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その11・予兆、見えない力を使うということ
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ベランダのガラス戸から入る日差しはあたたかで、ずっと座っていると額がぬるくなった。
積もった雪は溶け始めている。夜の間は高熱で辛かったけれど、今は熱も引いて、なにかが体から抜けたような、ふわふわとした倦怠感が残るばかりだった。
引き戸ひとつ隔てた場所が台所で、母はそこでお粥を煮ていた。
ことことぶつぶつと煮える音が聞こえてきて、同時にお粥独特の匂いが漂ってきた。たぶん、今朝のごはんはお粥だけだ。高熱で嘔吐までしてしまったからだ。母は一般的なことについては、常識を疑う程おおらかなくせに、体のことについては神経質だった。
「お粥と白湯以外はだめ」
と、宣言されてしまったからには、どうしようもない。
そういうばあい、母は戸棚のお菓子を全部、手の届かないところに上げてしまうのだった。
(弱っているんだから、滋養のあるもんを食べるべきではなかろうか)
と、ひなたで座り込んで、だるそうにしている小さい自分を見下ろしながら、「わたし」は思う。
かちゃかちゃと食器の音がした。母が粥をよそい、今にも引き戸を開けて部屋に入って来そうだった。
思えば、あの素っ頓狂な母親から、ああ自分はこのひとの子供で、ちゃんと愛されているんだなと感じたのは、病み上がりにやたら厳しい食事制限をされた時だった。体をちょっと壊したくらいで、母は息が詰まるほど心配し、その様はまるで、怒り狂っているかのようだった。
「こんちくしょう病気になんかなりやがってこのばかたれ心配させてこのばか」
腹の中の声が聞こえてきそうな勢いで、暴力的な勢いで服をパジャマに着替えさせ、風呂など絶対に禁止で、夜の7時くらいから布団をかぶせて一刻も早く寝ろと怒り声で言うのだった。
だって、見たいテレビがあるんだもん。
などと言おうものなら、ふわふわキラキラスピリチュアルママ面が悪役プロレスラーの形相になり、今すぐ目を閉じて寝ないなら、なんなら強制的に寝かしてやろうかと言わんばかりの怒気を孕むので、諦めて目をつぶるしかなかった。
(イヤダこの母親、と思ったコトで、愛情を実感する)
生臭いなあ、これが母の愛か、どこのうちでもそうなんだろうか。
そう思った時、本当に引き戸が開きそうになった。
幼いわたしはガラス戸の外に目を向けたまま、だるそうにしている。それを見下ろしながら、わたしはうろうろもたもたと引き戸と自分自身を交互に眺めていた。その時になってやっと、この変な状況に気が付いたのである。
(夢だ)
と、悟った時、がらっと引き戸が開いた。
絶妙なタイミングで、わたしは夢から引きずり上げられてぱっちりと目を覚ましたのである。
ベッドの横はカーテンで、隙間から朝日が差していた。
眩しさに目をすぼめた時、母の能天気な声が、脳裏に直接響いた。
「ゆめちゃんあのね、ちょっと厄介なことがあるけれど、ゆめちゃんは騙されるような子ではないから根本では大丈夫。敵は現実に現れる人たちではなくて、ゆめちゃんの中にある孤独感だってことに早く気づいてね。そして、そんな孤独感なんか実は気のせいだってことにも」
あと、おなかを出して寝ないようにね。風邪ひくわよ。
ちゃんちきりんこん。
鼓膜を震わせるような音と共に、メッセージ・フロム・マイマザーは終了した。
テレパシー、なんという便利なものだろう。だけど、質が悪い。携帯電話なら、出たくなければ電源を切っておけばよいのだけど、テレパシーは時と場所を選ばず、強制的に聞かせてくるではないか。
