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終・美しき糸たち
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近年になって競合が現れてきているとはいっても、その冠婚葬祭会社はこの地区ではやはり有力で、けやき家の葬儀もそこが請け負った。
「最近の香典返しってお洒落なんだよなー」
貸してあげた喪服と、バッグと真珠の首飾り、パンプスを身に着けたいとちゃんが、式場の玄関でけやきの家族の端っこで並んで立っていた。叔母さんもお姉ちゃんたちも真っ白に青ざめた顔で目を泣きはらして、いちいち「ありがとうございます」と頭を下げている中で、いとちゃんだけはブスッとしたいつもの変わった表情だった。流石に会釈はしているようだけれど、悲しみを全力で表現している叔母さん達とはどこか異なり、いとちゃんは黒い棒きれのようだった。
お通夜の時、式場に入っていったわたしに、叔母さんもお姉ちゃんたちも、泣きはらした目で「ありがとうありがとう」と言ったけれど、最後、いとちゃんの前を通りかかった時、いとちゃんはそっとわたしに、香典返しのことについて耳打ちしたのだった。
香典返しがお洒落。
何のことやら。
だけど、通夜が終わった時、いとちゃんが教えてくれた意味が分かった。
香典返しと言えば、どっさりとした品物を思い浮かべるものだけど、この式場を出る時、わたしは何も受け取らなかった。あれっ、今回はお返しがないのか、まあいいや、もらっても消費できないもんな、と思って梟荘に帰った。
玄関にあらかじめ用意しておいた塩を体に振りかけて家の中に入り、窮屈な喪服やストッキングを脱いで部屋着に戻ってコーヒーを淹れて、「お洒落な香典返し」という言葉を思い出した。
不審に思いながら、今日式場でもらった、折り畳まれた案内状みたいなやつを取り出してみたら、そこにクオカードが挟まれていて驚いた。なるほど、香典返しってこれか、これは凄い、ハイカラだ――いとちゃんの一言がなかったら、葬儀のプログラム兼挨拶状だと思い込んで、よく見ずにまとめて捨ててしまったかもしれなかった。
(これ、香典返しがないって問い合わせが後で殺到しなかったもんかねえ)
他人事ながら、ちょっと心配になった。
参列者の中にはわりと年配の人もいたことだし、昔ながらの香典返しを思い浮かべていた人もいそうだ。
泣きはらした目で悲しみを表現していた叔母ちゃんとお姉ちゃんたちを他所に、そうっと香典返しのことを囁いてくれたいとちゃん。いとちゃんが悲しんでいないというわけでは決してない。たぶん、一般的にはいとちゃんは酷いやつ、ちょっとおかしいひとと言われるのだろう。でも、少なくともわたしは、教えてくれて助かったよ、叔父さんも香典返しが無駄にされなくてほっとしていると思うよ、と、いとちゃんに感謝したのだった。
お通夜、葬儀とつつがなく進み、初七日も終了し、ひととおりの儀式が済んだ。
しばらく、いとちゃんはけやき家に寝泊まりすることになる。叔父さんの持ち物の片づけやら、財産分配の話やら、他いろいろな、難しくて、微妙で、神経を使って、嫌な仕事が、いとちゃんを待ち受けているのだ。
けやき家の人々はこれまでいとちゃんを心配し、護り、甘やかしてきたのだけど、もしかしたら叔父さんの死を機に、方向が変わってくるかもしれないなとわたしは感じた。
葬儀の時の雰囲気からして、けやき家の女達の中でいとちゃんは完全に浮いていた。
叔母さんとお姉ちゃんたちの隅っこに並んだいとちゃんは、家族とちょっと間を開けて立っていた。
お姉ちゃんたちも叔母さんも、いとちゃんから目を逸らすようにしているように見えた。
(叔父さんが病気で倒れてからのいとちゃんの態度とかも、きっと、問題視されているに違いない)
梟荘はいとちゃんの手に渡らないだろうという、あの予言が頭に残っていた。なるほど当然かもしれない。
快方に向かっていると信じていた叔父さんが、唐突に亡くなった。叔母さんもお姉ちゃんたちも、心の均衡を失っているのに違いない。悲しみの中に、この理不尽な状況に対する怒りがあってもおかしくはなかった。そして、その怒りの矛先の向かう先は、いとちゃんになるような気がした。
