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第一章 蔵之介、持ち込みを断られる
五
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宴が終わったのは、戌の刻を過ぎた頃合いだった。
店の外にいても、帰り支度がはじまったのがわかる。それだけ派手に遊んでいたというわけで、実によい身分である。
三月も半ばとはいえ、まだ夜は冷える。豪奢な料理屋の前で、風にさらされながら身を隠しているというのは、仕事とはいえ、なかなかにつらい。
深川の『佐久間』といえば、名の知れた料理茶屋である。材木問屋の伊勢屋が八百善の板前を引き抜いてはじめた店で、魚料理がうまいことで知られている。武家かゆとりのある町民しか相手にせず、店に入るだけで小判が飛ぶと評される。
蔵之介が懐に手を突っ込むと、ようやく声がして、店から男がそろって出てきた。
五人で、いずれも惣髪、腹は大きく出ている。
顔つきは二〇代後半から三〇代といったところだが、大声で騒ぎ立てる姿を見ると、小僧のように見えてくる。
四人が堀に沿って歩き出すと、蔵之介はその後をつけた。
彼らは声を張りあげ、自分の思ったところを語っている。
あそこの客は金払いが悪くて駄目だとか、せっかく見つけた客が評判を聞いて別の所に移ってしまったとか、嘆いてばかりだった。
そのうちに、よく知った名前が出てきた。
「玄庵はどうだ? まだやっているのか」
「評判はよいようだ。ひっきりなしに患者が訪れて、屋敷の前で列を成している。この間も町で怪我人を直して、そのことが読売にも書かれていた」
「目障りな。何とかならないのか」
「手は打っている。この間はうまくいかなかったが、今度は……」
男は声をひそめた。顔には、卑屈な笑みがある。
どうやら読みは当たっていたようだ。
蔵之介は、この三日間、ある一団のねらいを定め、行状を調べていた。以前、玄庵の話を聞いてから、機会をねらっていたのである。
結果は思ったとおりだった。寒さの中で待っていたのも無駄ではなかった。
蔵之介は駆け出すと、黒江橋を渡ったところで彼らを追い抜き、その前に出た。
「待たれよ。ご一同」
「何だ、おぬしは」
中央の男が蔵之介をにらみつける。月明かりに照らされた顔は赤く、相当に酔っていることが見てとれる。
「我らを東原塾の者と知ってのことか」
「もちろん。皆、医者だな」
蔵之介は笑った。
「東原塾は蘭学医の山田東隠先生が作ったと聞いている。有名な日習堂ともつながりがあるとかで、さかんに塾生が行き来しているようだ。江戸では勢いがあって、蘭方医としては珍しく、お上にも気に入られているとか」
「その我らに、無礼な口の聞きよう。どういうことか」
「失礼な方々が首をそろえていれば、そうなる」
「何だと」
「名は知られているが、質はあまりよろしくないようで。患者から金を搾り取って勉学にも励まず、好き放題、遊びまくる。その上、塾の輩を見張って嫌がらせをしただけでなく、ならず者を送り込んで痛い目にあわせようとするとは。いささか度が過ぎますな」
「何だと!」
中央の男が吠える。
「生意気なことを。この私に向かってよく」
「確か、山村様でしたな。大身旗本の次男で、金を積んで医学の修行を積み、五年ほど前から病人を診るようになったという。ただ、腕の方はさっぱりで、最近は薬師問屋の中川屋と組んで怪しげな商売に身をやつしているとも聞きますが」
山村は目を吊りあげた。やはり正論は耳に痛いか。
「玄庵殿の悪口もながしているようで。そんなに、腕のいい医者が嫌いか。同じ塾に通っているのだから、仲良くすればよいだろう」
過去、玄庵をつけていたのは素人だった。それは歩き方でわかった。
そこから心あたりを当たっていたのであるが、そこで浮かびあがってきたのが玄庵の同輩だった。
玄庵は東原塾の塾生で、その才能は高く評価されていた。東隠からも目をかけられており、肥後細川家を紹介されて、長崎に遊学するという話も出ていた。
患者がいるからと玄庵は断ったが、東隠と細川家はあきらめず、今でも説得に当たっているようだ。
それが塾生に知られるところとなり、嫉妬の対象となった。