爽やかな目覚めで、これから徐々にのびのびと行動モードに以降してゆくはずが、いきなり背中を平手で叩かれて気合を無理やり入れられた感じになった。
電源が切れたテレビ画面を通したビデオレターやら、テレパシーやら、人間技ではないものを見せつけられつつも、わたしはやはり、そんなものに神秘を感じたくはなかった。逆に、あんなに理不尽な切り捨て方をしたくせに、勝手な時に、独自のわけのわからない手段で連絡を取ってくる母の図々しさに腹が立った。
つまりわたしは、未だに母を許せずにいるのだった。
(今後、どんなに具合が悪かろうと、一生、お粥だけは食べるまい)
と、わたしはお粥に八つ当たりをした。
母に何か言ってやろうにも、そこにいないし、わたしからテレパシーなんか送ることはできない。連絡先も知らない。
自分の言いたいことを一方的に言って来るくせに、わたしの言い分はあちらに届かないのだった。
**
食パンがあったので、サンドイッチを作った。
二つ作って、一つはいとちゃん用に皿に乗せて向かいの席に置いた。コーヒーを入れていると、じゃらんじゃらんと玉のれんが掻き分けられて、ものすごい顔をしたいとちゃんが台所に入って来た。
頭がぼうぼうなのはもともとだから仕方がないとして――美容院に行きたくないなら、わたしが切ってあげるべきなんだろうか――目の下にクマが出来ていたし、頬は落ちくぼんでいたし、目は充血していて、眉はねじり揚げみたいにクチャクチャと寄っていた。
ヒキコモリが、疲れたああ疲れたとオーバーワークのサラリーマンみたいなことを言いながら、どっかりとテーブル席に座り、BLTサンドを取り上げて、もさもさとむさぼり喰い始めた。
「コーヒー飲む」
「たのむー」
いとちゃんはサンドを頬張った口で、もがもがと言った。
ドリップ式のコーヒーが二人分。流しの前についている明かり取りの小窓から、明るい日が差していた。
ことっとコーヒーのマグを置いてやると、ものすごい勢いで飲み始めた。火傷するんじゃないかと思ったけれど、なんら感じていない様子で、いとちゃんはけろっとしている。
このところいとちゃんは、夜寝ていないようだ。
朝起きてごはんを食べるけれど、昼食には起きてこないことが増えた。きっと部屋で寝ているんだろう。
そして夜が近づくともさもさと起きてきて食事を摂り、風呂に入り、また部屋に戻る。
行動だけ見ていたら、また元の完全ヒキコモリに退化しているように思えるが、そうではないことは、いとちゃんの目の輝きで分かる。
真っ暗な目だけど、そこにはなにかきらめきがあった。
なにかをしなくてはならない、しようとしている、しあげた直後の人のような、充実した目つきをしていた。
(なにをしているんだろう、いとちゃん)
「このサンドはいいね。今日ゆめちゃんがこれを作ったことで、地球の裏側では一人の少女が命に関わる事故に遭わずに済んだ。すごく良いことだから、教えてあげた」
わけのわからないことを言い出した。また、例の「糸」のことだろう。
なるほど、わたしがBLTサンドを作ったことで、なにかの「糸」が引っ張られてドミノ倒しめいた影響を絡まり合う糸たちに与えて行き、ついに最後には、地球の裏側、どこの国かわからないところで、見知らぬ少女の命が救われた、と。
(『糸』が見えなくて幸せだよ、わたしは)
テーブルの隅に置いてある、古いラジオの電源を入れた。
調理している時など、テレビではなくラジオを流すことが多い。わたしはラジオが好きなのだった。
しいんとした食卓に、突然ラジオの音が流れた。もさもさごくごくと獣のように食事を摂るいとちゃんを眺めながら、わたしはラジオに耳を傾けた。サンドを口にした時、番組はいきなり切り替わり、緊急速報のニュースになった。
