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第一章 蔵之介、持ち込みを断られる
二(下)
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「真面目に尽くしていたのに、少しばかりの付け届けを出さなかっただけで、父上はすべてを失った。その風潮は今でも変わらない」
「耳が痛いな。俺も上役に金は渡している」
「仕方ないさ。己のやり方を通せば、うちと同じ目にあう」
「役所は息苦しいよ」
「それでも、おぬしは立派にやっている。それはいいんだ」
蔵之介はふっと息をついて、外を見る。
やわらかい春の日射しが降りそそぐ。たいして広くない庭には、心地よい風が吹き込み、緑の葉を揺らしている。
「おぬしの言うとおり、その気になれば、役目をもらうことはできよう。それなりの地位に就いて、まあまあに過ごしていくことも夢ではない。ただ、そのために、どれだけ意に染まらぬ仕事をしなければならぬ。どれだけ金を積まねばならぬ。役目を賜るためだけにあちこち回って金を出して、へいこらするというのは、あまりよいこととは思えぬ。実際にやっても、うまくいくとはかぎらぬしな」
三左衛門は何も言わずに、蔵之介を見ている。
「役目についた後にも、なんだかんだで付け届けはいる。出さねば、足を引っぱられるのだから仕方がない。ひたすら金を積み上げで保った役目で、本当にお上のために尽くせているのかと言えば、疑問と言わざるを得ない」
「きついな」
「本当のことを言っているだけだ。天下泰平のためなら労は厭わぬ。だが、上役を楽させるために、つまらぬ付け届けをするのはまっぴらだ」
「だから、戯作者か」
「ああ。己の道は己で切り開く。やりがいはあるし、何より付け届けが通用せぬのがよい」
人の心を動かすのは、金ではない。
おもしろい物語だ。
登場人物たちの心情が読み手の魂に伝わった時、それまで感じたことのない希望や夢がぱっと広がり、人を新しい世界へといざなう。
それは、数多くの草双紙を読んできた蔵之介が最もよく知っている。
つらかった時、哀しかった時、彼は物語に救われた。
だから、今度は自分がつむいでみようと思った。
多くの人に浮き世を忘れて、明日へつながる礎を築いてもらうために。
蔵之介が語り終えても、しばらく三左衛門は無言だった。膝に手をつき、うつむいている。
ようやく口を開いたのは、庭先に猫が入り、小さな声をあげてからだった。
「そうか、よくわかった」
三左衛門は顔をあげて、小さく笑う。
「前から意固地であったが、それに拍車がかかったようだ。手がつけられん」
「そうかな」
「世を斜めに見すぎている。以前のおぬしは、もう少し穏やかであった」
三左衛門は手を振った。
「でも、まあ、おぬしがいいなら、それでいいさ」
「すまんな。こういう奴で」
「かまわんさ。気性はよくわかっている」
「助かる」
蔵之介は笑った。心根をわかってくれている輩は、実に貴重だ。
「ただ、そこまで己を賭けているのに、いまだ原稿が通らぬのは痛いな。本当に大丈夫なのか」
「そ、それは仕方がない。桐文堂は書き手に厳しいことで知られている。がんばれば何とかなる」
「そうかなあ」
「もう少しだと思う。だから、すぐに書き直しを……」
「まあ、その前に、こっちの話を聞け。大事なことだ」
三左衛門の言葉に、蔵之介は顔をしかめた。
何の話か、おおよそ見当はつくが、それは彼にとって望ましいものではない。
察しがついたのか、三左衛門は笑って手を振った。
「いやいや、面倒な話ではないぞ。ちょっと俺の言ったところに行って話を聞いてくれれば、それでいい。うまくいけば、いい儲け話になるだろう」
「よく言う。もう話はつけているのだろう」
蔵之介は露骨に顔をしかめた。
彼が話を持ってくる時には、すべてが決まっている時だ。行けば断ることはできず、ずるずると怪しげな出来事に巻きこまれる。
「いかないよ。どうせ面倒な話なのだろう」
「当然だな。まっとうな話を俺がすると思うか」
「だったら、御免こうむる。深川三十三間堂の裏手でやくざ者とやりあった件、今でもおぼえているぞ」
「おお、そんなこともあったな」
三左衛門はぽんと手を叩いた。
「あれは大変だったな。俺も危うく斬られそうになった」
「こっちは、目付ににらまれてえらいことになった。下手すれば、お取り潰しになるところだったぞ」
「だが、そのおかげで、質に入っていた家宝の刀を取り戻すことができた。ついでに三月分の糧を稼ぎ出すこともできた。実入りはよかったであろう」
「それはそうだが」
「戯作者になりたいという志は、ようくわかる」
三左衛門は、これ見よがしにうなずいてみせた。
「だが、金がなくてはどうにもなるまい。蔵米はとっくに差し押さえられていて、食い扶持に困っている。米も味噌も買えずに、明日からどうやっていくつもりだ」
痛いところを突かれて、蔵之介は顔をしかめる。
生活が苦しいのは確かで、このままでは出入りの商人から金を借りねばと思っていたところだ。
戯作者は夢を売る商いだが、夢を見ているだけでは食えぬ。
世知辛い世の中だ。