別にいとちゃんが叔父さんを殺したわけではないのだけど、大変な時に家族に協力しなかったのは事実だ。
目線を変えて考えれば、いとちゃんは協力しなかったのではなく、できなかったのだと理解できるのだけど、この世の中ではいとちゃんの立場ではなく、叔母さんたちの立場でものを見る人が多すぎる。あらゆることが多勢に無勢で進むものだけど、けやき家の女の人たちといとちゃんの関係も、その法則に従って、これからどんどん悪化して行くだろうことが想像できた。
けやきのうちで、いとちゃんは孤立しているのに違いない。
同じテーブルでごはんを食べているのだろうけれど、叔母さんもお姉ちゃんたちも決していとちゃんに邪険なことはしないのだろうけれど、亀裂が入った空気感はどこまでもいとちゃんを突き放すだろう。
(早く、早く帰っておいで、いとちゃん)
梟荘での一人暮らしの日々が続いた。
梟荘は、一人で暮らすには広すぎた。
悪いことに、単発バイトの合間の時期で、わたしは非常に暇だった。することと言えば、梟荘の掃除や草むしり、大学のレポートくらいのものだ。
麦茶を作ってピッチャーに入れても、飲むのはわたし一人だけ。琥珀色の透明な飲み物は、冷たく揺れるほど寂しかった。
そうこうしているうちに、夏は終わりに向っていた。
油蝉は相変わらず鳴いていたが、夕暮れ時になると日射の色が濃い赤色に色づくようになり、ヒグラシが鳴きたてるようになった。
相変わらず暑かったが、明らかに秋は近づいており、夏休みは終盤を迎えようとしていた。
そう言えば、母が秋くらいに日本に一度戻るかもしれないと言っていたな、と、思い出す。
けやきの叔父さんの訃報を母に連絡しようにも、連絡手段がなかったので知らせないままだった。母はテレパシーやら変なビデオレターやらで、勝手にコンタクトを取って来るけれど、わたしにはそんな珍妙な技は使えないので。
たぶん、母は全部見通しているような気がする。
遠い南のヘンテコな島で、ちゃんちきりんこんと踊り狂いながら、叔父さんの死を感じているのではないだろうか。
(ああ、だから母は一度帰って来ると言ったのかもしれない……)
ちりんりんりりん。
風鈴が寂し気に鳴る。夕暮れ時になると、暑い風の中に、僅かに涼しいものが混じるようになった。
もうあと何日で大学、と、どんよりした気分で指折り数える時期になった。
いとちゃんから、色々決まったから明日帰ると電話が入ったのは、その頃である。
それは午後の3時くらいだったか。電話が鳴ったので、飛びつくように受話器を取ったら、いとちゃんがいつもと変わらない落ち着いた声で、「久しぶり」と言ってきた。
あまりにも懐かしくて、わたしはちょっと笑ってしまった。
「梟荘のこととか、いろいろ決まってさー。今すぐどうということではないんだけどねー。後日、母さんからゆめちゃんにも話すだろうけれど、その前にわたしからも言っとくわ。明日午前中にはそっちに戻る。あ、喪服はクリーニングに出してくれたらしい」
らしい、ということは、クリーニングに出してくれたのはいとちゃんではなくて、叔母さんなんだろうな。わたしは、うんそれで、と、合いの手を入れた。
「明日の夕食は、カレーうどんが食べたい」
と、いとちゃんは言って、じゃあね、と電話を切った。
たぶん、そのことを伝えるのが、この電話のメインだったのに違いない。涼しい梟荘の廊下に立ちながら、わたしはにやにやと笑っていた。
カレーうどん。
いいじゃないの。
明日の午前中にいとちゃんが帰って来るなら、今日中に買い物に行った方がいい。
急に気ぜわしくなった。
**
いとちゃんが帰ってくると知って、それでわたしは今更のように気づいたのだけど、アンタッチャブル・スペースであるいとちゃんルームを覗くのは、今しかないのだ。
(これは、今を逃したら永久にその機会を失うに違いない……)
居候暮らしだから、流石に梟荘のお掃除は毎日欠かさなかったが、いとちゃんの部屋だけはなんとなくそのままにしていた。
掃除機をかけるくらい、しておいたほうが良いかもしれないじゃないか。
買い物をした後、ついにわたしは決行した。
秘密のいとちゃん部屋を開いて、中に突入する。
