ひとりたりない

井川林檎

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 とても下らないことだったように覚えている。だけどその時に追った心の傷は強く、多分生きている限り消えない。
 「トモダチだったのに」
 怜は泣いている。学校の中で感情を露にすることは滅多にない。保育所時代以来かもしれない、同級生の前で泣き顔を晒すのは。これほどまでに悲しい思い、怒りを抱いたことはなかった。怜は自分を抑えきれなかった。
 トモダチだと思っていた。
 「嫌われ組」に属するようになった自分を、彼女だけは変わらず、対等な友人として付き合ってくれている。そう信じていた。宿題の分からないところを聞きあった。そのうち学校では口をきくのもはばかられるようになりーーというより、怜のほうから遠慮して、なるべく彼女から離れるようにした。彼女もまた、その事情を十分に理解してくれていたはずだったーーはず、だった。

 「トモダチだったのに」
 怜の泣き顔を見て、彼女は困惑していた。とても優しい子だというのは分かっている。そうだ、怜は分かっていた。彼女が「正義グループ」の前ではどうすることもできず、悪口と嘲笑の中で、一緒になって指さす立場を演じなくてはならなかったことくらい、怜は分かっていた。だけど、怜はそれが許せなかった。
 彼女は困惑し、口ごもった。長い沈黙が過ぎた。夕暮れは濃くなった。彼女は習い事を持っていた。時間が迫っていることも、怜は分かっていた。答えようのない問いかけに、彼女は心から困惑していた。どう答えても、もう怜との友情は続かないと諦めているようでもあった。彼女にとっても怜との関係を失うのは痛手であると、怜は分かっていた。

 (わたしは足元を見ていた)
 自分が彼女にとって大事な存在であることを知っていたから、それを思い知らそうとしていたのかもしれない。怜は、彼女が泣いて詫びてくれればそれで満足できた。そのはずだった。だけど。

 「ごめん、ピアノに間に合わないから・・・・・・」
 また、電話するから。本当にごめんね。ごめん、ごめんね、怜ちゃん。

 涙を見せるわけでもなく、言い訳をするわけでもなく、彼女はただ、習い事に急いだーー大事なコンクールが迫っているのだーーいつだって彼女の頭の中は、ピアノのことがあった。それも、怜は承知していたはずだった。
 「電話しないでいいよ。もういいから」
 怜は言った。とどめを刺さなくては気が済まなかった。涙は枯れていた。かわりに、どす黒い思いが込み上げていた。

 殺人鬼。
 あいつは能面みたいな顔で、人を殺すに違いない。あいつの親も殺人鬼ーーあんなデマを、よくまあみんな信じたものだ。けれど、怜は今になってやっと、自分の本性を悟ったのだった。
 ああ。わたしは冷酷無慈悲なのだ。切り裂き、血の涙を見て、自分と同等以上の苦しみを味わわせなくては気が済まないのだ。しかも、大事な相手に対して。

 彼女は振り向いた。涙を流しているかと思ったら、そうではなかった。けれど、表情はこわばり、目は哀し気だった。お願い、わかって、と、視線が告げていた。怜はそれをはねつけた。長い階段が続いている。その階段を降りたところに細い路地があり、そこからピアノ教室まで歩いて十五分。精いっぱいの近道だ。その時、時報の「ゆうやけこやけ」が上梨町に鳴り響いた。

 「ほんとにごめん」
 彼女は手を差し出した。握手を求めようとしたのか、涙を顔に貼り付けた怜に、なんでもいいから触れたかったのか。
 怜はその手を強くつかんだ。それから後は、体が自然に動いた感じだった。

 ぎゅっと引いて、ぐうっと押し返し、手を離す。

 「きゃあああああああっ・・・・・・」

 オレンジ色のワンピースが、朽ちた蝶の羽のように高く翻り、彼女は落ちていった。

**

 嫌な汗だった。やけに冷たいと思ったら、全身が汗で濡れて冷えている。おまけに息が切れていて、動悸が激しかった。寝ているのに全力疾走をしたみたいだった。布団から起き上がると、とりあえず額の汗を拭った。手の甲でこすっただけなのに、ぺちっと音を立てて汗のしずくが畳に飛んだ。敷布団を振り向くと、ぐっしょりと背中の形に水分を含んでいるようだった。

 枕元のスマホが点滅している。
 それを見るよりも、今はとにかく、この気持ち悪く体に貼りつく衣類をなんとかしたかった。カーテンがかかっているのを良いことに、下着まで脱ぎ捨てた。重たく水分を含んだ衣類は、どすんと音を立てる勢いで転がった。そのまま風呂場に行き、シャワーを強く浴びた。
 ざあああああああ。
 髪の毛を洗う。人工の香りをかいでいるうちに気持ちが現実に戻ってきた。目を閉じて熱い湯を浴びながら、未だはずんでいる呼吸を整えた。

