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戦い

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 停滞期は醒めない夢のよう。黒いゴムのように伸びて終わりが見えない。
 けれど、トンネルが終わった後は、どうして時間の流れはこんなに早いのか。

 4月はあっという間に過ぎ、季節はどんどん力を持った。花々は、薄く淡いものから濃くて強いものへ。梟荘の庭にたんぽぽが咲き乱れる頃には、もうわたしは、多忙に慣れていた。
 鬱屈していた時期は多忙が怖かった。編集プロの時のトラウマが蘇りそうで、どこかに必ず余力を残しておかなくては逃げ場が亡くなる気がしていた。
 けれど、いざ飛び込んでしまえば、逃げるも退くもない、目の前の事をいかにして片づけるかが最優先になる。井上さんはさびれたコンビニだけで食べている人ではなく、ネットのお仕事がむしろ彼の本業らしかった。
 正社員登用されてから、井上さんがくたびれきっている理由が分かった。

 日中はパソコン、夜はコンビニの店番。
 眠る時間が減り、生活のリズムが大きく変化する。ふっと我に返った時に目に映る季節があまりにも輝いていた。
 つゆ草の青に目を見張り、野良猫のサカる声に苦笑する。梟荘は一人で住むには広すぎたが、孤独は多忙が打ち消した。

 トレーナーがロングTシャツに、やがて半袖にと普段着が姿をかえる頃、夢を繰り返し見るようになった。
 「容赦は不要、わかった、不要なのよ」
 怖い顔をしたマイ・マザーがどどんとドアップで迫ってくる。吐息が顔に掛かるような生々しさで、うわっと目が覚める。なんなんだろう今のは、と思うけれど忙しくてすぐに夢のことなど忘れてしまう。
 しつこく、しつこく、その夢は続いた。だけどわたしは、実際に「それ」が起きるまで、夢のことなど気にもかけなかったのである。

**

 あんなに用心していた施錠を忘れたことに気づいたのは、昼寝から目覚めてからだった。
 はっと気づいた時、自室に差し込む日差しは赤味を帯びており、時間がずいぶん経過したことを示していた。わたしは慌てて目覚ましを取り上げ、おやと思う。セットしていた時間より若干早めに目覚めている。だけどわたしは確実に、なにかに驚いて覚醒したのだ。
 (なんの音だっただろう)

 ずきずきと頭が痛い。不規則な睡眠のせいだ。
 タンクトップの上に一枚かぶると、よっこらしょとベッドから立ち上がる。今夜は夜勤だ。いい加減、支度を始めなくては。

 ふらっと自室を出ようとした瞬間、差し込むような頭痛が起きた。一閃の光が貫くような感覚が走り、同時に「容赦は不要」という怖い母の声が耳元で聞こえた。
 一瞬、母が唐突に帰宅し、梟荘にいるのではないかと思った。梟荘の中で誰かが動くような気配がしたからだ。
 母なら鍵を持っているだろうし、と思った瞬間、あっとわたしは思い当たる。昼寝する前に、わたしは玄関の鍵をかけただろうか。

 スーパーに買い物に行き、帰ってきて昼食を取って、それから玄関の汚れが気になって軽く掃除をした。その時、もしかしたら施錠し忘れたかもしれない。
 思い出せば思い出すほど、自分は鍵をかけなかったと確信した。呑気に昼寝の余韻にひたる一方で、なにか不穏な感じが背中に忍び寄る。
 かたん。また音がする。そうだ、わたしはこの音に驚いて目を覚ましたのだ。

 「優菜」
 おそるおそるわたしは小さく呼んだ。
 奔放な優菜が気まぐれに梟荘に帰ってきて、酒を飲んで泊ってゆくことは普通にある。けれど、この平日の真昼間にそれはないだろう。判っていた。ただならぬことが起きている。
 そっと、携帯電話を掴んで尻ポケットに入れた。思い切って扉を開いて廊下に出たが、しいんと静かな梟荘の廊下が伸びているだけだ。

 横目で玄関を見ると、格子から夕暮れが近い色の光が差し込んでいて、石畳の床に縞を作っていた。

 いっそのこと、玄関から外に出ようかと思ったけれど、その時もっとはっきりと、明らかに、優菜の部屋から音が聞こえた。

 やっぱり優菜か、と、呆れた。こんな時間に仕事をさぼってきたか。仕方がないなあ。
 「優菜、黙って入ってこなーい」言いながら優菜の部屋にどかどかと近づき、一応ノックした。すると、中からごそごそ近づいて、扉を開く様子がうかがえた。
 薄く扉が開き、顔が見えた瞬間、わたしは自分の不用心を呪った。叫ぼうとした瞬間、真正面から重たいものが振り下ろされて、鼻から前頭部に抜けるような焦げ臭い痛みが走った。
 わたしは失神した。

