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メルセデスを駆る女は、上梨町に一人しかいないだろう。約束の時間を十分過ぎていたが、ひなびた田舎の夜の道を急ぐことなく走り、その昔からある中華料理店の狭い駐車場に到着する。車道をそれ、コンクリで少し高くなった歩道を乗り越えて敷地に入るが、電信柱がひどく邪魔だった。もう暗くなりはじめた上梨の町は、あちこちに灯りがともっている。ドロップスのように安っぽくカラフルな色味が、田舎の夜を飾る。これはこれで心和むものだと、香織は思う。だが、この中華料理店は駄目だ、これほど使いにくい駐車場があるだろうか。こんな狭い間口では、軽四か田んぼトラックくらいしか迎え入れることができまいーーいや、実際、この上梨では、そんな客しかいないのだろう、だからこんななのだーー狭い駐車スペースは四台停まれば満車だ。すでに三台停まっているので、香織のメルセデスで満車となる。奥から行儀よく三台の車が停まっており、それは恐らく、今夜集う小学六年時代の仲間たちのものだろう。
(安い車ばかりだ)
非常に停めにくい思いをしながら、香織は三台の車を眺めた。白い車体は黄砂で汚れており、春先から洗車していないことが伺える。ベージュ色の軽四は、扉に大きな傷をこしらえていた。どこかに擦ったのだとしたら、運転が異様に下手なのか、狭いぎゅうづめの駐車場に無理やり駐車させられるような、酷い職場に勤務しているのかどちらかだ。もう一台はとても古い型の車で、車体がひどく沈んでいる。メンテナンスを怠っているのだ、と、憐れむような思いで香織は判断を下した。香織はその、車体が沈んだ車の横に自分のメルセデスを尻から押し込もうとしている。運転席についているテレビで、バックの際は車の後部の映像が分かるようになっていた。まだいける、まだいける、と車を後退させていたら、嫌な手ごたえと音がした。香織は一瞬眉をひそめるーー大げさに騒いだりはしない、傷自体は明日、板金屋に言えばすぐに直るだろう。その板金屋は山越家の依頼を誰よりも優先してくれるのだからーー例の邪魔で仕方がない電柱にこすったらしい。酷い駐車場だ、こんな料理店を選ぶなんて、と、香織は内心、燃え立つように思った。
愛華。所沢愛華。心の中で名前を連呼する。メールを寄越した本人だ。あれから三十年ですね、知っていますか、上梨にみんないるんですよ、全員、ずっと前から揃っているんですよーーわざわざそんなことを知らせてきて、一体なにがしたかったんだろう、あの女は。呼びつけて同窓会気取り。なにより、その同窓会気取りにのこのこ顔を出してしまう自分に苛立っている。無視しようと思ったらできないことはなかった。山越香織に近づいてくる者ならたくさんいる。誰もが下心を抱き、ゴマをすりながら近づいてくる。有閑主婦どものサロンと化している香織の台所を訪れる女どもはみんなそうだーー奥さん、最近またお綺麗になられたんじゃなくって、腕の良いエステシャンがいるんですってね、お得意様と伺いましたわ、うちの主人も、もう少し頑張ってくれたらわたしも奮発できるんですけれどもーー女どもは自分の亭主の出世を望んでいる。香織にゴマをすれば、香織の夫に伝わると知っているのだ。香織は夫に愛されている。というより、夫を牛耳っている。香織の夫に取り入るならば、まずは香織の気に入られる必要がある。香織は女王様だ。
その、女王を、こんなところに呼びつける。なんら意味の分からない同窓会気取りのために。
ハンドバッグを手繰り寄せ、ゆったりとしたサマードレスの短い裾に置く。ごくシンプルで部屋着のような姿だが、香織のまとうものは全て質の良いものだ。香織は自分の持物を愛している。車も衣類も化粧用具も家屋も家も旦那もーー自分の思い通りになるものこそ香織の正義である。そして、その考え方は、子供時代から全く変わっていない。おまけに香織は、自分のそういう性質を傲慢だなどと、これっぽっちも気づいていないのだった。
メルセデスの右側の尻に擦り傷ができている。香織はちらりとそれを認める。
中華料理店からは脂っこい匂いが漂っており、のれんの奥のすりガラスの引き戸はほんのりオレンジ色の照明に染まっていた。香織はゆったりと歩き、ちょっとべたべたする引き戸を開いた。むわっと濃厚な料理の香りが鼻をつき、賑やかで下品な音楽が流れた。いらっしゃいませ、と、黄色いポロシャツと黒いサロンエプロン姿のアルバイトの女の子が笑顔で迎えた。所沢様でしょうか、と、予約客の名前を言うので、鷹揚に香織はうなずいた。
