片羽のオトは愛を歌う

貴葵

文字の大きさ
上 下
22 / 33
第五話 リュクス

海の原を越えて

しおりを挟む
 頬が肩に当たるほどの距離でぎこちなく降りてきた白亜の階段が、もうすぐ終わる。潮風が羽耳を撫で上げたことで、菅笠を被っていないことを思い出した。

「あの、領事様」
「ノア」
「え?」
「名前、教えただろ?」
「あ……ノア様、その……羽耳、隠さないと……」
「なぜ? 雛鳥は外を自由に歩いてはいけないのか?」
「いえ……醜い片羽と歩くのを見られるのは、お嫌かと……」

 どんどん尻すぼみとなった自虐に、ノアは足を止める。頭一つ分低い位置にある不安そうな小顔を見下ろすと、ふいっと視線を外された。

「オト、今からゲームをしよう」
「げぇむ?」
「君が自分を卑下した数の倍、俺が君を褒める」
「えっ」
「嫌なら胸を張って歩くことだ。何ならもっとくっついてもいいぞ?」
「あ、うぅ……」

 すっかり真っ赤になってしまった雛鳥へ向ける緩み切った顔を、ハンナは呆れながら眺めた。初心な反応が可愛くて仕方ないのだろう。それにしても、酷い顔だ。

「さぁ、ついたぞ」

 そう言われて顔を上げた先に広がったのは、埠頭を覆い尽くさんばかりの人、そして物。
 背中まである大きな襟付の制服を着た船員たちが、帆を畳んだ立派な船から次々と荷を降ろしている。彼らから荷を受け取っているのは行商人だ。手元の資料と睨めっこしながら、運ばれてきた品物を検品している。

「クレセンティアに入島できる一般人は、主に彼らのような船乗りと行商人、あとはインフラ関係の専門家くらいだ。居住権が認可されていないから、総領事館は滞在中の宿も兼ねている。そのうちすれ違うこともあるだろう。彼らの滞在中の補助をするのが総領事館俺たちの主な仕事だ」

 賑やかな港を歩きながら誇らしげに説明してくれる端正な横顔を見つめ、小さく相槌を打つ。ノアと一緒に歩いているからか、カージュで毎日注がれていた蔑視は感じなかった。むしろ二人の姿を見つけては満面の笑みで手を振ってくる。

「皆さんはどうしてあんなに嬉しそうなのですか?」
「献上の席が空いてしばらく経つからな。君の姿を見て、ようやく安眠できるとほっとしているんだろう」
「前の献上は……」
「カージュで何と聞いていた?」
「……大陸人に純潔を奪われて、神通力を失ったと」
「そうか……詳しいことはまた後で説明しよう」

 意味深に話を切られた。
 大陸人は下賤で野蛮。見目麗しい者なら人間でも雛鳥でもお構いなし。そんな風にカージュで飛び交っていた話と実際に見た光景は、何か食い違っている気がする。
 胸をざわつかせた疑念を抱えたまましばらく歩いていると、ついに目的の場所へ辿り着いた。

「これが大陸の新型船だ」

 披露されたのは、煙突を備えた黒塗りの蒸気船。近くではその全体を一目で捉えることは難しい。オトはあまりの雄大さに圧倒され、無防備に小さく口を開けて魅入ってしまった。

「近くで見ると、こんなに大きいんですね」
「大きいだけじゃない。真ん中に煙突があるだろう? あれは外輪を動かすための動力で、蒸気機関の一部だ」
「風がなくても航行できるということですか?」
「ああ、詳しいな」
「前に本で読んで、それで……あっ」

 自然と隣のノアを見上げるも、朝の日差しを浴びて輝く美貌と目が合い、すぐ視線を逸らしてしまう。アタラの隣を歩く時の劣等感と似ているが、何か違うような気がする。いつもより鼓動が早い。憧れの船を前にした胸の高鳴りだろうか。頬がじんわりと赤らむ。

「船、好きなんだな」
「い、いえ……ほどほどです……」
「そのうちこれに乗って回遊でもしようか?」
「えっ!?」

 思いがけない提案にまた顔を上げて、再びハッとうつむく。存外わかりやすい反応に、ノアは航行スケジュールへ無理にでもねじ込むと心に決めた。

「可愛らしいな、オトは」
「……? 私、自分の悪口なんて言ってませんよ?」

 ノアは思ったことを口にしただけなのだが、どうやら先ほど提案したゲームと勘違いしているらしい。
 オトは自分のことを地味でみすぼらしい片羽と思っているが、それは周囲が植え付けた劣等感から来るもの。自ら埃を被ってすみっこに転がっていても、ノアの見立てでは磨けば輝く原石に違いない。実際に愛らしい顔立ちをしているし、慎ましやかで清楚な印象は純潔と癒しを司るセレニティの雛鳥に相応しい。賛辞に慣れていないいじらしい様子を見れば、空っぽの自尊心の器へこれでもかと愛情を注ぎ込みたくなる。

「自虐しないと褒めないなんて決まりごとはなかったはずだぞ?」
「じゃあご冗談?」
「いや、本気だが?」
「……ノア様は、変わっていらっしゃいますね」
「それは自虐か? 褒められたいならそう言えばいいのに」
「! ち、違います! あっ、でも、違わなくて……うぅぅ……」

 甘ったるい空気の二人を後方で眺めていたハンナは、懐中時計をひたすら開け閉めした。何度確認してもまだ朝の八時前。昼の珈琲の時間コーヒータイムが待ち遠しい。普段はミルクと砂糖を好んで入れるが、今日は濃縮された無糖に限る。
しおりを挟む

処理中です...