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上梨小学校の児童の失踪事件は全国ニュースになっている。
にもかかわらず、真鍋健太がそのことを知ったのは、事件が起きてから一週間くらいたった朝のことだ。
(このところ、仕事が難航していたから)
残業続きで、ほぼ毎日午前帰りだった。最後の日は、金型の試運転のために会社に泊まり込みをした。その仕事は、もとは真鍋の仕事ではなかった。一か月前に入社してきた中途採用の新人のものだった。
「これくらいの金型なら、彼に任せてもいいんじゃないの」
と、主任は軽く考えていた。経験者だというし、まあ大丈夫だろうと、真鍋も思った。新人の実力をかいかぶりすぎていたことが判明したのは、仕事の期限の十日前のことだ。先方から問い合わせがあり、どうなっているのかと確認したところ、その中途採用の新人は黙りこくり、トイレにたった。そのままデスクには戻らなかった。おかしいなと思い、同僚がトイレに見に行ったら、とうの昔にいなくなっており、念のためロッカーを見てみると、荷物がごっそり消えていた。
「逃げやがった」
設計チームは全員で頭を抱えた。一人、どろどろと濃厚な怒りを放ち、逃亡者に対する悪口雑言をぶつぶつ言いまわった者がいた。だいたい、全員がそいつに同感だったが、実力不足の者に仕事を投げつけてフォローしなかった自分たちも悪いことが分かっていた。そのため、言いたいことをぐっとこらえ、今はとにかく何とかして仕事を進め、納品に間に合わせないと、という方向に意見がまとまった。悪口雑言を放つ一人は、チームの中心的な存在で、ムードメーカー的な役割を持っていたため、この一週間、設計チームの皆の心は揺さぶられっぱなしだった。
「あんな奴、生きてるだけ無駄っすよ。どこに行ったって迷惑かけるに決まってるんだから、なんなら失せればいい」
とまで、そいつは吐き捨てた。一人、また一人と、逃げてしまった新人について、そういえばあんなこともあった、こんなこともあった、と、悪いことをたくさん思い出し始めた。そうなると締め切りが差し迫った仕事へのモチベーションが、どんどん下がっていった。設計チームの皆は「勝手にすればいい、しりぬぐいはごめんだ」とばかりに、その仕事を見放し始めた。追い詰められたのは主任であり、何度も何度も、その逃亡者に連絡を試みた。だが、その中途採用の新人は、逃亡したその日のうちに退職届を書いたらしく、翌日には会社の事務所に郵送で届けられた。退職は個人の権利であり、それを留めることは許されない。もう会社の人間ですらない彼に、主任は電話をかけ続けた。その仕事は完全に彼一人に押し付けられており、製品図やなにやらの細かな指定の書類が、ごちゃごちゃになった机のどこに隠されているのか、彼にしか分からない有様だったのだ。
「先方からもう一度、ファックスしてもらいますよ」
助け舟を出したのが、真鍋だった。
「そんなに複雑なものじゃないから、こっちの仕事としては二日あればなんとかなるんじゃないすか。原料はSUSっすよね、幸い、試し打ちできる程度の在庫は残ってます」
深夜まで机にかじりつき、頭を抱える主任に、真鍋は言った。頭の中ではすでに、なんとか切り抜く方策が組み立てられていた。
「問題は現場ですが、ワイヤーのチームに訳を話して、今回はなんとか強行軍で、金型を作ってもらうよう頼むしかないです。俺から山内に話してみましょう」
おまえいい奴だな、もういいんだよ、あんな奴のために真鍋が泥をかぶることはないよ。真鍋だって仕事抱えてるだろ。
主任は言った。真鍋は「俺は別に泥をかぶってるつもりはないっすよ。逃げたあいつだって、実力が伴っていないのに大きく見せてウチに入社してきたんでしょ。こんなんだって分かってたら、どんな町工場も採用するわけない。あいつ、哀れな奴なんすよ」と、答えた。それは一応、真鍋の本心であったーー少なくとも、表面上の真鍋はそう思っていた。
主任は頭痛で青ざめた顔で真鍋を見ると、じゃあ悪いが頼む、俺も協力するから、と言った。
