ひとりたりない

井川林檎

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 「ママ。ママ」

 薄く目を開く。違和感は強烈に続いており、特に寝起きは全身の倦怠感が強かった。
 
 (どれくらい続くんだろう、ああ)
 自分の腹部に手をやる。未だそこには兆候は見られないが、体調がいやというほど「それ」の存在を主張している。
 妊娠判定薬をドラッグストアで買ったのが二週間前。その日の午前、忌まわしい線が二本見られた。線が二本で妊娠確定なのか、取扱説明書の見間違いではないのか何度も確認した。ものを読んで書いてあることを理解するのは得意中の得意だったが、人間は焦ると失敗をやらかすことも分かっている。今自分は焦っている。だから、たぶん見間違いではないのか。

 もちろん、妊娠していた。
 それは、ぐるぐると根底を揺さぶるような重たげな体調の異変や、ものを食べたら気分が悪くなるといった今まで見られなかった兆候がはっきりと示していた。
 洋子が認めなければ認めないほど、その兆候は「これでもか」とばかりに、たたみかけてきた。確実に、自分以外の生き物が自分の体内に生息し、自分の意思を叫びだしていた。
 (どうして)
 次に洋子が考え始めたのは、いつ、どうしてということだ。男は何人もいる。タイミングが悪かったのだ。一人の男から次の男に移る狭間に、それは起きた。避妊は万全にしていたはずだ。それはしつこいくらいに男に確認したし、男の方も後々の面倒はごめんだと言わんばかりに、これ見よがしに避妊具のパッケージを洋子の見えるところにさらしていた。誰にも望まれないものを生み出すことはないーーだけど、そんなリスクを背負うくらいなら、そもそもそんな「こと」しなくても良いのではないのーー洋子は自分の病を憎んでいた。得られる快感は刹那的なもので、人生をかけるほどのものでは、到底なかった。洋子が欲しいものは永久的なもので、そんな「こと」では、とても足りなかった。そのくせ、その「こと」は強烈で、ほんの一時的なドーパミングのような効果をもっていた。だから洋子は、もっと、もっととばかりに求め続けた。そして、世界はそれに応じたのだった。

 誰のものかは分からない胤を宿した。
 そして、それを誰にも知られるわけにもいかなかった。
 うまくいっている予備校講師の仕事を休んででも故郷に戻らなくてはならないのは、そういう理由からだ。

 (ママとパパがアメリカにいってくれているから)
 不幸中の幸いだった。両親は半年おきにアメリカと日本を行き来している。学問の仕事がどれほど忙しいものか、洋子はおぼろげに理解している。その多忙さは、いわゆる普通の仕事の忙しさではなく、もっと大掛かりで、もっと人生を左右するようなものだ。人がおののくような異動を、いとも軽やかに日常的に行うのが、両親の仕事なのだ。
 (次は日本の地方で講演会があると言っていたから。それは冬になると言っていたから)
 頭の中でぐるぐる計算が走る。それは絶望を伴っている。洋子の両親が帰国するのは、計算上、ちょうど洋子が臨月を迎えるころだ。もう少し遅く戻ってきてくれるならごまかしようがあるというものだ。しかし、もうじき生まれる時に、どうして隠すことができよう。

 洋子は悩み続けている。
 すぐれない体調に伴い、思考はどんどん深く暗く攻撃的な方向に落ちてゆく。
 こんなことになった人生や自分自身や、あらゆるものを、洋子は憎みたくなる。

 だが。

 「ママ」

 微かに響く愛らしい幻聴。
 それは確かに下腹にいた。ママ、と呼びかける声は無心で、洋子の都合をまるで考えていないかわりに、そこなしに愛らしいのだった。
 愛らしい。愛らしい。

 (こんなふうに子供は生まれるのだろうか)
 ふと洋子は思う。体を布団から起こし、枕もとのスマホを取った。
 大友優から電話があったのは昨日のことだ。「嫌われ組」。いろいろと、心の琴線に触れる記憶である。

 あの頃、洋子は思っていた。
 誰も好き好んで生まれてくるわけじゃない、と。命なんて、簡単なものなのだと。だから、どこにでもいき、消えてしまえば良いのだと、特に自分に不快な思いをさせる連中に対し思っていた。

 だが、今は。

 (あらゆることが、もっと簡単明瞭なら、この世は生きやすいだろうに)

 洋子は神様というものを憎んだが、その代わりに、自分の腹に宿ったものが、ほんの僅かに愛おしくなっていた。その愛おしさは日に日にわずかずつ募っているが、洋子は未だ、そのことを認めるほど、強くはなれなかった。
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