ひとりたりない

井川林檎

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 その古い車には、もちろん最新のオーディオ機材など入っているはずはなかったが、辛うじてラジオとCDプレイヤーはあった。怜は流行りのアーティストや芸能には疎かったが、音楽は嫌いではない。神奈川から持参した荷物の中にも、ほんの数枚ではあったがCDが入っていた。怜の趣味は同世代の女性とは、少々かけ離れている。60年代のものだったり、サイケデリックな洋楽だったりする。
 (洋平は黙って聴いていた)
 カーブの度にキリキリと小さく軋む車を運転しながら、怜は僅かに思い出す。うまくいかなくなった夫。マンションに戻らなくなった夫。そして今、怜は洋平に何も告げずに上梨に戻っている。この状態が数か月続けば、洋平の方から離婚を言い出されても承諾するほかはないし、もしかしたら怜のほうから離婚届に名前を書き込むかもしれない。こんなふうになってしまったのは、ずいぶん前にきっかけがあった。
 一度、妊娠したが、誕生できなかった子供。あの時の洋平の表情を、怜は忘れることができなかった。自分自身の悲しみよりも、洋平の顔に浮かんだ絶望や諦めや、それと同時に確かに見えた、どこか冷めたような表情が、怜を傷つけた。洋平の表情が全てを物語っていたと怜は思う。その後、義実家の方からかたちだけの慰めと、時折漏れ聞こえる本心ーーご親戚に、体の都合がどこかお悪い人はいないの。次は検査して慎重にねーーが寄せられ、それもまた怜を苦しめたけれど、洋平の表情にはっきり表れた、あの冷めた感情に比べれば、軽いものだった。
 流産が最初の原因なのか。
 否。多分、もともと合わなかった。怜自身、洋平に心を開き切っていなかったのかもしれない。

 (その理由はわたしの中にある。その理由はわたしの中にある)

 「この歌いいね」
 はっとした。今、助手席には姪のみいなが座り、車窓から外を眺めている。オーディオからは、今は亡き昔の歌手が切なく歌う戦慄が流れていた。
 「そう」
 と、怜は答えた。その曲は、みいなのような女の子は聞いたことすらないはずだった。ラジオのリクエストで流れたり、歌番組で他の歌い手がカバーしたものが登場することはあるかもしれないけれど。

 みいなを町の図書館に連れてゆくところだった。夏休みの自由研究の題材を、「上梨のこわい話」に決めたのだ。
 怜も、その伝説について詳しいわけではない。いつどこで聞きかじったか自分でも覚えていないが、上梨には都市伝説のような噂がある。三十年ごとに子供が攫われるだの惨殺されるだのというものだ。もちろん、ただそれだけの話なら、自由研究にはならない。怜が考えたのは、三十年に一度というスパンはともかく、そういう変な事件が起きた時点の上梨がどんな状況にあったのか調べたらどうかということだ。恐らく、飢饉や戦火や災害など、色々なマイナス要素が働き、子供を間引きせざるをえない状況だったのではないか。そんな仮説のもとで、歴史を調べていけば面白いものになるのではないかと、怜は提案した。
 「へえー」
 みいなは案外楽しそうだった。みいなは小さい頃から怪談や、テレビの怖い番組が好きだった。きらきら目を輝かせ、本当に上梨にそんな伝説があるのかと聞いてきた。

 「聞いたことがあるってだけだよ。まずは、その伝説が本当にあるのか調べてから、このテーマにするかどうか決めたほうがいいね」
 怜は言った。
 それで、みいなを連れて町立図書館に行くことになった。図書館には郷土資料館が併設されているはずだ。そこでなら、上梨のいろいろなことが分かるだろう。

 車内に流れる古い歌謡曲は、もう戻らない学校時代のことを懐かしむ内容だった。いかに少女時代が素晴らしかったか、今でもその頃の仲間を思っている、という内容だった。怜はぼんやり聴き流しながら、なんでこんなタイミングにこんな曲が流れるんだろうなと少し面白く思った。
 
