いていることを馬鹿にするようなところはなかった。
しばし、二人は流行の草双紙について語り合った。
今川町の一軒家にたどり着いたのは、半刻ほど経ってからだった。
「おや、今日だったかい。これはすまなかったねえ」
顔を出したのは、島田に結った芸者だった。年の頃は三〇といったところだろうか。黒の振り袖が実によく似合っている。
ふるまいは落ち着いており、わずかな仕草にも色気をおぼえる。
「こんにちは、達蔵姐さん」
「久しぶりだね、みよ坊。いよ、もう坊という年でもないか」
達蔵は笑った。清々しい笑みで、見ているだけで心地よくなる。
「例の振り袖の話だよね。悪いね、明日だと思っていたんで、客を呼んじまったんだよ。いいかい」
「かまいませんよ」
「あら、もしかして、みよかい」
襖が開いて、若い芸者が顔を見せた。五吉で、だらしなく横になっている。
「久しぶりって……どうして、蔵之介様がいっしょなのさ」
「何を言っている。みよのを押しつけたのは、おぬしであろう」
「いっしょにいるとは思わなかった。いったい、どういうことさね」
「あ、達蔵姐さん。裾にほつれが」
そこで、みよが割って入った。顔は右の袖に向けられている。
「あら、いやだ。どこかで引っ掛けたかしらね。困ったわね」
「直しますよ。こちらへ」
いいのかいという達蔵を引っぱって、みよは奥へ入った。
残された蔵之介は仕方なく座敷に入って、五吉と向かい合うようにして座った
「仲がよくて、ようございますね。ああいう娘が好みですか」
「そういうわけではない。そもそも、話を持ってきたのはおぬしではないか」
「でも、ずっといっしょとは思いませんでした。これだから、男は……」
「何だ、その言い草は、何も悪いことはしていないぞ」
「どうだか」
「いいか、私は武家につけられているというから様子を見ているだけだ」
蔵之介がみよの話を伝えると、五吉の表情が変わった。ちらりとみよが消えた先を見て、声をひそめて話をつづける。
「そのことですか。何か妙ですよね」
「心あたりはあるのか」
「うちに来た時、変な男が後をつけてきたのを見ましたよ。一度だけですけれど」
「いつだ」
「蔵之介様に話をする三日ほど前のことですね」
「最近ではないか。顔は見なかったか」
「残念ですが、細かいところまでは。その後も気をつけてはいるんですが、そんなにあの娘と顔をあわせる機会もないので」
「だから、私に話を持ってきたのか」
「ええ、まあ」
五吉は、みよがいじめを受けていることを知っており、そのあおりで妙な連中にねらわれているのではないかと告げた。
「いじめなんて、馬鹿のやることですよ。お粗末もいいところです」
「みよは、自分が下手だから仕方ないと言っていた」
「はあ? 冗談でしょう」
五吉は目を吊り上げた。
「あの娘は、とんでもないお針子ですよ。手が早くて、それでうまい。人の倍で縫って、しかも間違いがない。手間のかかる振り袖だって、あの娘にかかったら、あっという間ですよ」
五吉がまくしたてので、蔵之介は驚いた。
「そうなのか」
「お武家様の打掛だとか、大店の娘さんの晴れ着とか、手がかかるような品物はすべてあの娘が作っているんですよ。口うるさい娘さんも、あの娘が作った服なら何の文句も言いません。それだけの着心地なんですよ」
「そういえば、品川の旅籠でもそんな話をしていたな」
「あ、もしかして、ゆきやの女将でしょう。そうか、あの人まで得心させてしまうのかあ。ああ、あたしにも作ってほしいなあ」
「やればよかろう」
「お金がないんですよ。こんな甲斐性なしに貢いだおかげでね」
五吉は顔をしかめたが、それはわずかの間だけで、すぐに不安げな表情を浮かべる。
「それなのに、あの娘は自分は全然、駄目だって言って、いつも煮え切らない態度を取ってばかりで。本当は、越後屋で針子を務めていてもおかしくないのに」
「だから、つけ込まれるか」
「うるさい、こんな所、出て行ってやるって言って飛びだしちまえばいいんですよ。あの娘ならば、どこでも雇ってくれますよ」
五吉は顔を真っ赤にして吠えた。
まっすぐな気性で、一目置かれているだけのことはある。理不尽は許さないという姿勢が明快だ。
「しかし、それほどの腕ならば、近江屋としても手元に置いておきたかろう。いじめで店を辞めてしまったら、どうするつもりだ」
「さあ、そんなこと考えていないんじゃないですか。針子がどうなろうと関係ないと。縁の下を大切にしないようじゃ、先は長くありませんね」
「そうかな」
彼が聞いた話とはいささか違うようだが……。
なおも先をつづけようとした時、達蔵とみよが戻ってきた。
「すまなかったね。待たせてしまって。おかげで、ほら、このとおりだよ」
達蔵が振った袖は綺麗に直っており、ほつれていた所はまったくわからなかった。
「ありがとうね。みよ」
褒められると、みよは照れくさそうにうつむいた。
「さて、お茶にしようかね。そちらのお武家さまもいいかい」
「もちろん」
蔵之介がうなずくと、さっと五吉が立ちあがって、土瓶を手に取った。その仕草には美しく、思わず蔵之介は息を呑むほどだった。
さすがに見ているだけでは埒があかぬとみて、蔵之介は一歩、前に出る決断を下した。
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