ひとりたりない

井川林檎

文字の大きさ
上 下
5 / 46
1

しおりを挟む
 マージンは取りすぎてはならないし、詰めすぎてもならない。「読ませる」本にするならば、デザインはシンプルなものが良い。デザイナーが主張しすぎては、一体、なんのための本なのか。
 (読み易くてナンボじゃないの)
 
 頭痛のせいで目が覚めた。無意識に左手でとなりを探るが、あまりにも空虚な手ごたえのために、はっとしたーーいない、またかーーぞわっと毛穴が立つような感覚。むらむらっと込み上げるのは怒りに似ているが、怒りではない。どちらかと言えば悲しみ。
 悲しみすぎると、自分の中に得体のしれないものが入り込む。自分が自分ではなくなる。だから、別れようと思った。
 そうだ、別れたのだ。もう、とっくに。
 
 目を開くと、真っ白な天井があった。田舎町で唯一のウィークリーマンション。本来はアパートだが、田舎過ぎて誰も使わないので、せめてもっと融通を効かせようと一週間単位で貸し出すプランを設けた。どっちにしろ、儲かるわけがない。コンビニは数えるほどしかなく、二つあるスーパーに行くにも、このアパートからでは遠すぎる。
 寝すぎて体が痛かった。
 久美は、若干太り過ぎた体を重たく起こしながら、枕もとのスマホと眼鏡を手に取る。上梨に戻って、はや二週間目に入る。いい加減、なんとかしなくてはと思うが、この町は何をするにしても具合が悪すぎた。いっそ、県庁所在地まで出て、そこでアパートを借りようかと思ったが、それでは意味がないとすぐに気づいた。

 静養のために戻ってきているのだ。故郷に。
 県庁所在地となれば、ただの都会だ。今まで仕事をしてきた場所となんら変わりがない。久美は静謐が欲しかった。みんな関係ない、わたしはわたしだけで空気が吸いたい。社会人になって二十年、自分は頑張りすぎた。筋金入りの昔根性の編集者としてアナログな知識を精いっぱい駆使して、良いものを作り上げてきた。
 今はなんでもデジタル化している。
 おかげで費用がかからず済んでいる。なんでもかんでも好きなようにできる。ちょっと前の「組版」では、考えもつかなかった型破りなデザインも、どんどん出回っている。常識が通用しなくなっている。新人が、斬新さは正義なりといった顔で、さもできるような様子で、とんでもないいい加減なものを、ざっぱざっぱと世間に送り出している。
 質が落ちている。
 声を枯らして叫びたくても、もはや自分の声など誰にも届かない。一方で、確かにアナログな知識は必要とされている。それはそうだ、基本はどこにでもあるのだから。
 
 「今の子は基本がないままパソコンでなんでも進めてしまう」
 辞めようとする久美を引き留めてくれたのは、社長だった。編集プロダクションを立ち上げ、必死に経営してきた生粋の編集者だ。ぶあつく古めかしい編集校正のテキストを後生大事に読み返し、もう何十年もこの仕事を続けているくせに、未だその本を参考に、飾らないつまらない読み易い上質な書籍を作ろうとしている。
 「岸本君は、必要な編集者だ。出来合いの編集者は現れてはすぐに流れて消えてしまうが、岸本君はいつまでも根付く仕事をするだろう」
 しわしわの茶色い手には、校正の朱がこびりついている。ペンと紙。編集者はそこから離れられない、というか、離れてはならない。時代がなにをどれほど叫ぼうとも。

 「退職を認めたわけではない。これは休職だ」
 と、社長は言った。
 それも、とてもアナログな考え方であることを久美はよく分かっていた。今時、社員は好きなように辞める権利を持っている。それを引き留めるのは越権行為であり、下手をすれば法で裁かれなくてはならない。
 いくら社長でも、その常識は知っているはずだ。だけど、やはり古い頭だから、古い言葉を吐き出してしまうのだ。
 古いものは役に立たないのだ。良いものであることは分かっているけれど、時代が認めないなら仕方がない。

 休職。
 仕事からの休息。人生からの休息。確かにこの田舎は、骨休めには最適だと思う。なにせ、アパートから出ても、滅多に人と出くわさないのだから。

 だるい体を持ち上げるように立ち上がる。畳にしかれた布団は一組だけ。別れた男は、今どこで何をしているか分からない。ましてや、久美がこの上梨にいることなど知っているわけもない。男は若かった。その若さが良いと思って、長く付き合った。やがて男の若さは永遠ではないことに、久美も、男自身も気づき始めた。男は若さにしがみつこうと必死になっていたし、久美は男に若くいて欲しかった。
 若さこそ価値があること。だけどその価値観は、根本から久美の性質と食い違うものだった。結果、男は久美を食い荒らすことしかしなかったし、久美は男をこれっぽちも愛していなかった。お互い、誰でも良かった。少なくとも久美の方がそれに気づき、別れを切り出したのだった。

 ちゃぶ台には昨日買い置きしておいたコンビニ弁当が乗っている。歩いて三十分の場所にコンビニがあり、毎日そこまで散歩して戻ってくるのが日課になっていた。久美の休養には、無理のない運動も含まれている。
 どっしりと座り込むと、コンビニ弁当を開いた。総菜の臭いがむうっとたった。冷蔵庫がないから、弁当の下に保冷剤を置いていた。とっくに保冷材は解凍していた。