それは、国内のある県の住宅で、男が押し入って、小さい子供と一緒に立て籠っている事件の中継だった。
昨晩からその事件は報じられているから、一晩中、その小さい子は怖いおっちゃんと二人きりだったことになる。
ママとパパはうちの外で、警察に護られながら事態をずっと見守っているのか。
なんということだろう。
ずしんと重たく感じた。
そういう辛いニュースに出会うと、即座に番組を変えてしまうところが、わたしにはあった。
どうにかしてあげようもないことを、えんえんと聞いて、ただ可哀そうにね酷いねと言っていることほど腹が立つことはない。テレビやラジオを聞いている段階で、わたしたちは野次馬となんらレベルが変わらないのだった。
手を伸ばしてラジオの電源を切った。
いとちゃんは半眼になって、サンドの最後のひとかけらを頬張ったところだった。ぐいぐいとコーヒーを流し込み、ふうと一息つくと、手元のパン屑を払うようなさりげない仕草をした。
「うん、これで」
と、いとちゃんは呟いた。
「戸棚の上にしまい込まれた重たい花瓶が落ちてきて、凶悪犯の脳天を直撃し、失神してしまうので、子どもは自分からお外に逃げてくる。ただし、すぐに目覚めた凶悪犯が、子どもが脱出したことを知って怒り狂って、隠し持っていた手りゅう弾もろとも自爆しちゃって、パパが必死で働いて毎月のローンを返している新しくて綺麗なおうちが、一瞬で木っ端みじんになってしまうけれどね」
おまけに被害は、両隣のお宅にも及ぶ。
これから、ここんちのパパとママは大変だけど、それでも良いよね。だって、子どもが無事なんだから。
簡単にいとちゃんは言うと、かたんと立ち上がった。
あーあと欠伸をして、のそのそと台所を出て行った。じゃらんじゃらんと玉のれんが踊る様を、わたしは唖然として眺めた。何だったんだ今のは。
(妄想に拍車がかかっている。いとちゃんがヤバイ方向に行っている)
サンドを食べ終えて、皿を洗うべく立ち上がった。
ラジオはもう聞きたい気分ではなかったので、テレビをつけた。音だけを聴きながら家事をしていると、朝の連続ドラマが終わるなり、いきなり緊急速報が入ったので、ああまたかとうんざりした。
事件が起きたとして、それを報じてくれるのは確かに必要なことかもしれないけれど、少なくともわたしは聞きたくはない。聞いてもどうしもしてあげられない。自分勝手に心を傷めたり、たかが野次馬のくせに同情して悲しんだりするのは嫌だった。
あーもう、今日はテレビもラジオも聞けないや。
濡れた手をふき、テレビをけとうとした。その時わたしは、テレビの画面に映ったものと、解説の声を聞いた。
腰が抜けかけた。
とても日本とは思えないような光景だった。ミサイルが直撃して破壊されたかのような家屋たち。くすぶる黒い煙。ウーウーと鳴るサイレン。真っ青な顔でインタビューに答える人々。
そして解説者は、凶悪犯に捉えられていた子供が自力で脱出し、親のところまで来た瞬間、自宅が破裂するように爆発したことを告げた。
「男は手りゅう弾を持っていると言っておりましたが、それを使ったと思われます。被害は他のお宅にも出ており、住民は学校の公民館に緊急避難をしています」
滅茶苦茶に壊れた家屋。
「それでも良いよね。だって、子どもが無事なんだから」
いとちゃんの言葉が蘇った。
ぶるぶるとわたしは首を振った。
(家屋も無事で、凶悪犯も心を入れ替えて出頭してきて、もちろん子供も無事で、というエンドには持って行けなかったのかよ)
あの時。
パン屑を払うようにした、不思議ないとちゃんの仕草。
あれが、「糸」を操作した瞬間だったのか。
「それでも良いよね」
と言ったいとちゃんの声が、無造作であればあるほど、わたしは黙り込んでしまう。
分からない。なにが正しいのか、どうすれば良いかなんて、分からない。