愛華、偉くなったものだ、このわたしを呼びつけるなんて。なるほど、あの子はかつて、自分の右腕のように動いてくれた。自分の気に入るように動いてくれた。だけど、香織はこの女が好きではなかった。小学六年時代から好きではなかった。自分をちやほやと祭り立ててくれている頃から、好きではなかった。ある時点から、大嫌いになった。なぜなら、ある時点から、この女は性質ががらりと変わったかのように「善人」を気取り始めたからだ。
テーブルが並んでいる。客はいなかった。奥の席で、わいわいと和やかにしている一団がある。それが、上梨小学六年の仲間たちだった。つまり、今夜、この店の客は、香織たちだけというらしかった。
歩きながら香織は思い出していた。嫌な記憶だった。どうしてそうなったのか本当に理解が追い付かなかった。ある時点から、すべてが狂った。思い通りだった楽しい小学六年が、いきなり、もどかしく苛立つ暗黒の時間に転じた。仲間たちが善人を気取りだし、唐突に香織は置き去りにされた。
思い出す。
教室の休み時間、自分の所にやってこない愛華。机にかじりつき、なにかを熱心に読んでいる。何読んでるのよ、と、香織が近づくと、愛華は上目でこちらを見ながら、おずおずと本の表紙を見せたーーはじめての手話ーーなにこれ、あんたこんなの読んでどうするの。単に好奇心で聞いたのだが、返ってきた反応はぎょっとするほど激しく強かった。
「うちの学年に、生まれつき耳が聞こえにくくて手話か筆談でしか話せない子がいるでしょう。友達になりたくて」
友達になりたくて。
トモダチ。
香織はぞうっとして愛華から離れた。得体のしれないものに触れてしまい、指が汚れたような気分になった。
特別学級の児童のことを、愛華は言っている。今までなんら関りのなかった彼らと、どんな接点ができたというのだろう。愛華はなにも語らなかった。香織もまた、問いたださなかった。なんとなく二人は疎遠になっていった。
トモダチ。トモダチ。
(なによその、トモダチって)
愛華だけではない。真鍋健太も、瀬川大翔も、いきなり変わった。そして、今までのように、「嫌われ組」を制裁することがなくなった。やがて卒業式が来る頃、学級には、「嫌われ組」なんかもとから存在しなかったかのような、異次元のような空気が流れていた。もちろん、香織の周囲には常に取り巻きがいたが、それは今まで徒党を組んでいた愛華たちとは違い、ただおっとりとした、上品なお嬢さんたちだった。親同士の繋がりで、香織と仲良くするようしつけられた人形ばかりだった。そんな人形共が、香織の思いを汲むわけがなかった。
いつからだ?
そう、夏休みだ。夏休み、香織が軽井沢の別荘に行っていた間に、上梨でなにかが起きた。そして、香織が戻ってきた頃には何もかもがおかしな具合に変わっていた。
「嫌われ組」は、学校の迷惑者で、いなくなったほうが良い、反省させた方が良い奴らに間違いはない。「嫌われ組」が、嫌われないように性質を改善したわけでもなく、奴らはなんら変わらないままだった。変わってしまったのは、愛華や健太、大翔のほうだった。香織は理解ができないまま、彼らとやんわり距離を置いた。一体何が起きたのか、どういう考えの変化かと問い詰めるようなことは、香織のプライドが許さなかった。離れてゆくものは追わない、好きにするがいい、今に痛い目を見るのだから。
ただ、今回、愛華の企画したこの同窓会まがいに顔を出すことにしたのは、三十年前に抱いたモヤモヤを断ち切りたかったからかもしれなかった。香織自身、どうしてこんなものに引きずり出されたのか自分で自分が分からなかったーーね、トモダチ、トモダチだよね、ふふ、あははは、はーー一人が気づいて片手をあげ、笑顔を見せる。良い体格のおじさんだ。よく見れば面影が残っており、それが真鍋健太であることを香織は認めた。作業服のような半袖の社服を纏っており、町工場のようなところに勤めているのかもしれなかった。
(製薬関係ではないなら、町の外に勤めに行っているのかもしれない)
素早く香織は見抜く。だとしたら、香織の夫とは関りはなさそうだった。つまり、真鍋健太は香織の権力圏外にいる。