それで真鍋は、この阿呆らしい尻ぬぐいを一手に引き受ける羽目になったのだ。おかげで久々のサービス残業となった。真夜中に帰宅する夫に、妻の由美は物言いたげな表情を見せた。真鍋は特になにも言い訳はしなかった。妻は妻で、スーパーのレジ打ちのパートで頑張ってくれている。せめて自分に構わず先に寝ろとだけ、言っておいた。
(ああ終わった)
真鍋は仕事をやり遂げた。出来の良し悪しはともかく、なんとか納品に間に合ったのだ。それは、一つ二つくらいは改善点が残っていた。粘っこいSUSの特性上、その金型でできあがる小さな製品には不安な部分がいくつかあった。金型の工程のあの部分とあの部分に問題があるーー真鍋には分かっている。だが、時間がもうなかった。納得できないまま納品しなくてはならないことは、この仕事をしていると年に一度くらいはぶち当たるものだ。決して気持ちの良いものではない。ましてや、今回は他人の尻ぬぐいである。
(誰の得にもならねえじゃねえか)
いや。これでいいんだ。
疲れ切った体を引きずるようにして自宅に帰る。妻は既に寝ている。このところ由美は更に太った。ぶくぶくとした体を横たえ、布団で鼾をかいている。台所には総菜のコロッケと刻みキャベツがあり、炊飯器には飯が炊けていた。
せめて子供がいたら、こんな気持ちにはならないのではないか。
子供ができないのはどうしてだろう。
由美。陰気で内気で社交性がない。学校を出てから就職したが、結婚と同時に正社員をやめた。スーパーのレジ打ちを始めたのはつい最近だ。流石に家計に危機を感じたのだろう。
どうしてだろう。
どうしてだろう。
いや。これでいいんだ。
真鍋は微笑んでコロッケのラップを外す。由美は料理が下手だ。だから総菜のコロッケなのだ。しかもこのコロッケは、真鍋の好むコロッケだった。
由美との経緯を思い出す。親戚から見合い話をもちかけられ、会ってみたのが由美だった。由美は見るからに鈍重な女で、一体どこに魅力があるのだろうと思われた。由美の両親も娘の行き先を心配し、相当な数の見合いをさせていたらしい。まあ、まず、誰もこの女を妻にしたいとは思うまい。真鍋はそう思った。だからだ。
(だから俺は、由美と結婚した)
どうしてだろう。
どうしてだろう。
いや、これでいいんだ。
今までも疑問符が脳内で踊りだすことは何度かあった。けれど今回は特にひどかった。どうしてだろうと問いかける声は凶暴なくらいだった。疲れているせいだと真鍋は思った。
否。疲れのせいだけではないことを、真鍋は本当は知っている。原因は、数日前にきたメールだ。所沢愛華からのメールで、小学六年当時のクラスメイトらが、奇妙な偶然にも、今、上梨に揃っているらしいことが分かった。
「真鍋君、お久しぶりです。お元気ですか・・・・・・」
ああ。
真鍋はコロッケを噛み締めながら、蘇りかけた記憶を押し殺したーーなぜ、どうして押し殺さねばならないのか―ー当時、真鍋は弱者とみると踏みにじっていたものだ。そうだ、「嫌われ組」というのがあった。あれも俺たちが作り上げたものだ。よくまあ、のうのうと平気で学校に来られるものだ、と思われる迷惑者、はみだしものを一からげにして、石でもぶつけるかのように追い詰めてやった。俺はあれを快感だと思っていたし、正しいことだと思っていたーーそうだ、正しいことなんだろう、ええ、そうだろうーーおかしなものだ、あんなことを正しいと本気で信じていたなんて、子供は本当に残酷で愚かなものだ。そして俺は子供だったんだ、あの頃はーーいや、おかしくはない、踏みにじってぐちゃぐちゃにして、世間から抹殺したほうが良い者は確かにいるんだからーー本当に、どうしてあんなことができたのか、俺は自分が分からない。
頭がぐるぐるとしてきた。
真鍋は食器棚から安酒を出した。月給は妻に管理されている。真鍋が使うことができる小遣いは僅かだ。高級なものには手が出ない。でもまあいい、飲めるだけ贅沢というものだ。
真鍋はウイスキーを飲み、寝ようと思った。
仕事は終わらせたが、どうせ明日からは先方からの苦情やら問い合わせやらの電話が何度も何度も彼を襲うのは目に見えていた。せめて寝て英気を養わねばーーああ、一体、どうして。俺はいつからこんな俺にーー寝よう、寝るんだ。真鍋は風呂場に向かった。
アハ、呼んだでしょ?