ただ、瞬時に何かを選択して操作する度胸なんか、わたしには露ほどもなかった。
(いとちゃん……)
積もった雪は溶け始めている。夜の間は高熱で辛かったけれど、今は熱も引いて、なにかが体から抜けたような、ふわふわとした倦怠感が残るばかりだった。
引き戸ひとつ隔てた場所が台所で、母はそこでお粥を煮ていた。
ことことぶつぶつと煮える音が聞こえてきて、同時にお粥独特の匂いが漂ってきた。たぶん、今朝のごはんはお粥だけだ。高熱で嘔吐までしてしまったからだ。母は一般的なことについては、常識を疑う程おおらかなくせに、体のことについては神経質だった。
「お粥と白湯以外はだめ」
と、宣言されてしまったからには、どうしようもない。
そういうばあい、母は戸棚のお菓子を全部、手の届かないところに上げてしまうのだった。
(弱っているんだから、滋養のあるもんを食べるべきではなかろうか)
と、ひなたで座り込んで、だるそうにしている小さい自分を見下ろしながら、「わたし」は思う。
かちゃかちゃと食器の音がした。母が粥をよそい、今にも引き戸を開けて部屋に入って来そうだった。
思えば、あの素っ頓狂な母親から、ああ自分はこのひとの子供で、ちゃんと愛されているんだなと感じたのは、病み上がりにやたら厳しい食事制限をされた時だった。体をちょっと壊したくらいで、母は息が詰まるほど心配し、その様はまるで、怒り狂っているかのようだった。
「こんちくしょう病気になんかなりやがってこのばかたれ心配させてこのばか」
腹の中の声が聞こえてきそうな勢いで、暴力的な勢いで服をパジャマに着替えさせ、風呂など絶対に禁止で、夜の7時くらいから布団をかぶせて一刻も早く寝ろと怒り声で言うのだった。
だって、見たいテレビがあるんだもん。
などと言おうものなら、ふわふわキラキラスピリチュアルママ面が悪役プロレスラーの形相になり、今すぐ目を閉じて寝ないなら、なんなら強制的に寝かしてやろうかと言わんばかりの怒気を孕むので、諦めて目をつぶるしかなかった。
(イヤダこの母親、と思ったコトで、愛情を実感する)
生臭いなあ、これが母の愛か、どこのうちでもそうなんだろうか。
そう思った時、本当に引き戸が開きそうになった。
幼いわたしはガラス戸の外に目を向けたまま、だるそうにしている。それを見下ろしながら、わたしはうろうろもたもたと引き戸と自分自身を交互に眺めていた。その時になってやっと、この変な状況に気が付いたのである。
(夢だ)
と、悟った時、がらっと引き戸が開いた。
絶妙なタイミングで、わたしは夢から引きずり上げられてぱっちりと目を覚ましたのである。
ベッドの横はカーテンで、隙間から朝日が差していた。
眩しさに目をすぼめた時、母の能天気な声が、脳裏に直接響いた。
「ゆめちゃんあのね、ちょっと厄介なことがあるけれど、ゆめちゃんは騙されるような子ではないから根本では大丈夫。敵は現実に現れる人たちではなくて、ゆめちゃんの中にある孤独感だってことに早く気づいてね。そして、そんな孤独感なんか実は気のせいだってことにも」
あと、おなかを出して寝ないようにね。風邪ひくわよ。
ちゃんちきりんこん。
鼓膜を震わせるような音と共に、メッセージ・フロム・マイマザーは終了した。
テレパシー、なんという便利なものだろう。だけど、質が悪い。携帯電話なら、出たくなければ電源を切っておけばよいのだけど、テレパシーは時と場所を選ばず、強制的に聞かせてくるではないか。
爽やかな目覚めで、これから徐々にのびのびと行動モードに以降してゆくはずが、いきなり背中を平手で叩かれて気合を無理やり入れられた感じになった。
