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第六話 大陸人の歌姫
奏者と楽器
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『■■、起きてよ。ねぇ……』
しくしくと濡れた声が聞こえる。あまりの物悲しさにオトがまぶたを開けると、平衡感覚を失うほどの暗闇に出迎えらた。
「誰……?」
手前に伸ばした自分の指先すら見えない。その間もスンと啜り泣くか細い声が羽耳を撫でる。
『待ってる、ずっと。■■が起きるのを、ここで』
少年とも少女ともつかない声色があちこちに反射して響き渡る。こんな暗い場所で一人待つのはきっと寂しいだろう。そう思ったら自然と涙が溢れた。まるで声の主の感情に引き寄せられるように胸が騒めく。終わりの見えない悲壮な濁流に呑み込まれてしまって、涙が止まらない。
「あなたは誰なの? どこにいるの?」
濡れた目尻を手で拭いながら、声の主を探してさまよう。こんなところに一人にはさせられない。
手を伸ばして空間を把握しながら歩いていると、指先に柔らかな感触が触れる。自分自身にも覚えのあるこのふわりとした手触りは――……羽?
『目が覚めたら要石を探してね。そうしたらきっとまた会えるから。■■、約束だよ』
「セレニティ様……?」
どうしてそう思ったのかはわからない。ただ、自然と頭に思い浮かんだ。
目覚めたオトの視界には、見覚えのある白亜の天井が広がった。中心でシャンデリアが煌き、窓の外では雀が鳴く。目尻からは夢の続きかのように一筋の涙が伝った。
「――オト」
瞬きを繰り返して焦点を合わせるオトの頭を、優しい手が撫でる。ぼやけた視界に導き星の白金と、憧れの群青色が滲んだ。
その声を聞くと、ツツジの香りを思い出す。「どうせどこにも行けない」と最初から飛ぼうとすらしなかったオトに、外の世界へと繋がる指輪を授けてくれた。
「ノア、様……」
名を呼ぶだけで胸が締めつけられる。オトの待ち人。来るはずがないと歌いながら待ち続けた、たった一人の人。飲み込まれそうなほど暗く悲しい夢が自分自身と重なる。だが、彼は来てくれた。ノアの言葉を借りるなら、きっと運命と言うのだろう。やっと、素直にそう思うことができた。
∞
目覚めてから三日後――。
オトの姿は、カージュへ渡る東の桟橋にあった。
朝靄が立ち込める海辺を前に並んで座るのは、白髪を後ろで一つに結った小柄な老婆。少し離れた場所には見張り役のハンナの姿もある。そして、老婆の付き添いで来たアタラも。
「お前さんたち、少し話してきたらどうだい?」
リラの弦を張り直す老婆が、再会するもぎこちない様子の雛鳥二人へ言う。
彼女はカージュの浜辺にある集落の住人で、楽器工房の店主、ユミ。信者の集落には職人が多く暮らす。楽器の調達・調律から夢喰採りの舞台装置、雛鳥の衣装作りまで、その献身は多岐に渡る。中でも卓越した調律技術を持つユミは、楽徒の演奏の要と言っても過言ではない。
「領事からの修理依頼で本島へ渡ると言ったらついて行くって散々駄々をこねたくせに、意気地がないよアタラ」
「駄々はこねてない。船頭が必要だから立候補しただけだ」
「はいはい。オトも、少し会わなかったくらいで人見知りしてないで、ちゃんと話しな。言いたいこと、あるんだろう?」
「……はい」
ユミに促され、二人は浜辺を歩き出した。警戒するハンナにオトは「大丈夫」と目配せして、朝焼けを反射する波打ち際に足跡を刻む。
「領事はきっと、良い奴なんだろうねぇ」
並んで歩く二人の後ろ姿を見つめていたハンナへ、ユミが語りかける。金属のつまみで弦を張る強さを調整するシワだらけの指が、手際よく音階を整えていく。試し弾きの小さく軽やかな音が響いた。
「なぜそう思うのですか?」
「何もわかっちゃいない奴なら、楽器が壊れたら新しいものを買い与えればいいと思うだろう? でも領事はこのリラじゃなきゃだめだと言ってきた」
――だって、オトに似てるだろう?