にょきっと立ち上がり、「こっちこっち」と言ったのは、瀬川大翔だ。こちらはスマートで、昔のままのように見えた。爽やかな白とブルーのポロを着ており、年齢を感じさせないスタイルを保っている。その姿だけでは職種までは分からない。だけど、製薬関係ではなさそうだと香織は思った。
次に立ち上がり、振り向いた女こそが、所沢愛華であろう。これこそ見る影もなかった。ふくよかになり、髪の毛はパーマをかけられていたが、まとまりがなかった。暗い照明の下でも白髪交じりであることが分かる。化粧をしているが、返って年寄り臭くなっている。服装は安い量販店で見繕ったもので、なるべく今風のこじゃれたようにしようと頑張った気配が見られた。つまり、まるで問題にならなかった。
「ごめんなさい、先に始めてしまっていたわ」
と、愛華は言った。それは、目上の者に対する態度ではなかった。気さくな友人にでも話すように、愛華は微笑んでいる。懐かしそうだった。
「香織さん綺麗ねえ、流石だわ。噂はかねがね聞いてます。わたしね、香織さんのご主人の会社の下請けのところにいるのよ」
そう良い、愛華はまた、懐かしそうに笑ったのだった。
こっちこっち、ほら、乾杯しなおさなくちゃ。
これで四人そろったな。
男二人は穏やかに笑っている。田中さん、じゃなかった、山越さんだったよね、山越さん、ビールでいい?
香織は頷きながら席に着いた。香織の席は、愛華の隣だった。生活臭がつうんと鼻に着く。質の悪い洗濯洗剤を使っているのに違いない。見ると、愛華のサマージャケットは裾がほつれていた。安いものを何度も洗濯して繰り返し着ているのだろう。
「わたしたち、ずっと同じ町にいたのよね、信じられる」
香織の肩を抱かんばかりにして、愛華は言った。嬉しそうだ。二重三重にくびれた顎、はみだしたルージュ。おばさん。オ、バ、サ、ンーー何言ってんだい、アンタも同じトシだろう、ね、オバハンーー奇妙な声を聴いたような気がしたが、すぐに香織は我に返った。どうでも良い下らない幻聴など、気の迷いに過ぎなかった。気の迷いが生じてもおかしくない状況なのだ、今は。香織はさりげなく、ハンドバッグを愛華と自分の間に置いた。
すぐにアルバイトが生ビールのジョッキを持ってくる。
「代行で帰るから大丈夫。ちゃんと呼びますよー」
と、愛華が幹事気取りで言った。
「今日ぐらいは飲もうや」
健太は既に赤い顔をしている。てらてらの肌は、どう見ても中年おやじだった。
「あっ、山越さん、何も聞かずにビール注文しちゃったけど、飲んで大丈夫。車だよね」
優男の大翔が気を使い始める。これは女受けが良いだろう。
「いいわ、代行を呼ぶから」
静かに香織は答えた。声に冷たい響きが混じった。一瞬、三人の仲間は沈黙した。
流行りの曲がやかましく流れている。
テーブルには唐揚げや春巻き、麻婆豆腐などが並んでおり、それぞれ取り皿があった。香織以外の三人は、もう飲み食いを始めていた。汚くよごれた皿がテーブルにところせましと散らかっている。とても食べる気になれない、と、香織は思った。
「食べてよ、旨いよ」
とりなすように大翔が言った。
「これ、美味しかったわ」
愛華がさっと動き、主婦らしい手つきで麻婆豆腐を香織の皿によそった。
健太が割りばしを香織に渡そうとした。
「わたし長居しないわ。ごめんなさい、用事があるのよ」
香織はやわらかく言った。品よく、そつなく、けれども絶対的な距離をとりながら。優しく和やかな笑みを浮かべながら、ぴしりとはねつけるような透明な壁を、香織は作った。
「食べたり飲んだりするより、小学校時代のこと、話さない。せっかく集まったんじゃないの」
香織は言った。ちらっと、横に座る愛華を眺めると、脂肪に押しつぶされた細い目が、ぎくりとひるんだように見えた。
「あんなに、仲良かったじゃなあい、ねえ・・・・・・」
香織は組んだ腕をテーブルに乗せた。微笑みながら三人を見回した。所沢愛華。真鍋健太。瀬川大翔。ただでは帰るものか、このわたしを呼びつけたのだから、それなりの代償は払ってもらおう。どうあっても、聞き出すつもりで、香織はいた。
すなわち、あの小学六年の夏、自分が別荘に行っていた間、上梨で何が起きたのか。どうしていきなり、彼らが変わってしまったのかを。
**
(安い車ばかりだ)