**

 「そのうちそっちに帰るよ。親子丼でも作っといて」
 母の声。だけどこれは、幻聴。
 なにが親子丼だ。なにがそのうちだ。いきなり魔女になるとか言って、勝手に梟荘を出て。
 思えば、母が出て行ってから目まぐるしく色々なことがあった。いつか二人で親子丼を食べながら、語る日が来るのだろうか。
 
 ずきずきと頭が痛い。ぬるっと流れて来たものが口に入る。鼻血を流しながらわたしは目を覚ました。
 馴染みのあるカーペットの柄が目に入る。どうやらここは沙織の部屋だ。ふっと横を向くと、華奢な足首が見えた。シフォンのように柔らかなベージュのスカートがひらりとそよぐ。ふんわりと甘い香りが漂った。

 立ち上がろうとしたが、手足がぎちぎちに拘束されていてままならない。芋虫のように、わたしは首だけを持ち上げて相手を見上げた。

 レースのカーテンから入る逆光が、その人を黒い影にした。
 深い影の中から、光る眼で早川芽衣が見下ろしている。

 「沙織どこにやったのよー」
 明日の天気は晴れよー。そういう感じで、芽衣さんは言った。
 片足で長い毛足のカーペットを苛々と踏んでいる。唇は笑っているけれど、目は見開かれてらんらんと光っていた。
 
 わたしは――情けないことに、この時点で身がすくんでいた。異様な状況に怯えるのと同時に、芽衣さんという形に凝縮された、いろいろなトラウマに打ちのめされたのだ。
 とんとんとうまく行っていた矢先に出くわしたこのアクシデントは、これまでの嫌な事、辛いこと、逃げて来たことを思い出させるのに十分な威力を持っていた。
 「この虫けら、つまはじき、あんたなんか良い思いをする権利なんか、この世にはないのよ」
 芽衣さんが実際にそう言ったかどうかは定かではないが、わたしの混乱した頭には、芽衣さんの声で、そう再生された。

 凍り付いて、声すら出ないわたしに、もう一度芽衣さんは言った。沙織はどこ。そして、ゆっくりと近づくとわたしの顔の前に膝をつき、うごけないわたしのTシャツの襟を掴んだ。

 真正面に、目を剥いた悪鬼のような芽衣さんがいた。

 手首に力を込めた。一体何で拘束してあるのだろう。結束バンドだったらアウトだ、と思って必死に動かしていたら、意外にゆるくなった。紐みたいなもので括ってあるだけだ。
 僅かだけど、気持ちに余裕が生まれた。息がかかるほど近い芽衣さんの顔を、わたしは上目で見た。本当は睨んでやりたいけれど、それをするにはまだ意気地が足りなかった。

 「警察を呼びますよ」
 と、わたしは言った。やっと絞り出した声である。
 瞬間、芽衣さんの片手があがり、わたしは猛烈に頬を張られていた。喉が絞められたように声が出ない。ひいと小さく鳴いて、わたしはカーペットに転がった。だけどその瞬間、ゆるんでいた手首が完全にとけて、後ろ手になったわたしの両手は自由になった。

 「あんたみたいな分際で、なにを言ってんのよー」
 と、芽衣さんは立ち上がると、寝転がっているわたしの下腹部を蹴った。さすがに息が詰まりかける。容赦のない相手の力に、これは本気らしいと改めて気づいた。
 芽衣さんは悪鬼のような顔つきになんの表情も浮かべていない。目は冷たい光を放っている。

 「社会的立場を抹殺して、どこにも受け入れられなくしてやっても良いのよー。井上さんだっけ、あんたんとこの社長に、あんたが無責任で、どっかおかしいせいで人間関係がうまくいかなくて、どんな仕事も長続きしないって、耳に入れてやってもいいのよー」
 
 わたしには味方がたくさんいるのよ。
 なんなら、大勢であんたを追い詰めてやってもいいの。
 どこにいっても、無視される。仕事なんかある日唐突に、干されてしまう。買い物に行っても、美容院に行っても、あんたに対してだけは冷たくあしらわれる。そしてそれに対して苦情を言いでもしたら、逆にあんたが最悪なクレーマーとして世間に晒されることになる。
 「それがわたしにはできるのよー」