とりわけ、家に甘えた武家崩れの連中は、玄庵を目の敵にして、激しくいじめた。取り囲んで木刀で小突き回したこともあったようで、一時、彼は塾に通うのを避けたほどだった。
「玄庵殿が気になるのはわかるが、後をつけるのはどうかと。ほら、そこの方、見おぼえがあるぞ」
蔵之介の指摘に、右端の男が顔をしかめた。
彼らの後をつけて、よろめいていた男だ。やはり、彼らの仲間だったか。
「まあ、それだけならばよかったのが、ならず者を雇って害を加えようとするのは、いささかやりすぎではないか。さすがに町方だって黙っていないぞ」
南町奉行の遠山は、大目付まで出世した切れ者である。
玄庵に何かあれば、その背後に何があるのか正しく見抜くはずで、彼らの立場はたちまち悪くなる。
「手を引け。これ以上、悪さをしないのであれば、今までのことには目をつぶろう」
「つまらぬ言いがかりを。証しはどこにあるか」
「今のところはない。ただ、その気になれば、いくらでも突きつけることはできる。面子を守りたいのであれば、ここで引くのがよかろう」
「ふざけるな」
山村が殴りかかってきたので、蔵之介は懐から武具を取りだして、その腕を激しく叩いた。
「な、何だ、それは」
「喧嘩煙管。話のネタに使えないかと思って買ったのだが、まさか、こんなところで役にたつとは」
蔵之介が手にした煙管は、護身用に用いられる特別製で、並の品物より太くて長い。本気で叩けば骨を打ち砕くことさえできる。
「まだ、やるか」
「おのれ!」
残った三人が襲いかかってきたので、蔵之介は右に跳んで、一人の目の頬を叩いた。
ついで、横から来た二人目の頭を叩き、最後にひるんだ三人目の肩を打ちつけた。
痛みに顔を歪ませて、四人は膝をつく。
「骨まではいっていないはず。もっとも、これ以上、やると言うのならば、話は別だ」
蔵之介は膝をついて、山村を見る。
「手を引け。さもなくば、中川屋の薬を横流ししている件、世間にばらしますぞ」
山村の表情が変わった。大きく開かれた目が蔵之介を射る。小さく息を呑む音も聞こえる。
「あこぎな真似はやめるのだな。では」
蔵之介は煙管をしまうと、四人に背を向けた。小さく息を吐くその姿を白い月の光が照らしだしていた。
店の外にいても、帰り支度がはじまったのがわかる。それだけ派手に遊んでいたというわけで、実によい身分である。
三月も半ばとはいえ、まだ夜は冷える。豪奢な料理屋の前で、風にさらされながら身を隠しているというのは、仕事とはいえ、なかなかにつらい。
深川の『佐久間』といえば、名の知れた料理茶屋である。材木問屋の伊勢屋が八百善の板前を引き抜いてはじめた店で、魚料理がうまいことで知られている。武家かゆとりのある町民しか相手にせず、店に入るだけで小判が飛ぶと評される。
蔵之介が懐に手を突っ込むと、ようやく声がして、店から男がそろって出てきた。
五人で、いずれも惣髪、腹は大きく出ている。
顔つきは二〇代後半から三〇代といったところだが、大声で騒ぎ立てる姿を見ると、小僧のように見えてくる。
四人が堀に沿って歩き出すと、蔵之介はその後をつけた。
彼らは声を張りあげ、自分の思ったところを語っている。
あそこの客は金払いが悪くて駄目だとか、せっかく見つけた客が評判を聞いて別の所に移ってしまったとか、嘆いてばかりだった。
そのうちに、よく知った名前が出てきた。
「玄庵はどうだ? まだやっているのか」
「評判はよいようだ。ひっきりなしに患者が訪れて、屋敷の前で列を成している。この間も町で怪我人を直して、そのことが読売にも書かれていた」
「目障りな。何とかならないのか」
「手は打っている。この間はうまくいかなかったが、今度は……」
男は声をひそめた。顔には、卑屈な笑みがある。
どうやら読みは当たっていたようだ。
蔵之介は、この三日間、ある一団のねらいを定め、行状を調べていた。以前、玄庵の話を聞いてから、機会をねらっていたのである。
結果は思ったとおりだった。寒さの中で待っていたのも無駄ではなかった。
蔵之介は駆け出すと、黒江橋を渡ったところで彼らを追い抜き、その前に出た。
「待たれよ。ご一同」
「何だ、おぬしは」
中央の男が蔵之介をにらみつける。月明かりに照らされた顔は赤く、相当に酔っていることが見てとれる。