 ちらちらとスマホを眺めてニュースを吸収する。メディアから離れられないのは、もう病気だと思っている。世界ではなにが起きているか、日本の経済は今、どうなっているのか。人より遅れるのはプライドが許さなかった。
 編集者として。

 ポータルサイトのニュースを流し読みしていたが、思いがけず「上梨」という文字を拾い上げ、はっとした。
 上梨。上梨小学校六年女児。
 なにかぞわぞわと背中に走るーーなんだろう、この既視感はーー機械的にニュースを拾い上げる。「もっと読む」のボタンを押すーー上梨小学校六年女児、プールの授業中に謎の失踪、事件性、警察。ごくんと卵焼きを飲み込んだ。傷みかけた酸い味が舌を不快に刺激し、一瞬、えづきかけた。

 るるるるるる。
 その時、スマホが震えながら着信音を発した。
 とがった目つきで久美はスマホを睨んだ。「もやし」と、そこには表示されている。もやし。スーパーで売っている、あれではない。もやしは、もやしだ。このタイミングでもやしから電話がきたことと、もやしの電話が自分のスマホに登録されていたことに、衝撃を受けた。いつ。どうして。でも登録されている。
 記憶の中に空白があるらしい。久美はなにか、ぞうっとした。

 時間を見ると、もう昼の12時を過ぎている。旧友から電話がかかってくるのに非常識な時間ではなかった。
 久美は恐る恐る、電話に出た。

**
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

教師(今日、死)

ワカメガメ
ホラー
中学2年生の時、6月6日にクラスの担任が死んだ。 そしてしばらくして不思議な「ユメ」の体験をした。 その「ユメ」はある工場みたいなところ。そしてクラス全員がそこにいた。その「ユメ」に招待した人物は... 密かに隠れたその恨みが自分に死を植え付けられるなんてこの時は夢にも思わなかった。

茨城の首切場(くびきりば)

転生新語
ホラー
 へー、ご当地の怪談を取材してるの? なら、この家の近くで、そういう話があったよ。  ファミレスとかの飲食店が、必ず潰れる場所があってね。そこは首切場(くびきりば)があったんだ……  カクヨム、小説家になろうに投稿しています。  カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330662331165883  小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5202ij/

終電での事故

蓮實長治
ホラー
4つの似たような状況……しかし、その4つが起きたのは別の世界だった。 「なろう」「カクヨム」「アルファポリス」「pixiv」「Novel Days」に同じモノを投稿しています。

○○日記

月夜
ホラー
謎の空間に閉じ込められ、手がかりは日記のみ……? 日記は毎日何者かが書き込み、それに沿って部屋が変わっていく 私はなぜここに閉じ込められているのだろうか……?

咎の森

しぃ
ホラー
その家には近づいてはいけない。

【完結】復讐の館〜私はあなたを待っています〜

リオール
ホラー
愛しています愛しています 私はあなたを愛しています 恨みます呪います憎みます 私は あなたを 許さない

【連作ホラー】伍横町幻想 —Until the day we meet again—

至堂文斗
ホラー
――その幻想から、逃れられるか。 降霊術。それは死者を呼び出す禁忌の術式。 歴史を遡れば幾つも逸話はあれど、現実に死者を呼ぶことが出来たかは定かでない。 だがあるとき、長い実験の果てに、一人の男がその術式を生み出した。 降霊術は決して公に出ることはなかったものの、書物として世に残り続けた。 伍横町。そこは古くから気の流れが集まる場所と言われている小さな町。 そして、全ての始まりの町。 男が生み出した術式は、この町で幾つもの悲劇をもたらしていく。 運命を狂わされた者たちは、生と死の狭間で幾つもの涙を零す。 これは、四つの悲劇。 【魂】を巡る物語の始まりを飾る、四つの幻想曲――。 【霧夏邸幻想 ―Primal prayer-】 「――霧夏邸って知ってる?」 事故により最愛の娘を喪い、 降霊術に狂った男が住んでいた邸宅。 霊に会ってみたいと、邸内に忍び込んだ少年少女たちを待ち受けるものとは。 【三神院幻想 ―Dawn comes to the girl―】 「どうか、目を覚ましてはくれないだろうか」 眠りについたままの少女のために、 少年はただ祈り続ける。 その呼び声に呼応するかのように、 少女は記憶の世界に覚醒する。 【流刻園幻想 ―Omnia fert aetas―】 「……だから、違っていたんだ。沢山のことが」 七不思議の噂で有名な流刻園。夕暮れ時、教室には二人の少年少女がいた。 少年は、一通の便箋で呼び出され、少女と別れて屋上へと向かう。それが、悲劇の始まりであるとも知らずに。 【伍横町幻想 ―Until the day we meet again―】 「……ようやく、時が来た」 伍横町で降霊術の実験を繰り返してきた仮面の男。 最愛の女性のため、彼は最後の計画を始動する。 その計画を食い止めるべく、悲劇に巻き込まれた少年少女たちは苛酷な戦いに挑む。 伍横町の命運は、子どもたちの手に委ねられた。

デス・アイランド

汐川ヒロマサ
ホラー
死んだはずのクラスメイトに『コカ島』に集まるように言われ高校三年生の男女六人は船で向かった。島に着き、長い山道を登ると山小屋があり、中で見つけた紙には『お前たちを許さない』と書かあり裏には『六人で殺し合え』と書いてあった。本気にしてなかった六人だったが、その夜一人目の犠牲者が出た。いったい誰が……。果たして彼らは生きて島を出られるのか――。

処理中です...