扉を開いて入ると、いとちゃんがいつも漂わせている、あのふやけた匂いが満ち満ちていた。
カーテンが閉め切られていて、籠っていて、埃が舞っている。
けれど、その薄暗い空間は、ヒキコモリの部屋の割には整然としていて、思ったほど散らかっていなかった。
というより、ものがあまりなかった。
(いとちゃんは、こんながらんとしたところで、一人で閉じこもっていたのか)
ベッドには寝乱れた布団があって、ふやけた匂いは主にそこから放たれていて、それはぜひとも干してあげたいと思った。
壁に向かって、学習デスクのような木製の机が置かれていて、そこにデスクトップ型のパソコンがあった。
電源は落ちていた。起動して中を見たい気分になったが、それは人の日記帳を盗み見するのと同じレベルの事だし、なによりパスワードが設定されている気がして止めた。
(このパソコンが、『糸を読むひと』の居場所なんだ)
それほど新しい機種ではなかった。
容量も多くはないだろう。こんなパソコンで、よくまああれだけのサイトを作ったものだ、いとちゃん。
本棚はなかったけれど、デスクにちいさな棚が取り付けられていて、そこにホームページ作成関係のハウツー本が三冊ほど置かれていた。
あとは、衣装ダンス代わりの、透明な押し入れケース。
そこに、下着やらジャージの替えやらが入っているはずだ。
……それだけ。
いとちゃんの部屋にあるものは、たったそれだけ。
玉のれんをくぐって台所に顔を出すいとちゃん。
深夜、部屋からぼうぼうの頭を突き出して、こっちを見ていたいとちゃん。
いとちゃんの色々な姿が思い出されて、何故かわたしは涙が込み上げそうになった。だけど、部屋を見て泣くのは、いとちゃんに対して失礼だと思った。
パチン。
閉め切られて薄暗い部屋に明かりをつけた。
その瞬間、わたしは見たのだった。
糸が。
銀の糸。美しく輝く繊細な糸。
それらは、壮大なクラシック音楽の楽譜のようにぴんと張り詰め、静かに揺れていた。糸が震える度に、微妙な音が奏でられるようで、わたしはその風景に見入った。
部屋の中に糸が流れている。
光る糸たちはいずれもどこかに繋がっていて、この瞬間も活き活きと脈打っている。
この世界の、どこかの誰かの今に繋がっているのに違いない、それらの沢山の糸は、触れることすら恐ろしく、微妙で、繊細で、弱くて――生きていた。
それはほんの一瞬見えた幻想だった。
瞬きしたら、跡形もなく消えてしまって、目の前にはがらんとしたいとちゃん部屋が広がっているだけだった。
わたしはしばらく立ち尽くしたが、結局部屋には足を踏み入れず、掃除機もかけず、すごすごと退散したのであった。
(無造作に入っていったら、あの糸がくちゃくちゃに乱れてしまいそうだ)
わたしの体が触れることで糸が絡み合い、時には千切れ、地上のどこかで生きている誰かの運命を左右すると思ったら、恐ろしい。
部屋の扉をしめ、掃除機を片づけてから、何となく気づいた。
あの幻想は、もしかしたらいとちゃんがあらかじめ仕掛けておいたトラップだったのかもしれない。
自分がいない間に部屋に侵入されないように、一瞬、糸の風景を見せるように魔法を置いていったのかもしれなかった。
そんなことができるのか分からなかったけれど、いとちゃんならやりそうだ。
冷蔵庫の麦茶が切れそうになっているので、麦茶を作りながら、わたしは苦笑する。
お茶用のやかんをガスコンロにかけ、沸くのを待ちながら、テーブルで頬杖をついた。
明かり取りの窓から西日が入ってくる。
赤く色づく台所。ヒグラシの鳴き声も聞こえて来た。
あの、美しい糸たち。
どこに繋がっているのか分からない。わたしには、それを見ることはおろか、操ることなどできない。
今こうしている間も、わたしの「糸」は誰かのちょっとした言動や仕草で、微妙な影響を受けているのかもしれない。
絡み合い、影響を受け合う、命の糸たち。
いつか終焉の闇に向かうその時まで、ひくひくと脈打ち続ける美しい糸たち。
いとちゃんは、あんなに綺麗で複雑なものを、見ているんだな。
お湯が沸いて来たので、麦茶パックを投入しようと、わたしは立ち上がる。
あらゆる事象が糸で繋がっているのだとしたら、今この瞬間の苦痛も悲しみも、やがて来る喜びに繋がっている。涙も怒りも、全ての人の糸に繋がっている。だから糸たちはあんなに美しく震えているのだ。