電源が切れたテレビ画面を通したビデオレターやら、テレパシーやら、人間技ではないものを見せつけられつつも、わたしはやはり、そんなものに神秘を感じたくはなかった。逆に、あんなに理不尽な切り捨て方をしたくせに、勝手な時に、独自のわけのわからない手段で連絡を取ってくる母の図々しさに腹が立った。
つまりわたしは、未だに母を許せずにいるのだった。
(今後、どんなに具合が悪かろうと、一生、お粥だけは食べるまい)
と、わたしはお粥に八つ当たりをした。
母に何か言ってやろうにも、そこにいないし、わたしからテレパシーなんか送ることはできない。連絡先も知らない。
自分の言いたいことを一方的に言って来るくせに、わたしの言い分はあちらに届かないのだった。
**
食パンがあったので、サンドイッチを作った。
二つ作って、一つはいとちゃん用に皿に乗せて向かいの席に置いた。コーヒーを入れていると、じゃらんじゃらんと玉のれんが掻き分けられて、ものすごい顔をしたいとちゃんが台所に入って来た。
頭がぼうぼうなのはもともとだから仕方がないとして――美容院に行きたくないなら、わたしが切ってあげるべきなんだろうか――目の下にクマが出来ていたし、頬は落ちくぼんでいたし、目は充血していて、眉はねじり揚げみたいにクチャクチャと寄っていた。
ヒキコモリが、疲れたああ疲れたとオーバーワークのサラリーマンみたいなことを言いながら、どっかりとテーブル席に座り、BLTサンドを取り上げて、もさもさとむさぼり喰い始めた。
「コーヒー飲む」
「たのむー」
いとちゃんはサンドを頬張った口で、もがもがと言った。
ドリップ式のコーヒーが二人分。流しの前についている明かり取りの小窓から、明るい日が差していた。
ことっとコーヒーのマグを置いてやると、ものすごい勢いで飲み始めた。火傷するんじゃないかと思ったけれど、なんら感じていない様子で、いとちゃんはけろっとしている。
このところいとちゃんは、夜寝ていないようだ。
朝起きてごはんを食べるけれど、昼食には起きてこないことが増えた。きっと部屋で寝ているんだろう。
そして夜が近づくともさもさと起きてきて食事を摂り、風呂に入り、また部屋に戻る。
行動だけ見ていたら、また元の完全ヒキコモリに退化しているように思えるが、そうではないことは、いとちゃんの目の輝きで分かる。
真っ暗な目だけど、そこにはなにかきらめきがあった。
なにかをしなくてはならない、しようとしている、しあげた直後の人のような、充実した目つきをしていた。
(なにをしているんだろう、いとちゃん)
「このサンドはいいね。今日ゆめちゃんがこれを作ったことで、地球の裏側では一人の少女が命に関わる事故に遭わずに済んだ。すごく良いことだから、教えてあげた」
わけのわからないことを言い出した。また、例の「糸」のことだろう。
なるほど、わたしがBLTサンドを作ったことで、なにかの「糸」が引っ張られてドミノ倒しめいた影響を絡まり合う糸たちに与えて行き、ついに最後には、地球の裏側、どこの国かわからないところで、見知らぬ少女の命が救われた、と。
(『糸』が見えなくて幸せだよ、わたしは)
テーブルの隅に置いてある、古いラジオの電源を入れた。
調理している時など、テレビではなくラジオを流すことが多い。わたしはラジオが好きなのだった。
しいんとした食卓に、突然ラジオの音が流れた。もさもさごくごくと獣のように食事を摂るいとちゃんを眺めながら、わたしはラジオに耳を傾けた。サンドを口にした時、番組はいきなり切り替わり、緊急速報のニュースになった。
それは、国内のある県の住宅で、男が押し入って、小さい子供と一緒に立て籠っている事件の中継だった。
昨晩からその事件は報じられているから、一晩中、その小さい子は怖いおっちゃんと二人きりだったことになる。
