ひとりたりない

井川林檎

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 冷たくて、熱い。心地よい中庸は、その世界には存在しない。血が凍り足が壊死するほどの寒さか、渇きに苦しみ何も考えられなくなる暑さか。まあ、いいーー彼は冷たさと熱さが気まぐれに変わる世界で、無言で生き続けているーーどうせ、どうにもならない。全部、自分以外の誰かの気まぐれだ。でも、もういいのだ。

 もう、いいのだ。
 「トモダチに、なろうよ・・・・・・」
 俺は、もう、そんなことで傷つくこともせず、悩むこともない。誰にどう見られようと、どんな陰口を叩かれようと、どんな嫌がらせを受けようと、俺はもう、感じない。
 「ううん、いっそのこと、一つになろう。そうしたら、いつも一緒だから、独りぼっちではなくなるよ」

 にいいいっ。
 三日月型に笑う口。前髪に隠れた目。差し出された手は白く小さかったが、ぼんやり見据える彼の前で、徐々に変色しはじめた。
 白い柔らかな肌は、どんどん黒く、固く、奇怪な艶を帯び始める。それどころか、差し出された手は一つではなく、幾本もあるかのように見える。ごそっ、ごそっーーそれはもはや人間の子供の手ではなく、獲物をまさぐり寄せる、肉食虫の節足なのだった。
 
 「ね、キモチワルイでしょ」
 「それ」は、言う。
 「こんなんだから、トモダチができないんだよ」
 にいいいっ。言っていることとは裏腹に、口元は大きく笑み崩れている。
 彼は、ぼんやりと自分に差し出された異様な複数の手を眺める。この指とまれ、トモダチになろう、だからね、いつでもわたしが呼んだら来て。わたしが寂しくなったら、戻ってきて。この、上梨にーー俺と同じだ、と、彼は呟く。俺もこんなんだから、友達がいないんだ、と。

 そして、彼はその手に向かい、自分の手を差し出した。
 一瞬の沈黙の後、待ち構えていたかのように八本の黒い手は彼に向かい、同時に白い蜘蛛の糸が吐きつけられて、みるみるうちに彼は、繭となった。
 
**

 怜は、どうしてこんな風景を見せられるのか、訳が分からないなりに理解していた。結局、大友優は、寂しかったのだ。誰かに分かってほしかったのだ。なんでもいいから、どこかで共感してほしかったのだ。
 それだから、一番近しいだろう怜に、醜悪な風景を見せているのだ。

 「大友君の中に、あいつがいるのではなくて、あいつの中に、大友君が取り込まれているんだよ」

 ぽつんと怜は言った。この、熱くて冷たい酷い環境にいると、苦痛が甘く感じられるのだ。酷く辛く、酷く痛い。肌は腐りかけ、内臓に毒が入り込む。けれど、死ぬわけではなく、生きながら味わい続けなくてはならない、地獄。
 大友優は、この地獄に身を置き続けていた。逃げようと思えば逃げられたはずなのに、それができなかった。

 「俺は『わらしさま』と同化しているんだ」
 暗闇の中から、感情のない大友優の声が響いた。ぼわんと反響し、大友優が上にいるのか下にいるのか、前にいるのか後ろにいるのかすら、分からなかった。
 だから、側に行けなかった。
 この闇の帳を除けてほしい、と、怜は思った。

 「ね、教えて」
 怜は、ひたすら前を見て喋った。自分の目の前は闇だが、闇の中には赤い小さな玉のような眼がいくつも輝いている。その目には怜の姿が映し出されていた。獲物を見据える目だ。頑丈な蜘蛛の糸にからめとられながら、怜は淡々と問いかけた。

 「上梨小六年の女の子たちの失踪は、大友君と、あいつのしわざなの。みいなを返してもらうには、どうしたらいいの」

 じれったい間が空いた。
 やがて答えた声は、大友優のものではなかった。

 「あの子供らの美味しい部分は、ここに置き去りになっている。あっちに戻っていったのは、抜け殻のようなものだ」
 しゃがれた醜悪な声だった。もはや「わらしさま」は、あどけない子供の真似事すら止めてしまったのかもしれない。
 一方怜は、三十年前に起きた不可解な失踪事件を思い出している。「正義グループ」の三人、真鍋、所沢、瀬川は確かに失踪した。あの時も、説明のつかない失踪事件だった。だけどまもなく、彼らは何事もなかったかのように現実に戻ってきた。誰もが失踪事件など最初から起こっていなかったかのように思い込んだ。
 今起きている現象と、全く同じだと、怜は思った。

 弱い子を虐める子の「美味しい部分」。
 そうだ。正義グループの三人も、失踪から戻った後、人が変わったかのような善人になったではないか。そして、今まであの高慢な香織の傀儡のようだったのが、打って変わり、三人が三人とも、自分の身を犠牲にしてでも善行に走り始めた。
 怜は、「正義グループ」の三人が、どんな大人になっているのか、詳しくは知らない。ただ、あの失踪事件以前の彼らのまま人生を歩んだならば、どうなっていただろうと思う。
 (成功したに違いない)
 それを想像すると、寒々しかった。
 
 成功したに、違いなかった。人を踏みつけ、強者同士味方になり、「正義」を振り回し、楽しみは多い。
 (では、きっと今の彼らの人生は、成功していない)

 「もう一つのほうも答えてよ」
 身動きの取れない体。ぎちぎちと糸の力が増してゆく。そして、体が引き寄せられているようだ。大蜘蛛の餌食にされるために。

 「みいなや、あの子を返してもらうには」
 なにと、交換すればいいの?

 怜は静かに言った。
 交換なのだ。
 三十年前もそうだったように、人身御供にされた「正義グループ」の三人は、怜の親友のあの女の子の身と引き換えに、解放されて現実に戻った。かわりにあの女の子は二度と戻らず、最初から存在していなかったかのように扱われた。
 
 「トモダチ」
 
 ぽそりと返ってきたしゃがれ声の中に、大友優の無機質な声も混じっている。
 
 「本当に孤独で、誰も側にいない子ならば、より強烈に、一体化できる」

 ゼロ、みいなちゃんを返して欲しいの。そんなに。姪ってだけで、そこまで思うの。
 大友優の問いかけは、怖いほど純朴で、無心だった。

 「返して欲しい。みいなも、三十年前に失った、わたしの親友も」

 ぶち。ぶちぶち。
 怜をからめとっている糸が、千切れ始める。
 同時に蜘蛛の赤い目がぐるぐると回り始め、巨体がのたうちまわるような物音が聞こえた。

 大友優は、「もう俺は空っぽだから、俺じゃみいなちゃんの代わりにはならない」と、低く言った。それで怜は、大友優が自分を犠牲にしてみいなを救おうとしていることを知った。
 それでは駄目なのだ、と、怜は思った。
 
 「友達になれるよ」
 怜は言った。目の前ののたうち回る化け物ではなく、その化け物の中にうずくまる大友優に向かい、言った。
 「友達になろう」

 その時、闇に姿を隠した大蜘蛛が引き裂かれるような悲鳴をあげた。
 すうっと浮かび上がるように背の高い姿が闇に生まれる。大友優の後姿が見えた。同時に怜を絡めていた糸は全て千切れた。怜は叫びながら手を伸ばし、大友優に触れようとした。

 そこで、闇は消えた。
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