非常に停めにくい思いをしながら、香織は三台の車を眺めた。白い車体は黄砂で汚れており、春先から洗車していないことが伺える。ベージュ色の軽四は、扉に大きな傷をこしらえていた。どこかに擦ったのだとしたら、運転が異様に下手なのか、狭いぎゅうづめの駐車場に無理やり駐車させられるような、酷い職場に勤務しているのかどちらかだ。もう一台はとても古い型の車で、車体がひどく沈んでいる。メンテナンスを怠っているのだ、と、憐れむような思いで香織は判断を下した。香織はその、車体が沈んだ車の横に自分のメルセデスを尻から押し込もうとしている。運転席についているテレビで、バックの際は車の後部の映像が分かるようになっていた。まだいける、まだいける、と車を後退させていたら、嫌な手ごたえと音がした。香織は一瞬眉をひそめるーー大げさに騒いだりはしない、傷自体は明日、板金屋に言えばすぐに直るだろう。その板金屋は山越家の依頼を誰よりも優先してくれるのだからーー例の邪魔で仕方がない電柱にこすったらしい。酷い駐車場だ、こんな料理店を選ぶなんて、と、香織は内心、燃え立つように思った。
愛華。所沢愛華。心の中で名前を連呼する。メールを寄越した本人だ。あれから三十年ですね、知っていますか、上梨にみんないるんですよ、全員、ずっと前から揃っているんですよーーわざわざそんなことを知らせてきて、一体なにがしたかったんだろう、あの女は。呼びつけて同窓会気取り。なにより、その同窓会気取りにのこのこ顔を出してしまう自分に苛立っている。無視しようと思ったらできないことはなかった。山越香織に近づいてくる者ならたくさんいる。誰もが下心を抱き、ゴマをすりながら近づいてくる。有閑主婦どものサロンと化している香織の台所を訪れる女どもはみんなそうだーー奥さん、最近またお綺麗になられたんじゃなくって、腕の良いエステシャンがいるんですってね、お得意様と伺いましたわ、うちの主人も、もう少し頑張ってくれたらわたしも奮発できるんですけれどもーー女どもは自分の亭主の出世を望んでいる。香織にゴマをすれば、香織の夫に伝わると知っているのだ。香織は夫に愛されている。というより、夫を牛耳っている。香織の夫に取り入るならば、まずは香織の気に入られる必要がある。香織は女王様だ。
その、女王を、こんなところに呼びつける。なんら意味の分からない同窓会気取りのために。
ハンドバッグを手繰り寄せ、ゆったりとしたサマードレスの短い裾に置く。ごくシンプルで部屋着のような姿だが、香織のまとうものは全て質の良いものだ。香織は自分の持物を愛している。車も衣類も化粧用具も家屋も家も旦那もーー自分の思い通りになるものこそ香織の正義である。そして、その考え方は、子供時代から全く変わっていない。おまけに香織は、自分のそういう性質を傲慢だなどと、これっぽっちも気づいていないのだった。
メルセデスの右側の尻に擦り傷ができている。香織はちらりとそれを認める。
中華料理店からは脂っこい匂いが漂っており、のれんの奥のすりガラスの引き戸はほんのりオレンジ色の照明に染まっていた。香織はゆったりと歩き、ちょっとべたべたする引き戸を開いた。むわっと濃厚な料理の香りが鼻をつき、賑やかで下品な音楽が流れた。いらっしゃいませ、と、黄色いポロシャツと黒いサロンエプロン姿のアルバイトの女の子が笑顔で迎えた。所沢様でしょうか、と、予約客の名前を言うので、鷹揚に香織はうなずいた。
愛華、偉くなったものだ、このわたしを呼びつけるなんて。なるほど、あの子はかつて、自分の右腕のように動いてくれた。自分の気に入るように動いてくれた。だけど、香織はこの女が好きではなかった。小学六年時代から好きではなかった。自分をちやほやと祭り立ててくれている頃から、好きではなかった。ある時点から、大嫌いになった。なぜなら、ある時点から、この女は性質ががらりと変わったかのように「善人」を気取り始めたからだ。
テーブルが並んでいる。客はいなかった。奥の席で、わいわいと和やかにしている一団がある。それが、上梨小学六年の仲間たちだった。つまり、今夜、この店の客は、香織たちだけというらしかった。
歩きながら香織は思い出していた。嫌な記憶だった。どうしてそうなったのか本当に理解が追い付かなかった。ある時点から、すべてが狂った。思い通りだった楽しい小学六年が、いきなり、もどかしく苛立つ暗黒の時間に転じた。仲間たちが善人を気取りだし、唐突に香織は置き去りにされた。
思い出す。