 知ってるでしょ。
 芽衣さんは、にいと綺麗にカーブを描いた唇の両端を吊り上げた。

**

 「山崎さんに仕事回さないでいーよ」
 編集プロのフロアから聞こえて来た声。トイレから戻って来たわたしは、寒い廊下で立ち止まり、部屋の中に入れなくなる。
 
 ぐうっと内臓が口にせり上がってくるような恐怖。冷たいもので背筋を撫でられたかのような感覚。
 生きることはどうしてこんなに難しいんだろう。ずっと昔から、わたしはこれと戦ってきた――否、逃げて来た気がする。

 子供の頃は、クラスメイトの輪から外れながらも隅っこで生きていた。
 母が凛と強く物事を切り開いている後ろで、わたしは常に下を向いていた。

 「たる子、よく見なさい。こうやって地に足をつけて生きるの」
 母の背中を、果たしてわたしは正視したことがあっただろうか。せっかく母が身を持ってわたしに見せようとしてくれた「まっとうな生き方」を、わたしはこれっぽっちも受け入れなかった。
 
 「たる子の名前は、『足るを知る』子になって欲しくてつけたのよ。幸せを、自分を、全てのことの『足るを知る』子になって。そうして生きて行って」

 足るを知る。
 今ここにある良いものを見つめて、その価値をちゃんとわかって、しっかり足を踏みしめて生きて。
 「あんたには価値がある。あんたは胸を張りなさい」

 どしんと背中をどつかれた気がした。
 わたしはぼんやりと、芽衣さんを見ていた。こうしている間も芽衣さんは足でわたしを蹴っている。がんがん、ごん。価値がない、あんたなんか誰にも気にかけられない、いらない――芽衣さんが暴力を振るう度に、わたしは汚いごみになってゆく。
 「ねっ、言いなさいよー、沙織どこにやったのよ。アンタわたしに何をしたか分かってる。沙織に会わせてって頼んだじゃないのー」

 ぐりぐりと顔を足でにじられる。鼻が潰れて痛い。
 背後の両手はとっくに自由になっていたが、わたしは何もできないまま、踏まれていた。

 今わたしの中では、なにか途方もない戦いが起きている。絶対に負けてはならない戦いだと判っている。けれど、今にも負けそうな自分がいた――だって、わたしには価値がない。

 思い出す。
 「山崎さんは、おかあさん一人で育てられた子だからねー、仕方がないよねー、色々あっても」

 あの子と遊んじゃ駄目って言われてる。
 仲良くしていた友達から、そう言われた日のこと。
 
 裾がほつれた制服を着ていたら、さりげなく言われたこと。
 
 違う。わたしはもとから人付き合いが苦手だった。それは母がシングルマザーであることとは関係がない。制服がほつれているのも、ハンカチを忘れて来たのも、算数が苦手だったのも、母とは関係がない。
 それにしても、どうしてこんな、走馬灯のように昔のことを思い出すのだろう。ぐりぐりと足の裏が気持ち悪く肌にへばりついた。汚らしい、なんだこの足。

 「あんたは価値がある」
 確かに聞こえた。母が、耳元で囁いている。魔女になったらテレパシーが使えるようになるのか。殴られたようにわたしは目を見開く。芽衣さんの足の裏が顔から離れた。

 はっと見上げると、芽衣さんがだらだら泣いているのが見えた。ぐちゃぐちゃの顔、子供が欲しいおもちゃを取り上げられたような顔。
 芽衣さんはじたんだを踏んでいる。

 「ねっ、沙織に会わせて。わたし母親なのよ。あんた一体、わたしに何をしたか分かってるのっ」

 沙織何処よ。ここにいないのは分かってるのよ、何処にいったのよ。
 それよりあんた、まずわたしに謝んなさいよ。酷いことしてごめんなさいって、土下座しなさいよっ。

 実の母親に、子供を引き合わせなかった加害者だった、わたしは。
 対して芽衣さんは哀れな被害者である。酷いことをされて、泣き崩れている。
 持ち上がりかけていた怒りがシューと小さくなり、わたしはおろおろと自分を責め始める。そうだ、わたしは酷いことをした、芽衣さんに謝るべきなのか。ごめんなさい、と頭を下げればここは丸く収まるのか。