口元を三日月型に吊り上げた、奇妙な「あれ」のことを、真鍋は思い出しかけていた。
(俺は、本当に、どうして・・・・・・)
**
にもかかわらず、真鍋健太がそのことを知ったのは、事件が起きてから一週間くらいたった朝のことだ。
(このところ、仕事が難航していたから)
残業続きで、ほぼ毎日午前帰りだった。最後の日は、金型の試運転のために会社に泊まり込みをした。その仕事は、もとは真鍋の仕事ではなかった。一か月前に入社してきた中途採用の新人のものだった。
「これくらいの金型なら、彼に任せてもいいんじゃないの」
と、主任は軽く考えていた。経験者だというし、まあ大丈夫だろうと、真鍋も思った。新人の実力をかいかぶりすぎていたことが判明したのは、仕事の期限の十日前のことだ。先方から問い合わせがあり、どうなっているのかと確認したところ、その中途採用の新人は黙りこくり、トイレにたった。そのままデスクには戻らなかった。おかしいなと思い、同僚がトイレに見に行ったら、とうの昔にいなくなっており、念のためロッカーを見てみると、荷物がごっそり消えていた。
「逃げやがった」
設計チームは全員で頭を抱えた。一人、どろどろと濃厚な怒りを放ち、逃亡者に対する悪口雑言をぶつぶつ言いまわった者がいた。だいたい、全員がそいつに同感だったが、実力不足の者に仕事を投げつけてフォローしなかった自分たちも悪いことが分かっていた。そのため、言いたいことをぐっとこらえ、今はとにかく何とかして仕事を進め、納品に間に合わせないと、という方向に意見がまとまった。悪口雑言を放つ一人は、チームの中心的な存在で、ムードメーカー的な役割を持っていたため、この一週間、設計チームの皆の心は揺さぶられっぱなしだった。
「あんな奴、生きてるだけ無駄っすよ。どこに行ったって迷惑かけるに決まってるんだから、なんなら失せればいい」
とまで、そいつは吐き捨てた。一人、また一人と、逃げてしまった新人について、そういえばあんなこともあった、こんなこともあった、と、悪いことをたくさん思い出し始めた。そうなると締め切りが差し迫った仕事へのモチベーションが、どんどん下がっていった。設計チームの皆は「勝手にすればいい、しりぬぐいはごめんだ」とばかりに、その仕事を見放し始めた。追い詰められたのは主任であり、何度も何度も、その逃亡者に連絡を試みた。だが、その中途採用の新人は、逃亡したその日のうちに退職届を書いたらしく、翌日には会社の事務所に郵送で届けられた。退職は個人の権利であり、それを留めることは許されない。もう会社の人間ですらない彼に、主任は電話をかけ続けた。その仕事は完全に彼一人に押し付けられており、製品図やなにやらの細かな指定の書類が、ごちゃごちゃになった机のどこに隠されているのか、彼にしか分からない有様だったのだ。
「先方からもう一度、ファックスしてもらいますよ」
助け舟を出したのが、真鍋だった。
「そんなに複雑なものじゃないから、こっちの仕事としては二日あればなんとかなるんじゃないすか。原料はSUSっすよね、幸い、試し打ちできる程度の在庫は残ってます」
深夜まで机にかじりつき、頭を抱える主任に、真鍋は言った。頭の中ではすでに、なんとか切り抜く方策が組み立てられていた。
「問題は現場ですが、ワイヤーのチームに訳を話して、今回はなんとか強行軍で、金型を作ってもらうよう頼むしかないです。俺から山内に話してみましょう」
おまえいい奴だな、もういいんだよ、あんな奴のために真鍋が泥をかぶることはないよ。真鍋だって仕事抱えてるだろ。
主任は言った。真鍋は「俺は別に泥をかぶってるつもりはないっすよ。逃げたあいつだって、実力が伴っていないのに大きく見せてウチに入社してきたんでしょ。こんなんだって分かってたら、どんな町工場も採用するわけない。あいつ、哀れな奴なんすよ」と、答えた。それは一応、真鍋の本心であったーー少なくとも、表面上の真鍋はそう思っていた。
主任は頭痛で青ざめた顔で真鍋を見ると、じゃあ悪いが頼む、俺も協力するから、と言った。
それで真鍋は、この阿呆らしい尻ぬぐいを一手に引き受ける羽目になったのだ。おかげで久々のサービス残業となった。真夜中に帰宅する夫に、妻の由美は物言いたげな表情を見せた。真鍋は特になにも言い訳はしなかった。妻は妻で、スーパーのレジ打ちのパートで頑張ってくれている。せめて自分に構わず先に寝ろとだけ、言っておいた。