ママとパパはうちの外で、警察に護られながら事態をずっと見守っているのか。
なんということだろう。
ずしんと重たく感じた。
そういう辛いニュースに出会うと、即座に番組を変えてしまうところが、わたしにはあった。
どうにかしてあげようもないことを、えんえんと聞いて、ただ可哀そうにね酷いねと言っていることほど腹が立つことはない。テレビやラジオを聞いている段階で、わたしたちは野次馬となんらレベルが変わらないのだった。
手を伸ばしてラジオの電源を切った。
いとちゃんは半眼になって、サンドの最後のひとかけらを頬張ったところだった。ぐいぐいとコーヒーを流し込み、ふうと一息つくと、手元のパン屑を払うようなさりげない仕草をした。
「うん、これで」
と、いとちゃんは呟いた。
「戸棚の上にしまい込まれた重たい花瓶が落ちてきて、凶悪犯の脳天を直撃し、失神してしまうので、子どもは自分からお外に逃げてくる。ただし、すぐに目覚めた凶悪犯が、子どもが脱出したことを知って怒り狂って、隠し持っていた手りゅう弾もろとも自爆しちゃって、パパが必死で働いて毎月のローンを返している新しくて綺麗なおうちが、一瞬で木っ端みじんになってしまうけれどね」
おまけに被害は、両隣のお宅にも及ぶ。
これから、ここんちのパパとママは大変だけど、それでも良いよね。だって、子どもが無事なんだから。
簡単にいとちゃんは言うと、かたんと立ち上がった。
あーあと欠伸をして、のそのそと台所を出て行った。じゃらんじゃらんと玉のれんが踊る様を、わたしは唖然として眺めた。何だったんだ今のは。
(妄想に拍車がかかっている。いとちゃんがヤバイ方向に行っている)
サンドを食べ終えて、皿を洗うべく立ち上がった。
ラジオはもう聞きたい気分ではなかったので、テレビをつけた。音だけを聴きながら家事をしていると、朝の連続ドラマが終わるなり、いきなり緊急速報が入ったので、ああまたかとうんざりした。
事件が起きたとして、それを報じてくれるのは確かに必要なことかもしれないけれど、少なくともわたしは聞きたくはない。聞いてもどうしもしてあげられない。自分勝手に心を傷めたり、たかが野次馬のくせに同情して悲しんだりするのは嫌だった。
あーもう、今日はテレビもラジオも聞けないや。
濡れた手をふき、テレビをけとうとした。その時わたしは、テレビの画面に映ったものと、解説の声を聞いた。
腰が抜けかけた。
とても日本とは思えないような光景だった。ミサイルが直撃して破壊されたかのような家屋たち。くすぶる黒い煙。ウーウーと鳴るサイレン。真っ青な顔でインタビューに答える人々。
そして解説者は、凶悪犯に捉えられていた子供が自力で脱出し、親のところまで来た瞬間、自宅が破裂するように爆発したことを告げた。
「男は手りゅう弾を持っていると言っておりましたが、それを使ったと思われます。被害は他のお宅にも出ており、住民は学校の公民館に緊急避難をしています」
滅茶苦茶に壊れた家屋。
「それでも良いよね。だって、子どもが無事なんだから」
いとちゃんの言葉が蘇った。
ぶるぶるとわたしは首を振った。
(家屋も無事で、凶悪犯も心を入れ替えて出頭してきて、もちろん子供も無事で、というエンドには持って行けなかったのかよ)
あの時。
パン屑を払うようにした、不思議ないとちゃんの仕草。
あれが、「糸」を操作した瞬間だったのか。
「それでも良いよね」
と言ったいとちゃんの声が、無造作であればあるほど、わたしは黙り込んでしまう。
分からない。なにが正しいのか、どうすれば良いかなんて、分からない。
ただ、瞬時に何かを選択して操作する度胸なんか、わたしには露ほどもなかった。
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