「オトのリラは良い音がする。どれだけ弦を張り直そうとたわまない、しなやかで芯の強い子だ。道具はただ使えば道具でしかないが、心を込めて使えば音に出る。あの男は、それをちゃんとわかっていたのさ」
優しい者ほど傷を負う。だが、強情なだけでは壊れやすい。それはまるで奏者そのものを表すかのよう。
オトのリラは金属の繋ぎ目がない。聞けば、彼女の故郷の御神木を削り出して作られたものだとか。何本もの弦が力強く張られた横木を左右から伸びた腕木が支える、一見華奢な作りだ。特に木製の楽器は湿度で壊れやすいと言われるが、十年以上使われた今も辛抱強くしなって、可憐な音を響かせる。何度こうして修理に出されても、一度としてへそを曲げたことがない。彼女の腕の中に帰りたがり、調律をせがむのだ。
「奏者と楽器は不離一体。片方が求める限り歌い奏で続けるもんさ。だからこの子じゃないとだめなんだ」
「……わたくしには、あの猿がそこまで深く考えていたとは思えませんが」
「ヒッヒッヒッ! まぁ仮にそうだとしてもあたしは気に入ったよ、あの男。それに……」
横並びになって歩く雛鳥の後ろ姿を見つめる。二人でいる時のオトはいつも自信なさ気で、アタラの半歩後ろを遠慮気味に歩いていた。だが今、波が打ち消す足跡は同じ間隔で続いている。
「あの子が変われたのは、領事のおかげだろうからねぇ」
カージュの集落で生まれて七十年。ずっと雛鳥たちを見守り続けてきた。
告鳥三羽衆の指導のもと、幼い頃から厳しい稽古にひたすら明け暮れる少年少女たちの人格は、ひどく未熟だ。狭い世界では善悪の価値観は薄れ、それを指摘してくれる人もいない。歌い奏でる術しか知らずに悠久の空へ飛び立つ雛鳥のなんと多いことか。
自分の老い先が見えた今だからこそ、人の腹から生まれて人ならざる者として扱われる子どもたちに寄り添いたいと思う。例えそれが神鳥の意向に背くことだとしても。
「どうか大切にしてやっておくれ。少し可愛がり過ぎるくらいが丁度いい」
「それならうちの猿の得意分野ですわ。それにオト様は大陸人の宝ですもの。幸せにします、必ず」
頼もしく言いきる秘書官に、島一番の調律師は頬を緩めて再び手を動かす。奏者によく似たリラは、壊された音を少しずつ取り戻していった。
しくしくと濡れた声が聞こえる。あまりの物悲しさにオトがまぶたを開けると、平衡感覚を失うほどの暗闇に出迎えらた。
「誰……?」
手前に伸ばした自分の指先すら見えない。その間もスンと啜り泣くか細い声が羽耳を撫でる。
『待ってる、ずっと。■■が起きるのを、ここで』
少年とも少女ともつかない声色があちこちに反射して響き渡る。こんな暗い場所で一人待つのはきっと寂しいだろう。そう思ったら自然と涙が溢れた。まるで声の主の感情に引き寄せられるように胸が騒めく。終わりの見えない悲壮な濁流に呑み込まれてしまって、涙が止まらない。
「あなたは誰なの? どこにいるの?」
濡れた目尻を手で拭いながら、声の主を探してさまよう。こんなところに一人にはさせられない。
手を伸ばして空間を把握しながら歩いていると、指先に柔らかな感触が触れる。自分自身にも覚えのあるこのふわりとした手触りは――……羽?
