片羽のオトは愛を歌う

貴葵

文字の大きさ
上 下
20 / 33
第四話 運命

歌が紡ぐはただ二人

しおりを挟む
「領事様、あの……」

 歌えないことを、ちゃんと伝えなければ。人の命に関わることだから、きっと早い方がいい。何かが起きてからでは手遅れになってしまう。
 寒さとは違う理由で震える唇を開いて言葉を紡ごうとした時。不意にノアの手が羽耳に触れた。探求心に煽られた不躾なものではなく、慈しむような手つきで。

「鳴官に古傷があるとサヨから聞いた。君が本当は歌えないことも、カージュでどんな風に生きていたのかも、全部」
「っ……!?」

 最も気に病んでいたことを指摘され、一気に身体が強張る。
 神通力を宿す喉の器官である鳴官は、雛鳥たちの神聖な歌声の生命線と言って良い。そこに爆弾を抱えているオトが歌うと掠れた声しか出せず、喉は潰れ、胃の中を全部ひっくり返したような咳が出る。セレニティの雛鳥にあるまじき醜態だ。だから同じ羽耳を持つ仲間たちはオトを疎んじた。

「なら、わかるでしょう……? 私では献上のお役目を果たせません。皆さんのご迷惑になってしまいます」

 自分で役立たずだと言って、虚しくなる。
 悪意に晒されて「献上に選ばれたい」と口を衝いたのは、ただの弱音だ。残酷な鳥籠から逃げ出したかっただけ。今思えばあらゆる人に失礼だった。できもしないことを無責任に口にして、自己嫌悪に苛まれる。

 滲みだした視界を足元へ伏せる。こんな惨めで情けない雛鳥では、大陸人の命を守る事などできない。


「――泡沫人うたかたびと昼想ひるおもひ、夜夢よるゆめむ」


 聞き馴染んだ歌を口ずさむノアに驚いて、顔を上げた。
 音楽を愛するクレセンティアで、なぜかオトだけが知っている不思議な歌。リラを弾き始めた時にはすでに頭の中に流れていた。島の音楽誌そのものであるはずのカージュで資料を探しても、どこにも記されていなかったのに。

「その歌、どうして……?」
「子供の頃に祖母がよく歌ってくれたんだ。どういう歌なのか聞いても、いつかわかる時が来るとはぐらかされてばかりで……だが最近やっとクレセンティア語だとわかって、ここへの赴任を承諾した」

 夜の海風で冷えた頬を大らかな両手が包んだ。星が揺らめく水面のような瞳がじっとオトを見つめる。

「だから君の歌声が聞こえた時、運命だと思ったんだ」
「運、命……?」

 聞き馴染みのない言葉をたどたどしく紡ぐ。鳥籠の中で一生を終える雛鳥に、巡り逢わせの奇跡など縁遠い。ましてや役立たずの片羽になんて――。
 だが切れ長の美しい青の宝石は、目の前のオトだけを映す。


「海や言語を越えて、この歌が君へと導いてくれた。俺はきっと、オトと出逢うためにこの島へ来たんだ」


 肩をぐいと引き寄せられ、腕の中に閉じ込められた。薄いシャツの胸元にぴとりとくっついた羽耳には、少し速い心音が響く。取り繕った建前ではなく、誠実な本音であることがオトにもわかった。

「美しく有能なだけの雛鳥ではなく、誰かを想って歌えるオトの優しさが大陸人俺たちには必要だ。歌うことを強制したりはしない。ただ、傍にいてほしい」

 真っ直ぐな言葉の一つ一つが傷口に染みわたる。虐げられてばかりだった不出来な片羽には過ぎた愛情だ。込み上げるものを必死に堪えようとするが、溢れる涙が止められない。数え切れないほど流した恐怖や悲しみの涙とは違う。胸のうちに広がるのは初めて安寧を知った喜びと、安堵だけ。


 ――誰か、鳥籠の外へ連れ出してくれないだろうか。


 心のどこかで、来るはずのない誰かを昼も夜も待ち続けていた。鴉に憧れ、海を見つめ、船に焦がれ。
 今思うと、あの歌は自分のことを歌っていたのではないだろうか。



「私……ここにいても、いいんでしょうか……?」

 涙で濡れた声で問う。
 歌える自信なんてこれっぽちもない。もし取り返しのつかない迷惑をかけてしまったら――そう思うと、震えが止まらなかった。
「ここにいろ」と一言命じてくれたら簡単なのに。不安や戸惑いなど全部飲み込んで頷くことには慣れているから。

 だがノアは、抱擁を緩めてこう言った。

「もう鳥籠は無い。どこで何をするかは自分で決めていいんだ」

 羽耳に優しく押し当てられた唇が、祈るように囁く。

「俺は鳥籠を開けることはできたが、そこから飛び立つか戻るかを決められるのはオトだけだ。自分が生きる世界は、自分の意志でしか変えられない」

 止まらない涙で濡れた目元を潮風が撫でた。顔に貼りつく茶髪を指で梳き、赤く熟れた頬を包んで額をくっつける。

「……でも、俺のそばにいることを選んでくれたら嬉しい」
しおりを挟む

処理中です...