薬缶の中のお湯が、麦茶色に色づいて、香りを立て始めていた。
「最近の香典返しってお洒落なんだよなー」
貸してあげた喪服と、バッグと真珠の首飾り、パンプスを身に着けたいとちゃんが、式場の玄関でけやきの家族の端っこで並んで立っていた。叔母さんもお姉ちゃんたちも真っ白に青ざめた顔で目を泣きはらして、いちいち「ありがとうございます」と頭を下げている中で、いとちゃんだけはブスッとしたいつもの変わった表情だった。流石に会釈はしているようだけれど、悲しみを全力で表現している叔母さん達とはどこか異なり、いとちゃんは黒い棒きれのようだった。
お通夜の時、式場に入っていったわたしに、叔母さんもお姉ちゃんたちも、泣きはらした目で「ありがとうありがとう」と言ったけれど、最後、いとちゃんの前を通りかかった時、いとちゃんはそっとわたしに、香典返しのことについて耳打ちしたのだった。
香典返しがお洒落。
何のことやら。
だけど、通夜が終わった時、いとちゃんが教えてくれた意味が分かった。
香典返しと言えば、どっさりとした品物を思い浮かべるものだけど、この式場を出る時、わたしは何も受け取らなかった。あれっ、今回はお返しがないのか、まあいいや、もらっても消費できないもんな、と思って梟荘に帰った。
玄関にあらかじめ用意しておいた塩を体に振りかけて家の中に入り、窮屈な喪服やストッキングを脱いで部屋着に戻ってコーヒーを淹れて、「お洒落な香典返し」という言葉を思い出した。
不審に思いながら、今日式場でもらった、折り畳まれた案内状みたいなやつを取り出してみたら、そこにクオカードが挟まれていて驚いた。なるほど、香典返しってこれか、これは凄い、ハイカラだ――いとちゃんの一言がなかったら、葬儀のプログラム兼挨拶状だと思い込んで、よく見ずにまとめて捨ててしまったかもしれなかった。
(これ、香典返しがないって問い合わせが後で殺到しなかったもんかねえ)
他人事ながら、ちょっと心配になった。
参列者の中にはわりと年配の人もいたことだし、昔ながらの香典返しを思い浮かべていた人もいそうだ。
泣きはらした目で悲しみを表現していた叔母ちゃんとお姉ちゃんたちを他所に、そうっと香典返しのことを囁いてくれたいとちゃん。いとちゃんが悲しんでいないというわけでは決してない。たぶん、一般的にはいとちゃんは酷いやつ、ちょっとおかしいひとと言われるのだろう。でも、少なくともわたしは、教えてくれて助かったよ、叔父さんも香典返しが無駄にされなくてほっとしていると思うよ、と、いとちゃんに感謝したのだった。
お通夜、葬儀とつつがなく進み、初七日も終了し、ひととおりの儀式が済んだ。
しばらく、いとちゃんはけやき家に寝泊まりすることになる。叔父さんの持ち物の片づけやら、財産分配の話やら、他いろいろな、難しくて、微妙で、神経を使って、嫌な仕事が、いとちゃんを待ち受けているのだ。
けやき家の人々はこれまでいとちゃんを心配し、護り、甘やかしてきたのだけど、もしかしたら叔父さんの死を機に、方向が変わってくるかもしれないなとわたしは感じた。
葬儀の時の雰囲気からして、けやき家の女達の中でいとちゃんは完全に浮いていた。
叔母さんとお姉ちゃんたちの隅っこに並んだいとちゃんは、家族とちょっと間を開けて立っていた。
お姉ちゃんたちも叔母さんも、いとちゃんから目を逸らすようにしているように見えた。
(叔父さんが病気で倒れてからのいとちゃんの態度とかも、きっと、問題視されているに違いない)
梟荘はいとちゃんの手に渡らないだろうという、あの予言が頭に残っていた。なるほど当然かもしれない。
快方に向かっていると信じていた叔父さんが、唐突に亡くなった。叔母さんもお姉ちゃんたちも、心の均衡を失っているのに違いない。悲しみの中に、この理不尽な状況に対する怒りがあってもおかしくはなかった。そして、その怒りの矛先の向かう先は、いとちゃんになるような気がした。
別にいとちゃんが叔父さんを殺したわけではないのだけど、大変な時に家族に協力しなかったのは事実だ。