 こんな夢を見るなんて。
 (十分わかっている。わたしが人殺しだって)
 お墓のなかにまで持ってゆく秘密だろう。自分は殺人鬼だ。ああそうだ。
 怜は無意識に下腹を探る。空虚な子宮。かつて子供を宿した。洋平との子供。あの子が生まれていたら、人生は変わっていたかもしれない。だけど生まれなかった。そして今に至る。怜は孤独で、誰とも添い遂げることができない運命にある。それでよいのだと、怜は思う。なぜなら、怜は殺人鬼であり、そんな女を母親に持って、子供が幸せになれるわけがないのだ。夫が幸せになれるわけがないのだ。
 (だからいっそ、わたしがいなくなれば)

 こんな子供じみたことを考え、自分を追い詰めるにしては、怜は年を取り過ぎていた。そして冷静過ぎた。
 だけどやはり、心の奥底の考え方は頑固に変わらなかった。自分は母になるべきではなく、自分は殺人鬼であり、六年生の頃に「嫌われ組」に無理やり入れられた四人の中で、実は一番、言われている出鱈目の言いがかりに近かったのは、自分であるということを、毎日、お経のように心の中で唱えていた。それは現実からかけられた呪詛だった。

 トモダチだったのに。

 怜は目をきつく閉じる。
 シャワーの温度が生暖かくなったようだ。おまけに鉄臭くなった気がする。古いものだから、こんな不具合は珍しくはない。
 ああ、血を浴びているみたい。

 怜は自供したかった。ずっと自供したかった。親に、警察に、学校に。けれど、できなかった。
 なぜなら、どうしても思い出せなかったから。
 自分が階段から衝動的に突き落とした女の子が誰だったのか、名前だけではなく、どこに住んでいたのかとか、容姿に至るまで、思い出せなかったから。こんなことがあるはずがなかった。けれど、現実にそれは起きていた。教室には空き机がなかった。下駄箱には空いた場所がなかった。どこにも彼女の居場所はなかった。まるで最初から存在していなかったかのように、綺麗に彼女の痕跡だけが消えていた。

 ・・・・・・ちゃん。

 名前を呼びたくても、呼べない。親友だったのに。大事な人だったのに。生きていたら、きっと、未だに連絡を取り合っていただろうに。それくらい、気が合った。
 もう、出会えないだろうな、あんなに大事なトモダチとは。

 「アンタのトモダチは、わたしといるの」

 不意に、声が聞こえる。耳元で囁くような、唾液の音が聞こえるような、近い位置で「それ」は喋った。足を浮かせているのだろうか、背丈が足りないはずだ、と、妙に淡々と怜は思う。シャワーの金気臭さは増してきている。目を開いてはいけない、と、本能的に怜は思った。

 「わたしがもらっちゃったの。どう、妬ける」
 
 いたずらを楽しむような声音だ。ああ、わかった。「それ」は、気を引こうとしている。自分の方を見てもらえないものだから、悪いことをしている。
 仲間に入れてあげたじゃない、と、怜は無心に思う。じわり、と、大昔の風景が脳裏によみがえる。
 学校の近くのお宮さんで、「嫌われ組」が集まった。仲間だよね、トモダチだよねと言い合い、この指とまれをした。その中に、「それ」も混じっていた。

 「トモダチ欲しいの」
 「さみしいんだって」
 「じゃ、いいじゃん」

 「いれてあげようよ。だって、ウチらだってトモダチ欲しいじゃん」

 にい。
 三日月形に笑った唇。古風なおかっぱの髪の毛。
 そして「それ」は、指にとまった。ぞくぞくと粟がたつように感じたのは、怜だけだったのだろうか。

 「返してよ。トモダチを返してよ」
 怜は呟いた。そして目を開いてしまった。きゃあっ。悲鳴がほとばしった。
 ねっとりした艶のある血が上から降り注いでおり、怜の顔や体を赤く染めあげていた。ああ、だからこんなに生ぬるく金気臭かった。シャワーからはお湯はでない。かわりに血が出るのだ。殺人鬼にはふさわしいのだ、それが。

 もちろん、シャワーからはお湯が出ていた。金気臭いのは、少しだけ錆びが混じったからだ。すぐに怜は、自分の思い込みからくる幻覚に気づいた。あっという間に現実は現実らしく体裁を整えた。怜はシャワーを止めた。

 ぶるぶると、スマホが鳴り続けているのが聞こえる。
 そういえば着信があったようだ。何だろう。胸がざわついた。この時、時報がなった。上梨の、朝の六時の時報だ。
 六時。早朝だというのに。

 怜はタオルで手早く体を拭き始めた。とても、良くないことが起きている気がした。
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