 「あっ」
 みいなが小さい声を出し、体を縮めた。歩道に女の子が三人、自転車をこいでいるのが見える。女の子らも、ちらっとこちらを見たようだ。みいなの体が硬くなったようだった。
 「知ってる子」
 と、怜は察しながら一応聞いた。叔母には何でも喋るみいなは、小さくうんと言った。
 「クラスの子。わたしのこと色々言ってると思うから、会いたくない」
 色とりどりの、軽やかな夏の服を纏った女の子らは、ぐんぐん力強く自転車をこいでゆき、もう遠くに行ってしまった。怜はほろ苦い思いで姪の横顔に視線を走らせた。
 同級生に出くわすのが嫌で、外に出たくない気持ちは、怜にはよく分かるのだった。

 「図書館にいたらどうしよう」
 本当に不安そうにみいなは言った。
 「閲覧コーナーにはいるかもしれないね」
 さらりと怜は言った。けれど、郷土資料館に小学六年生がいるとは思えない。だから大丈夫だよ、と付け加えたら、みいなは少し安堵したようだった。

 やがて車は古いコンクリの図書館に到着した。専用の駐車スペースは狭かったが、停まっている車は怜のものを覗けば二台しかない。夏休みとは言え、図書館は閑散としている。自転車置き場には中学生のものらしい自転車が二台あった。もう一台、小さな籠がついた大人用の、あまり洒落ていない自転車が斜めに停めてある。
 誰もいなさそうだね、とみいなは言った。

 郷土資料館は二階にある。エレベーターに入った時、怜はちりっと脳の深いところを刺激されるように思った。ごくわずかに残っている匂いが、怜の五感を刺激したらしい。
 その匂いは、衣類用洗剤と体臭と、その他いろいろな日常生活のものがまじりあったもので、別に臭いというわけでもないのだが、妙に印象的だった。どこかで嗅いだことがある、と、怜は思った。そして、ざわざわと胸の奥が騒いだ。
 (行かないほうが良い)
 怜は直感した。できれば郷土資料館に行かずに、エレベーターから降りずに一階にまた戻り、そのまま車に乗って、町のパン屋にでも寄り、夏休みのテーマは町のパン屋の食パンの食べ比べにでもしようか、と言い出せたらと強く思った。しかし隣ではみいながワクワクした顔をしており、ちいんと音を立ててエレベーターは二階に到着した。すうっと扉は開き、ポップコーンがはじけるような勢いで、みいなは通路に飛び出した。
 
 しいんとしたフロア。やはり郷土資料館を利用する人はそうそういないのだろう。ガラス戸の向こうに、司書が一人いるだけだろう。ふと思った。こんな静かで孤独な場所で、一日を一人きりで過ごす仕事がうらやましい、と。

 郷土資料館に入る瞬間、怜はまた、あの匂いを強烈に感じた。
 柔軟剤。安いものだ。おそらく海外製の、大容量で売られている類の。昔からある銘柄だ。そう、昔から。
 小学校時代から、その銘柄はあった。

 みいなは郷土資料館に先に乗り込んでゆき、誰もいないね、と呟いた。怜はそのあとから入ってゆき、太った陰気な顔の初老の図書館司書がテーブルでうつむいているのを見た。更に怜は周囲を眺めーー息を飲んだ。ああ、やはりだ、彼は今もこの柔軟剤をーーひょろりと長い体を不安定に揺らすように本棚の間を歩いている男性を認めた。

 大友君。
 心で呟いたのが聞こえたかのように、その人は立ち止まり、こちらを振り向いた。大友優の、やさしく、弱く、暗いまなざしが、怜を突き刺した。
 
 ね。トモダチだよね・・・・・・。

 その時、怜は、三日月形に唇を笑みくずれさせた「あいつ」が、嬉しそうに手招きするのを見たような気がした。
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