(ああ終わった)
真鍋は仕事をやり遂げた。出来の良し悪しはともかく、なんとか納品に間に合ったのだ。それは、一つ二つくらいは改善点が残っていた。粘っこいSUSの特性上、その金型でできあがる小さな製品には不安な部分がいくつかあった。金型の工程のあの部分とあの部分に問題があるーー真鍋には分かっている。だが、時間がもうなかった。納得できないまま納品しなくてはならないことは、この仕事をしていると年に一度くらいはぶち当たるものだ。決して気持ちの良いものではない。ましてや、今回は他人の尻ぬぐいである。
(誰の得にもならねえじゃねえか)
いや。これでいいんだ。
疲れ切った体を引きずるようにして自宅に帰る。妻は既に寝ている。このところ由美は更に太った。ぶくぶくとした体を横たえ、布団で鼾をかいている。台所には総菜のコロッケと刻みキャベツがあり、炊飯器には飯が炊けていた。
せめて子供がいたら、こんな気持ちにはならないのではないか。
子供ができないのはどうしてだろう。
由美。陰気で内気で社交性がない。学校を出てから就職したが、結婚と同時に正社員をやめた。スーパーのレジ打ちを始めたのはつい最近だ。流石に家計に危機を感じたのだろう。
どうしてだろう。
どうしてだろう。
いや。これでいいんだ。
真鍋は微笑んでコロッケのラップを外す。由美は料理が下手だ。だから総菜のコロッケなのだ。しかもこのコロッケは、真鍋の好むコロッケだった。
由美との経緯を思い出す。親戚から見合い話をもちかけられ、会ってみたのが由美だった。由美は見るからに鈍重な女で、一体どこに魅力があるのだろうと思われた。由美の両親も娘の行き先を心配し、相当な数の見合いをさせていたらしい。まあ、まず、誰もこの女を妻にしたいとは思うまい。真鍋はそう思った。だからだ。
(だから俺は、由美と結婚した)
どうしてだろう。
どうしてだろう。
いや、これでいいんだ。
今までも疑問符が脳内で踊りだすことは何度かあった。けれど今回は特にひどかった。どうしてだろうと問いかける声は凶暴なくらいだった。疲れているせいだと真鍋は思った。
否。疲れのせいだけではないことを、真鍋は本当は知っている。原因は、数日前にきたメールだ。所沢愛華からのメールで、小学六年当時のクラスメイトらが、奇妙な偶然にも、今、上梨に揃っているらしいことが分かった。
「真鍋君、お久しぶりです。お元気ですか・・・・・・」
ああ。
真鍋はコロッケを噛み締めながら、蘇りかけた記憶を押し殺したーーなぜ、どうして押し殺さねばならないのか―ー当時、真鍋は弱者とみると踏みにじっていたものだ。そうだ、「嫌われ組」というのがあった。あれも俺たちが作り上げたものだ。よくまあ、のうのうと平気で学校に来られるものだ、と思われる迷惑者、はみだしものを一からげにして、石でもぶつけるかのように追い詰めてやった。俺はあれを快感だと思っていたし、正しいことだと思っていたーーそうだ、正しいことなんだろう、ええ、そうだろうーーおかしなものだ、あんなことを正しいと本気で信じていたなんて、子供は本当に残酷で愚かなものだ。そして俺は子供だったんだ、あの頃はーーいや、おかしくはない、踏みにじってぐちゃぐちゃにして、世間から抹殺したほうが良い者は確かにいるんだからーー本当に、どうしてあんなことができたのか、俺は自分が分からない。
頭がぐるぐるとしてきた。
真鍋は食器棚から安酒を出した。月給は妻に管理されている。真鍋が使うことができる小遣いは僅かだ。高級なものには手が出ない。でもまあいい、飲めるだけ贅沢というものだ。
真鍋はウイスキーを飲み、寝ようと思った。
仕事は終わらせたが、どうせ明日からは先方からの苦情やら問い合わせやらの電話が何度も何度も彼を襲うのは目に見えていた。せめて寝て英気を養わねばーーああ、一体、どうして。俺はいつからこんな俺にーー寝よう、寝るんだ。真鍋は風呂場に向かった。
アハ、呼んだでしょ?
口元を三日月型に吊り上げた、奇妙な「あれ」のことを、真鍋は思い出しかけていた。
(俺は、本当に、どうして・・・・・・)
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