「せっかくの話だ。聞いてみるだけでもどうだ?」
会うだけで二朱と言われて、蔵之介の心は大きく揺らいだ。情けないが、これが現実でもあった。
「耳が痛いな。俺も上役に金は渡している」
「仕方ないさ。己のやり方を通せば、うちと同じ目にあう」
「役所は息苦しいよ」
「それでも、おぬしは立派にやっている。それはいいんだ」
蔵之介はふっと息をついて、外を見る。
やわらかい春の日射しが降りそそぐ。たいして広くない庭には、心地よい風が吹き込み、緑の葉を揺らしている。
「おぬしの言うとおり、その気になれば、役目をもらうことはできよう。それなりの地位に就いて、まあまあに過ごしていくことも夢ではない。ただ、そのために、どれだけ意に染まらぬ仕事をしなければならぬ。どれだけ金を積まねばならぬ。役目を賜るためだけにあちこち回って金を出して、へいこらするというのは、あまりよいこととは思えぬ。実際にやっても、うまくいくとはかぎらぬしな」
三左衛門は何も言わずに、蔵之介を見ている。
「役目についた後にも、なんだかんだで付け届けはいる。出さねば、足を引っぱられるのだから仕方がない。ひたすら金を積み上げで保った役目で、本当にお上のために尽くせているのかと言えば、疑問と言わざるを得ない」
「きついな」
「本当のことを言っているだけだ。天下泰平のためなら労は厭わぬ。だが、上役を楽させるために、つまらぬ付け届けをするのはまっぴらだ」
「だから、戯作者か」
「ああ。己の道は己で切り開く。やりがいはあるし、何より付け届けが通用せぬのがよい」
人の心を動かすのは、金ではない。
おもしろい物語だ。
登場人物たちの心情が読み手の魂に伝わった時、それまで感じたことのない希望や夢がぱっと広がり、人を新しい世界へといざなう。
それは、数多くの草双紙を読んできた蔵之介が最もよく知っている。
つらかった時、哀しかった時、彼は物語に救われた。
だから、今度は自分がつむいでみようと思った。
多くの人に浮き世を忘れて、明日へつながる礎を築いてもらうために。
蔵之介が語り終えても、しばらく三左衛門は無言だった。膝に手をつき、うつむいている。
ようやく口を開いたのは、庭先に猫が入り、小さな声をあげてからだった。
「そうか、よくわかった」
三左衛門は顔をあげて、小さく笑う。
「前から意固地であったが、それに拍車がかかったようだ。手がつけられん」
「そうかな」
「世を斜めに見すぎている。以前のおぬしは、もう少し穏やかであった」
三左衛門は手を振った。
「でも、まあ、おぬしがいいなら、それでいいさ」
「すまんな。こういう奴で」
「かまわんさ。気性はよくわかっている」
「助かる」
蔵之介は笑った。心根をわかってくれている輩は、実に貴重だ。
「ただ、そこまで己を賭けているのに、いまだ原稿が通らぬのは痛いな。本当に大丈夫なのか」
「そ、それは仕方がない。桐文堂は書き手に厳しいことで知られている。がんばれば何とかなる」
「そうかなあ」
「もう少しだと思う。だから、すぐに書き直しを……」
「まあ、その前に、こっちの話を聞け。大事なことだ」
三左衛門の言葉に、蔵之介は顔をしかめた。
何の話か、おおよそ見当はつくが、それは彼にとって望ましいものではない。
察しがついたのか、三左衛門は笑って手を振った。
「いやいや、面倒な話ではないぞ。ちょっと俺の言ったところに行って話を聞いてくれれば、それでいい。うまくいけば、いい儲け話になるだろう」
「よく言う。もう話はつけているのだろう」
蔵之介は露骨に顔をしかめた。
彼が話を持ってくる時には、すべてが決まっている時だ。行けば断ることはできず、ずるずると怪しげな出来事に巻きこまれる。
「いかないよ。どうせ面倒な話なのだろう」
「当然だな。まっとうな話を俺がすると思うか」
「だったら、御免こうむる。深川三十三間堂の裏手でやくざ者とやりあった件、今でもおぼえているぞ」
「おお、そんなこともあったな」
三左衛門はぽんと手を叩いた。
「あれは大変だったな。俺も危うく斬られそうになった」
「こっちは、目付ににらまれてえらいことになった。下手すれば、お取り潰しになるところだったぞ」
「だが、そのおかげで、質に入っていた家宝の刀を取り戻すことができた。ついでに三月分の糧を稼ぎ出すこともできた。実入りはよかったであろう」
「それはそうだが」
「戯作者になりたいという志は、ようくわかる」
三左衛門は、これ見よがしにうなずいてみせた。
「だが、金がなくてはどうにもなるまい。蔵米はとっくに差し押さえられていて、食い扶持に困っている。米も味噌も買えずに、明日からどうやっていくつもりだ」
痛いところを突かれて、蔵之介は顔をしかめる。
生活が苦しいのは確かで、このままでは出入りの商人から金を借りねばと思っていたところだ。
戯作者は夢を売る商いだが、夢を見ているだけでは食えぬ。
世知辛い世の中だ。
「せっかくの話だ。聞いてみるだけでもどうだ?」
会うだけで二朱と言われて、蔵之介の心は大きく揺らいだ。情けないが、これが現実でもあった。
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