教室の休み時間、自分の所にやってこない愛華。机にかじりつき、なにかを熱心に読んでいる。何読んでるのよ、と、香織が近づくと、愛華は上目でこちらを見ながら、おずおずと本の表紙を見せたーーはじめての手話ーーなにこれ、あんたこんなの読んでどうするの。単に好奇心で聞いたのだが、返ってきた反応はぎょっとするほど激しく強かった。
「うちの学年に、生まれつき耳が聞こえにくくて手話か筆談でしか話せない子がいるでしょう。友達になりたくて」
友達になりたくて。
トモダチ。
香織はぞうっとして愛華から離れた。得体のしれないものに触れてしまい、指が汚れたような気分になった。
特別学級の児童のことを、愛華は言っている。今までなんら関りのなかった彼らと、どんな接点ができたというのだろう。愛華はなにも語らなかった。香織もまた、問いたださなかった。なんとなく二人は疎遠になっていった。
トモダチ。トモダチ。
(なによその、トモダチって)
愛華だけではない。真鍋健太も、瀬川大翔も、いきなり変わった。そして、今までのように、「嫌われ組」を制裁することがなくなった。やがて卒業式が来る頃、学級には、「嫌われ組」なんかもとから存在しなかったかのような、異次元のような空気が流れていた。もちろん、香織の周囲には常に取り巻きがいたが、それは今まで徒党を組んでいた愛華たちとは違い、ただおっとりとした、上品なお嬢さんたちだった。親同士の繋がりで、香織と仲良くするようしつけられた人形ばかりだった。そんな人形共が、香織の思いを汲むわけがなかった。
いつからだ?
そう、夏休みだ。夏休み、香織が軽井沢の別荘に行っていた間に、上梨でなにかが起きた。そして、香織が戻ってきた頃には何もかもがおかしな具合に変わっていた。
「嫌われ組」は、学校の迷惑者で、いなくなったほうが良い、反省させた方が良い奴らに間違いはない。「嫌われ組」が、嫌われないように性質を改善したわけでもなく、奴らはなんら変わらないままだった。変わってしまったのは、愛華や健太、大翔のほうだった。香織は理解ができないまま、彼らとやんわり距離を置いた。一体何が起きたのか、どういう考えの変化かと問い詰めるようなことは、香織のプライドが許さなかった。離れてゆくものは追わない、好きにするがいい、今に痛い目を見るのだから。
ただ、今回、愛華の企画したこの同窓会まがいに顔を出すことにしたのは、三十年前に抱いたモヤモヤを断ち切りたかったからかもしれなかった。香織自身、どうしてこんなものに引きずり出されたのか自分で自分が分からなかったーーね、トモダチ、トモダチだよね、ふふ、あははは、はーー一人が気づいて片手をあげ、笑顔を見せる。良い体格のおじさんだ。よく見れば面影が残っており、それが真鍋健太であることを香織は認めた。作業服のような半袖の社服を纏っており、町工場のようなところに勤めているのかもしれなかった。
(製薬関係ではないなら、町の外に勤めに行っているのかもしれない)
素早く香織は見抜く。だとしたら、香織の夫とは関りはなさそうだった。つまり、真鍋健太は香織の権力圏外にいる。
にょきっと立ち上がり、「こっちこっち」と言ったのは、瀬川大翔だ。こちらはスマートで、昔のままのように見えた。爽やかな白とブルーのポロを着ており、年齢を感じさせないスタイルを保っている。その姿だけでは職種までは分からない。だけど、製薬関係ではなさそうだと香織は思った。
次に立ち上がり、振り向いた女こそが、所沢愛華であろう。これこそ見る影もなかった。ふくよかになり、髪の毛はパーマをかけられていたが、まとまりがなかった。暗い照明の下でも白髪交じりであることが分かる。化粧をしているが、返って年寄り臭くなっている。服装は安い量販店で見繕ったもので、なるべく今風のこじゃれたようにしようと頑張った気配が見られた。つまり、まるで問題にならなかった。
「ごめんなさい、先に始めてしまっていたわ」
と、愛華は言った。それは、目上の者に対する態度ではなかった。気さくな友人にでも話すように、愛華は微笑んでいる。懐かしそうだった。
「香織さん綺麗ねえ、流石だわ。噂はかねがね聞いてます。わたしね、香織さんのご主人の会社の下請けのところにいるのよ」
そう良い、愛華はまた、懐かしそうに笑ったのだった。
こっちこっち、ほら、乾杯しなおさなくちゃ。
これで四人そろったな。
男二人は穏やかに笑っている。田中さん、じゃなかった、山越さんだったよね、山越さん、ビールでいい?