目線を変えて考えれば、いとちゃんは協力しなかったのではなく、できなかったのだと理解できるのだけど、この世の中ではいとちゃんの立場ではなく、叔母さんたちの立場でものを見る人が多すぎる。あらゆることが多勢に無勢で進むものだけど、けやき家の女の人たちといとちゃんの関係も、その法則に従って、これからどんどん悪化して行くだろうことが想像できた。
けやきのうちで、いとちゃんは孤立しているのに違いない。
同じテーブルでごはんを食べているのだろうけれど、叔母さんもお姉ちゃんたちも決していとちゃんに邪険なことはしないのだろうけれど、亀裂が入った空気感はどこまでもいとちゃんを突き放すだろう。
(早く、早く帰っておいで、いとちゃん)
梟荘での一人暮らしの日々が続いた。
梟荘は、一人で暮らすには広すぎた。
悪いことに、単発バイトの合間の時期で、わたしは非常に暇だった。することと言えば、梟荘の掃除や草むしり、大学のレポートくらいのものだ。
麦茶を作ってピッチャーに入れても、飲むのはわたし一人だけ。琥珀色の透明な飲み物は、冷たく揺れるほど寂しかった。
そうこうしているうちに、夏は終わりに向っていた。
油蝉は相変わらず鳴いていたが、夕暮れ時になると日射の色が濃い赤色に色づくようになり、ヒグラシが鳴きたてるようになった。
相変わらず暑かったが、明らかに秋は近づいており、夏休みは終盤を迎えようとしていた。
そう言えば、母が秋くらいに日本に一度戻るかもしれないと言っていたな、と、思い出す。
けやきの叔父さんの訃報を母に連絡しようにも、連絡手段がなかったので知らせないままだった。母はテレパシーやら変なビデオレターやらで、勝手にコンタクトを取って来るけれど、わたしにはそんな珍妙な技は使えないので。
たぶん、母は全部見通しているような気がする。
遠い南のヘンテコな島で、ちゃんちきりんこんと踊り狂いながら、叔父さんの死を感じているのではないだろうか。
(ああ、だから母は一度帰って来ると言ったのかもしれない……)
ちりんりんりりん。
風鈴が寂し気に鳴る。夕暮れ時になると、暑い風の中に、僅かに涼しいものが混じるようになった。
もうあと何日で大学、と、どんよりした気分で指折り数える時期になった。
いとちゃんから、色々決まったから明日帰ると電話が入ったのは、その頃である。
それは午後の3時くらいだったか。電話が鳴ったので、飛びつくように受話器を取ったら、いとちゃんがいつもと変わらない落ち着いた声で、「久しぶり」と言ってきた。
あまりにも懐かしくて、わたしはちょっと笑ってしまった。
「梟荘のこととか、いろいろ決まってさー。今すぐどうということではないんだけどねー。後日、母さんからゆめちゃんにも話すだろうけれど、その前にわたしからも言っとくわ。明日午前中にはそっちに戻る。あ、喪服はクリーニングに出してくれたらしい」
らしい、ということは、クリーニングに出してくれたのはいとちゃんではなくて、叔母さんなんだろうな。わたしは、うんそれで、と、合いの手を入れた。
「明日の夕食は、カレーうどんが食べたい」
と、いとちゃんは言って、じゃあね、と電話を切った。
たぶん、そのことを伝えるのが、この電話のメインだったのに違いない。涼しい梟荘の廊下に立ちながら、わたしはにやにやと笑っていた。
カレーうどん。
いいじゃないの。
明日の午前中にいとちゃんが帰って来るなら、今日中に買い物に行った方がいい。
急に気ぜわしくなった。
**
いとちゃんが帰ってくると知って、それでわたしは今更のように気づいたのだけど、アンタッチャブル・スペースであるいとちゃんルームを覗くのは、今しかないのだ。
(これは、今を逃したら永久にその機会を失うに違いない……)
居候暮らしだから、流石に梟荘のお掃除は毎日欠かさなかったが、いとちゃんの部屋だけはなんとなくそのままにしていた。
掃除機をかけるくらい、しておいたほうが良いかもしれないじゃないか。
買い物をした後、ついにわたしは決行した。
秘密のいとちゃん部屋を開いて、中に突入する。
扉を開いて入ると、いとちゃんがいつも漂わせている、あのふやけた匂いが満ち満ちていた。
カーテンが閉め切られていて、籠っていて、埃が舞っている。
けれど、その薄暗い空間は、ヒキコモリの部屋の割には整然としていて、思ったほど散らかっていなかった。