「我らを東原塾の者と知ってのことか」
「もちろん。皆、医者だな」
蔵之介は笑った。
「東原塾は蘭学医の山田東隠先生が作ったと聞いている。有名な日習堂ともつながりがあるとかで、さかんに塾生が行き来しているようだ。江戸では勢いがあって、蘭方医としては珍しく、お上にも気に入られているとか」
「その我らに、無礼な口の聞きよう。どういうことか」
「失礼な方々が首をそろえていれば、そうなる」
「何だと」
「名は知られているが、質はあまりよろしくないようで。患者から金を搾り取って勉学にも励まず、好き放題、遊びまくる。その上、塾の輩を見張って嫌がらせをしただけでなく、ならず者を送り込んで痛い目にあわせようとするとは。いささか度が過ぎますな」
「何だと!」
中央の男が吠える。
「生意気なことを。この私に向かってよく」
「確か、山村様でしたな。大身旗本の次男で、金を積んで医学の修行を積み、五年ほど前から病人を診るようになったという。ただ、腕の方はさっぱりで、最近は薬師問屋の中川屋と組んで怪しげな商売に身をやつしているとも聞きますが」
山村は目を吊りあげた。やはり正論は耳に痛いか。
「玄庵殿の悪口もながしているようで。そんなに、腕のいい医者が嫌いか。同じ塾に通っているのだから、仲良くすればよいだろう」
過去、玄庵をつけていたのは素人だった。それは歩き方でわかった。
そこから心あたりを当たっていたのであるが、そこで浮かびあがってきたのが玄庵の同輩だった。
玄庵は東原塾の塾生で、その才能は高く評価されていた。東隠からも目をかけられており、肥後細川家を紹介されて、長崎に遊学するという話も出ていた。
患者がいるからと玄庵は断ったが、東隠と細川家はあきらめず、今でも説得に当たっているようだ。
それが塾生に知られるところとなり、嫉妬の対象となった。
とりわけ、家に甘えた武家崩れの連中は、玄庵を目の敵にして、激しくいじめた。取り囲んで木刀で小突き回したこともあったようで、一時、彼は塾に通うのを避けたほどだった。
「玄庵殿が気になるのはわかるが、後をつけるのはどうかと。ほら、そこの方、見おぼえがあるぞ」
蔵之介の指摘に、右端の男が顔をしかめた。
彼らの後をつけて、よろめいていた男だ。やはり、彼らの仲間だったか。
「まあ、それだけならばよかったのが、ならず者を雇って害を加えようとするのは、いささかやりすぎではないか。さすがに町方だって黙っていないぞ」
南町奉行の遠山は、大目付まで出世した切れ者である。
玄庵に何かあれば、その背後に何があるのか正しく見抜くはずで、彼らの立場はたちまち悪くなる。
「手を引け。これ以上、悪さをしないのであれば、今までのことには目をつぶろう」
「つまらぬ言いがかりを。証しはどこにあるか」
「今のところはない。ただ、その気になれば、いくらでも突きつけることはできる。面子を守りたいのであれば、ここで引くのがよかろう」
「ふざけるな」
山村が殴りかかってきたので、蔵之介は懐から武具を取りだして、その腕を激しく叩いた。
「な、何だ、それは」
「喧嘩煙管。話のネタに使えないかと思って買ったのだが、まさか、こんなところで役にたつとは」
蔵之介が手にした煙管は、護身用に用いられる特別製で、並の品物より太くて長い。本気で叩けば骨を打ち砕くことさえできる。
「まだ、やるか」
「おのれ!」
残った三人が襲いかかってきたので、蔵之介は右に跳んで、一人の目の頬を叩いた。
ついで、横から来た二人目の頭を叩き、最後にひるんだ三人目の肩を打ちつけた。
痛みに顔を歪ませて、四人は膝をつく。
「骨まではいっていないはず。もっとも、これ以上、やると言うのならば、話は別だ」
蔵之介は膝をついて、山村を見る。
「手を引け。さもなくば、中川屋の薬を横流ししている件、世間にばらしますぞ」
山村の表情が変わった。大きく開かれた目が蔵之介を射る。小さく息を呑む音も聞こえる。
「あこぎな真似はやめるのだな。では」
蔵之介は煙管をしまうと、四人に背を向けた。小さく息を吐くその姿を白い月の光が照らしだしていた。
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