香織は頷きながら席に着いた。香織の席は、愛華の隣だった。生活臭がつうんと鼻に着く。質の悪い洗濯洗剤を使っているのに違いない。見ると、愛華のサマージャケットは裾がほつれていた。安いものを何度も洗濯して繰り返し着ているのだろう。
「わたしたち、ずっと同じ町にいたのよね、信じられる」
香織の肩を抱かんばかりにして、愛華は言った。嬉しそうだ。二重三重にくびれた顎、はみだしたルージュ。おばさん。オ、バ、サ、ンーー何言ってんだい、アンタも同じトシだろう、ね、オバハンーー奇妙な声を聴いたような気がしたが、すぐに香織は我に返った。どうでも良い下らない幻聴など、気の迷いに過ぎなかった。気の迷いが生じてもおかしくない状況なのだ、今は。香織はさりげなく、ハンドバッグを愛華と自分の間に置いた。
すぐにアルバイトが生ビールのジョッキを持ってくる。
「代行で帰るから大丈夫。ちゃんと呼びますよー」
と、愛華が幹事気取りで言った。
「今日ぐらいは飲もうや」
健太は既に赤い顔をしている。てらてらの肌は、どう見ても中年おやじだった。
「あっ、山越さん、何も聞かずにビール注文しちゃったけど、飲んで大丈夫。車だよね」
優男の大翔が気を使い始める。これは女受けが良いだろう。
「いいわ、代行を呼ぶから」
静かに香織は答えた。声に冷たい響きが混じった。一瞬、三人の仲間は沈黙した。
流行りの曲がやかましく流れている。
テーブルには唐揚げや春巻き、麻婆豆腐などが並んでおり、それぞれ取り皿があった。香織以外の三人は、もう飲み食いを始めていた。汚くよごれた皿がテーブルにところせましと散らかっている。とても食べる気になれない、と、香織は思った。
「食べてよ、旨いよ」
とりなすように大翔が言った。
「これ、美味しかったわ」
愛華がさっと動き、主婦らしい手つきで麻婆豆腐を香織の皿によそった。
健太が割りばしを香織に渡そうとした。
「わたし長居しないわ。ごめんなさい、用事があるのよ」
香織はやわらかく言った。品よく、そつなく、けれども絶対的な距離をとりながら。優しく和やかな笑みを浮かべながら、ぴしりとはねつけるような透明な壁を、香織は作った。
「食べたり飲んだりするより、小学校時代のこと、話さない。せっかく集まったんじゃないの」
香織は言った。ちらっと、横に座る愛華を眺めると、脂肪に押しつぶされた細い目が、ぎくりとひるんだように見えた。
「あんなに、仲良かったじゃなあい、ねえ・・・・・・」
香織は組んだ腕をテーブルに乗せた。微笑みながら三人を見回した。所沢愛華。真鍋健太。瀬川大翔。ただでは帰るものか、このわたしを呼びつけたのだから、それなりの代償は払ってもらおう。どうあっても、聞き出すつもりで、香織はいた。
すなわち、あの小学六年の夏、自分が別荘に行っていた間、上梨で何が起きたのか。どうしていきなり、彼らが変わってしまったのかを。
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