というより、ものがあまりなかった。
(いとちゃんは、こんながらんとしたところで、一人で閉じこもっていたのか)
ベッドには寝乱れた布団があって、ふやけた匂いは主にそこから放たれていて、それはぜひとも干してあげたいと思った。
壁に向かって、学習デスクのような木製の机が置かれていて、そこにデスクトップ型のパソコンがあった。
電源は落ちていた。起動して中を見たい気分になったが、それは人の日記帳を盗み見するのと同じレベルの事だし、なによりパスワードが設定されている気がして止めた。
(このパソコンが、『糸を読むひと』の居場所なんだ)
それほど新しい機種ではなかった。
容量も多くはないだろう。こんなパソコンで、よくまああれだけのサイトを作ったものだ、いとちゃん。
本棚はなかったけれど、デスクにちいさな棚が取り付けられていて、そこにホームページ作成関係のハウツー本が三冊ほど置かれていた。
あとは、衣装ダンス代わりの、透明な押し入れケース。
そこに、下着やらジャージの替えやらが入っているはずだ。
……それだけ。
いとちゃんの部屋にあるものは、たったそれだけ。
玉のれんをくぐって台所に顔を出すいとちゃん。
深夜、部屋からぼうぼうの頭を突き出して、こっちを見ていたいとちゃん。
いとちゃんの色々な姿が思い出されて、何故かわたしは涙が込み上げそうになった。だけど、部屋を見て泣くのは、いとちゃんに対して失礼だと思った。
パチン。
閉め切られて薄暗い部屋に明かりをつけた。
その瞬間、わたしは見たのだった。
糸が。
銀の糸。美しく輝く繊細な糸。
それらは、壮大なクラシック音楽の楽譜のようにぴんと張り詰め、静かに揺れていた。糸が震える度に、微妙な音が奏でられるようで、わたしはその風景に見入った。
部屋の中に糸が流れている。
光る糸たちはいずれもどこかに繋がっていて、この瞬間も活き活きと脈打っている。
この世界の、どこかの誰かの今に繋がっているのに違いない、それらの沢山の糸は、触れることすら恐ろしく、微妙で、繊細で、弱くて――生きていた。
それはほんの一瞬見えた幻想だった。
瞬きしたら、跡形もなく消えてしまって、目の前にはがらんとしたいとちゃん部屋が広がっているだけだった。
わたしはしばらく立ち尽くしたが、結局部屋には足を踏み入れず、掃除機もかけず、すごすごと退散したのであった。
(無造作に入っていったら、あの糸がくちゃくちゃに乱れてしまいそうだ)
わたしの体が触れることで糸が絡み合い、時には千切れ、地上のどこかで生きている誰かの運命を左右すると思ったら、恐ろしい。
部屋の扉をしめ、掃除機を片づけてから、何となく気づいた。
あの幻想は、もしかしたらいとちゃんがあらかじめ仕掛けておいたトラップだったのかもしれない。
自分がいない間に部屋に侵入されないように、一瞬、糸の風景を見せるように魔法を置いていったのかもしれなかった。
そんなことができるのか分からなかったけれど、いとちゃんならやりそうだ。
冷蔵庫の麦茶が切れそうになっているので、麦茶を作りながら、わたしは苦笑する。
お茶用のやかんをガスコンロにかけ、沸くのを待ちながら、テーブルで頬杖をついた。
明かり取りの窓から西日が入ってくる。
赤く色づく台所。ヒグラシの鳴き声も聞こえて来た。
あの、美しい糸たち。
どこに繋がっているのか分からない。わたしには、それを見ることはおろか、操ることなどできない。
今こうしている間も、わたしの「糸」は誰かのちょっとした言動や仕草で、微妙な影響を受けているのかもしれない。
絡み合い、影響を受け合う、命の糸たち。
いつか終焉の闇に向かうその時まで、ひくひくと脈打ち続ける美しい糸たち。
いとちゃんは、あんなに綺麗で複雑なものを、見ているんだな。
お湯が沸いて来たので、麦茶パックを投入しようと、わたしは立ち上がる。
あらゆる事象が糸で繋がっているのだとしたら、今この瞬間の苦痛も悲しみも、やがて来る喜びに繋がっている。涙も怒りも、全ての人の糸に繋がっている。だから糸たちはあんなに美しく震えているのだ。
薬缶の中のお湯が、麦茶色に色づいて、香りを立て始めていた。
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