 心が大きく揺れた時、ぐうっと怖い映像が目の前に迫ってきて、今度こそわたしは悲鳴をあげた。
 出なかった声がやっと出た。ぎゃああああ。

 そこにいる、狂った芽衣さんではなくて、それは、憤怒の形相をした母の顔だった。
 目を吊り上げ、今にもびんたをしそうに手を構えた母が、わたしの前に顔を突き出し、蛇の這うような声でこう言った。
 「情け無用だと、何度いったら分かるの」

 ぎゃああああ、と、わたしは叫んだ。
 わたしの恐怖の対象が、芽衣さんでも、過去のトラウマでもなく、怒っている母に切り替わった時、わたしの中で何かが弾けた。

 後ろ手にされたまま動かさずにいた両手をばっと開くと、わたしは芽衣さんの両足首をつかんで思い切り引いていた。
 きゃあっと叫ぶと、芽衣さんは真後ろに倒れた。

 「死んだっておまえなんかに謝るもんかー」
 と、わたしは怒鳴ると立ち上がろうとして派手に転んだ。自由になったのは両腕だけであり、足首はまだ拘束されている。
 あわあわと動いているうちに、沙織の部屋の扉ががたんと開き、わたしは廊下に転がりだした。部屋の中からは、いったあ、酷い酷い、と、異様な号泣が響いている。思うようにならないことに対して、芽衣さんが癇癪を起している。

 「くそっ」
 わたしは自由になった両手で、ひもで縛られた両足をなんとかほどいた。芽衣さんの力で縛ったひもは、そんなに固いものではない。こけつまろびつ廊下を走り、台所の玉暖簾の前を過ぎた。台所からは呑気に夕方のラジオ番組が漏れ聞こえている。
 
 逃げよう。そして叫ぼう。タスケテ、警察と。
 靴下のまま玄関から飛び出そうとした時、梟荘の前に、黒いクラウンがすうっと着て止まるのが見えた。

 玄関から降りて門に駆け寄ろうとしていたわたしは、愕然と立ち止まった。そうしているうちに、わあわあひいひいと、ヒステリックに叫びながら芽衣さんが駆けてきて、玄関のところに立ち、柱にしがみ付いて「山崎たる子お」と、わめいた。
 
 ばらばらとスーツの男の人たちが飛び出してきた。
 一人はわたしの前で立ち止まり、もう二人は梟荘の玄関に駆けのぼって、素早く芽衣さんを抱きとめた。女王のように護られながら、芽衣さんは悲壮な泣き方をした。

 「大変申し訳ございませんでした。この件はくれぐれもご内密に。もちろんお詫びはいたします、どうか……」

 心からの謝罪、真摯さ。そして、圧倒的な圧力。
 のしかかる黒い影のようなスーツの男性。わたしはがたがた崩れそうな足でふんばり、その人を見上げた。
 
 内密に。
 お嬢様は御病気で。
 本当に申し訳ありません。本当に、本当に、本当に……。

 
 だけど、もうわたしは惑わされなかった。
 言う事をきかない足腰のせいで、べたんとその場に座り込んでしまったが、お尻のポケットから携帯を取り出すことはできた。
 スーツの男性の表情が変わる。手が伸びる。けれど、わたしはその手を振り払い、かけるべきところに電話をかけることができたのである。

 「警察ですか、早く来てください、早く、早く……」

 なにごとかと、ご近所のひとたちが集まってくる気配を感じる。

 わたしはその場に倒れた。赤く染まる夕焼け空が映る。なんてことを、と、恨めしそうに言うスーツ男の声が聞こえたが、いい加減にしろ、勘違いもほどほどにしろ、と思うだけで、心はこれ以上動かなかった。

 わたしはもう、付けこまれない。
 わたしには価値がある。されて良いことと、そうではないことが普通にある。
 無視とか。職場で干されるとか。ハブられるとか。シングルマザーに育てられたせいにされるとか。そんなもの、されていいわけがない。どうして、そのまま俯いていなくてはならない。

 「ほんっと、馬鹿だねー。あったりまえでしょー」
 あきれ果てて放り投げるような母の声が、どこか遠いところから落ちて来た。わたしは目を閉じた。あー、井上さんに今夜のバイト厳しいですって連絡しなくちゃなあ。そう思いながら、ぐるぐると螺旋のような意識の階段を、急激に落下していったのだった。
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