『目が覚めたら要石を探してね。そうしたらきっとまた会えるから。■■、約束だよ』
「セレニティ様……?」
どうしてそう思ったのかはわからない。ただ、自然と頭に思い浮かんだ。
目覚めたオトの視界には、見覚えのある白亜の天井が広がった。中心でシャンデリアが煌き、窓の外では雀が鳴く。目尻からは夢の続きかのように一筋の涙が伝った。
「――オト」
瞬きを繰り返して焦点を合わせるオトの頭を、優しい手が撫でる。ぼやけた視界に導き星の白金と、憧れの群青色が滲んだ。
その声を聞くと、ツツジの香りを思い出す。「どうせどこにも行けない」と最初から飛ぼうとすらしなかったオトに、外の世界へと繋がる指輪を授けてくれた。
「ノア、様……」
名を呼ぶだけで胸が締めつけられる。オトの待ち人。来るはずがないと歌いながら待ち続けた、たった一人の人。飲み込まれそうなほど暗く悲しい夢が自分自身と重なる。だが、彼は来てくれた。ノアの言葉を借りるなら、きっと運命と言うのだろう。やっと、素直にそう思うことができた。
∞
目覚めてから三日後――。
オトの姿は、カージュへ渡る東の桟橋にあった。
朝靄が立ち込める海辺を前に並んで座るのは、白髪を後ろで一つに結った小柄な老婆。少し離れた場所には見張り役のハンナの姿もある。そして、老婆の付き添いで来たアタラも。
「お前さんたち、少し話してきたらどうだい?」
リラの弦を張り直す老婆が、再会するもぎこちない様子の雛鳥二人へ言う。
彼女はカージュの浜辺にある集落の住人で、楽器工房の店主、ユミ。信者の集落には職人が多く暮らす。楽器の調達・調律から夢喰採りの舞台装置、雛鳥の衣装作りまで、その献身は多岐に渡る。中でも卓越した調律技術を持つユミは、楽徒の演奏の要と言っても過言ではない。
「領事からの修理依頼で本島へ渡ると言ったらついて行くって散々駄々をこねたくせに、意気地がないよアタラ」
「駄々はこねてない。船頭が必要だから立候補しただけだ」
「はいはい。オトも、少し会わなかったくらいで人見知りしてないで、ちゃんと話しな。言いたいこと、あるんだろう?」
「……はい」
ユミに促され、二人は浜辺を歩き出した。警戒するハンナにオトは「大丈夫」と目配せして、朝焼けを反射する波打ち際に足跡を刻む。
「領事はきっと、良い奴なんだろうねぇ」
並んで歩く二人の後ろ姿を見つめていたハンナへ、ユミが語りかける。金属のつまみで弦を張る強さを調整するシワだらけの指が、手際よく音階を整えていく。試し弾きの小さく軽やかな音が響いた。
「なぜそう思うのですか?」
「何もわかっちゃいない奴なら、楽器が壊れたら新しいものを買い与えればいいと思うだろう? でも領事はこのリラじゃなきゃだめだと言ってきた」
――だって、オトに似てるだろう?
「オトのリラは良い音がする。どれだけ弦を張り直そうとたわまない、しなやかで芯の強い子だ。道具はただ使えば道具でしかないが、心を込めて使えば音に出る。あの男は、それをちゃんとわかっていたのさ」
優しい者ほど傷を負う。だが、強情なだけでは壊れやすい。それはまるで奏者そのものを表すかのよう。
オトのリラは金属の繋ぎ目がない。聞けば、彼女の故郷の御神木を削り出して作られたものだとか。何本もの弦が力強く張られた横木を左右から伸びた腕木が支える、一見華奢な作りだ。特に木製の楽器は湿度で壊れやすいと言われるが、十年以上使われた今も辛抱強くしなって、可憐な音を響かせる。何度こうして修理に出されても、一度としてへそを曲げたことがない。彼女の腕の中に帰りたがり、調律をせがむのだ。
「奏者と楽器は不離一体。片方が求める限り歌い奏で続けるもんさ。だからこの子じゃないとだめなんだ」
「……わたくしには、あの猿がそこまで深く考えていたとは思えませんが」
「ヒッヒッヒッ! まぁ仮にそうだとしてもあたしは気に入ったよ、あの男。それに……」
横並びになって歩く雛鳥の後ろ姿を見つめる。二人でいる時のオトはいつも自信なさ気で、アタラの半歩後ろを遠慮気味に歩いていた。だが今、波が打ち消す足跡は同じ間隔で続いている。
「あの子が変われたのは、領事のおかげだろうからねぇ」
カージュの集落で生まれて七十年。ずっと雛鳥たちを見守り続けてきた。
告鳥三羽衆の指導のもと、幼い頃から厳しい稽古にひたすら明け暮れる少年少女たちの人格は、ひどく未熟だ。狭い世界では善悪の価値観は薄れ、それを指摘してくれる人もいない。歌い奏でる術しか知らずに悠久の空へ飛び立つ雛鳥のなんと多いことか。
自分の老い先が見えた今だからこそ、人の腹から生まれて人ならざる者として扱われる子どもたちに寄り添いたいと思う。例えそれが神鳥の意向に背くことだとしても。
「どうか大切にしてやっておくれ。少し可愛がり過ぎるくらいが丁度いい」
「それならうちの猿の得意分野ですわ。それにオト様は大陸人の宝ですもの。幸せにします、必ず」
頼もしく言いきる秘書官に、島一番の調律師は頬を緩めて再び手を動かす。奏者によく似たリラは、壊された音を少しずつ取り戻していった。
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